読書記録『空飛ぶタイヤ』

ある日、大切な家族の命が一瞬にして奪われる。
想像したくもないことだが、想像したことが無い人はほとんどいないだろう。
では、ある日、誰かの愛する家族の命を奪ってしまったら・・・?
『空飛ぶタイヤ』は、命を「奪ってしまった」側を主人公とした物語だ。

何の罪もない人々が犠牲になる事件や事故は毎日のように起きる。
私たちはそのたびに犠牲者や遺族を悼み、加害者を憎み、時には徹底的に叩く。
その大半の人は、強い正義感から批難しているだろう。
しかし、私たちは「加害者」の立場になって考えたことがあるのだろうか?

メディアの情報がすべてではないことは自明である。
一つの事故や事件の当事者は、「被害者」と「加害者」だけではない。
事故や事件という「結果」には、それまでの被害者と加害者を取り巻いてきた非常に複雑な「経緯」がある。
それら経緯に目を瞑り、「誰が悪いか」という二元論的な思考は非常に危険なものだということを改めて思い知らされる。

その一方で、「真実を追求することは果たして良い行いなのか?」という相反した問いにも直面させられる。
原因がどこにあり、誰が裁かれるべきなのか。真実が正しく暴かれるにせよ暴かれないにせよ、「結果」として起きたことは変わらず、遺族の悲しみが癒えることはない。
遺族を思い、真実の究明のために奮闘しているにも関わらず、その遺族から行動を否定されてしまう。
自分は何のためにここまで頑張っているのか。
結局自分可愛さのためなんじゃないのか。
自己犠牲の行動が自分本位の行動と受け取られるとき、そこに生まれる情けなさや失望感はとてつもないだろう。
原因はなんであれ、失ったものは返ってこない。
このことに、人間として生きることの残酷さや虚しさを強く感じた。

同時に、「皆の協力や支えがあって困難を乗り越えていける」という前向きなメッセージも受け取ることができた。
私たちの社会は多くの人の思惑や行動が複雑に連鎖しあって成り立っている。
それが避けようのない悲劇や不運を生むこともあれば、困難を乗り越えるパワーになることもある。
人生は残酷だが、それでも自ら切り開いていかなければいけない。
現実を突きつけながらも、最後に背中を押してくれる、勇気を与えられる一冊だった。

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