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空が夕闇に変わる頃【第1章】



中条 雪音(ナカジョウ ユキネ) 24歳。

彼女は幼い頃から、"変人"というレッテルを貼られる事が多かった。

彼女には、他の人間には見えないものが見える。一体、アレは何者なのか。
幼い頃に起こった事件がトラウマになっている彼女は、その事実を誰にも言えず、見て見ぬふりをして生きてきた。

そんなある晩、彼女はひょんな事からピンチに陥る。もう駄目だと思った時、彼女を救ってくれたのは、オネエ言葉を話す変な男だった。

その出会いをきっかけに、彼女の人生は目まぐるしく変化していく──。

始まり


幼い頃から、"変人"というレッテルを貼られる事が多かった。

いつも何処か変な所を見ている。独り言が多い。突然泣き出す。突然笑い出す。

そんなわたしを両親は不安に思い、いわゆる"先生"のところへ連れて行かれたこともある。
それはある程度成長するまで、数回あった。

でも、診断結果は至って正常だ。
医者の質問には的確に答え、読み書き、計算、運動能力だって、そこら辺の子供よりは長けていたと思う。

自分が他の子と違うと気づいてからは、それも無くなった。
あえて"見えない"ふりをし、聞こえないふりをし、そこには何も居ないと自分に言い聞かせた。

だけど、そんなふりも失敗に終わることもある。それが、たった今の現状だ。

ああ、どうしよう・・・。

"彼女"は地面を引きずるほど長い髪を前に垂らし、その隙間からわたしをジッと見つめている。

普通なら見惚れるほど大きくて綺麗な目だが、残念なことに、普通とは程遠い。

私の認識では、人間の目は2つ存在するはずだ。だけど、彼女の目は1つ。それも、顔の半分程の大きさで、それが額の位置にあるのだ。

こんなことなら、わたしも飲みに行けばよかった・・・。

何故こんな状況に陥ったかというと、話は1時間程前に遡る——。



「ありがとうございました〜、お気をつけて〜」

最後の客を見送った春香(ハルカ)は、店に戻ってくるなり、ふあ〜と豪快なあくびをかました。「あ"ー、疲れた。早く帰ってビール飲みたい」

「今日のは2オクターブ高かったね」わたしが言うと、春香はさっきまでの営業モードの顔に戻った。

「お疲れ様ですぅ。さっ、ちゃっちゃと片付けて早く帰りましょう」

「・・・猫かぶり」

わたしの嫌味を無視して、春香はそそくさとキッチンへ向かった。「あたし洗い物するから、あんたホールお願いね」

「あいあい」わたしはテーブルに残った皿とグラスを片しに入る。

まあ、確かに春香の言い分には一理ありだ。
今日は金曜日。週末ということもあり、店内はオープンから賑わっていた。休む暇も無く、足はもうパンパンだ。
早く帰ってビール・・・ではないが、暖かいお湯に浸かりたい。

「はあ〜、疲れたねぇ」

そんなわたし達をよそに、入口の待合席に座りたばこをふかしている男が1人。

「毎度言いますが、店内は禁煙です店長」わざと皿を鳴らし片付けをアピールしたが、こちらを見向きもしない。

「お客さんいないからいーの」

「そのお客さんには外で吸わせてるくせに」わたしの指摘を無視して、店長は2本目に火をつけた。

これ以上言うだけ無駄なのはわかっていたから、片付けに徹した。

ここは創作イタリアンの店、『TATSUータツー』
オフィス街ということもあり、日頃からサラリーマンやOLの憩いの場になっている。

従業員は、店長の木下 達也(キノシタ タツヤ)、大原 春香(オオハラ ハルカ)、そしてわたし中条 雪音(ナカジョウ ユキネ)の3人だ。

ちなみに店の名前でもあるシェフの店長は、基本、やる気無し。調理をしている時以外は常に携帯をいじっているか、タバコを吸っている。
というか、その姿しか見たことがない。
"自称"40代らしいが、わたしには時々、初老に見える。

キッチンで黙々と洗い物をしている春香は、基本、二重人格。
客の前では常に笑顔、愛想を振り撒いているが、居なくなった途端に豹変する。声は1オクターブから2オクターブ下がり、口角も下がりっぱなしだ。また、それを隠そうとしないのもこの女だ。

春香とは半年違いで店に入り、わたしのほうが少し先輩だが、同い年ということもあり、気兼ねしない仲だ。

店自体はカウンター5席、4人掛けのテーブル席が3席と決して広くはないが、客足が絶えないのは、間違いなくこの店長のおかげだ。
普段はボーッとしているが、料理に関しては、その手際といい味といい、世の中の料理人の中でもトップクラスの腕だと思う。
そこはわたしも春香も認めている。

立て続けに3本たばこを吸い終えた店長は、カタツムリ並の動きで椅子をテーブルへと上げていく。「ねえ2人とも、これから飲みに行かない?」

拭いているワイングラスごと手を挙げたのは、春香だ。「行く!行きます!もちろん店長の奢りですよね?」

「奢らなかった時、ないでしょ・・・」

「いえ〜い。雪音は?行くでしょ?」

「んー」正直、キンキンに冷えたビールには心惹かれたけど、今のわたしが欲してるのはビールより熱いお湯だ。それに——「今日はやめときます。次は是非」

「ノリわる」猫被りから即、非難が入る。「店長とふたりぃ・・・?」

「俺、営業モードの春香ちゃんのほうが好きかも」店長が切なそうに呟いた。

「だって、2人で飲んでたらカップルだと思われそうだし」

「親子じゃなくて?」サラッと言ったが、店長の切ない視線を感じた。

「人間、お世辞のほうが嬉しい時もあるよね・・・」

店長を無視して春香が口を開いた。「ていうか、アンタこの前も来なかったじゃない。体調でも悪いの?」

「ううん、眠いだけ」それも嘘じゃない。

「あっそ、ばーさんみたいね」

この女の本性を、客にみせてやりたい。

「あー、やっぱり、家で待ってる人でもいるんじゃない?」この類の話は無視されると知っていて、毎回よく言うぞ店長よ。

着替えを終えたわたし達は、店の外で二手に分かれた。
直前まで春香に粘られたが、わたしの意思は固かった。最後の舌打ちは、水に流した。

携帯の時計を確認すると、23時31分。
家までは歩いて20分弱。地下鉄という選択肢もあるが、金曜日のこの時間帯は飲み帰りの客でいっぱいだ。
これ以上、足を駆使したくなかったけど・・・しゃーない、歩くか。

6月に入ったばかりだが、今日はとても蒸し暑かった。少し歩いただけで、額にじんわりと汗が滲む。

あー、今ビール飲んだら最高だろうな。と、少し後悔。まあわたしの場合、一杯飲んだら満足するんだけど。
あの2人はそうはいかない。控えめに言って酒豪だ。最初のビールなんて、まるで水を飲むかのように一瞬で飲み干すんだから。
わたしが1杯飲み終わるのと、向こうが3杯飲み終わるのが同じタイミングって、どういうことだ。

そう、だから深夜コースは確定なわけで ——それによって、わたしには懸念が生じる。

経験上、"奴ら"は深夜に活動が活発になるからだ。昼に見かけることもあるが、大概は辺りが暗くなってからだ。

出来るだけ見たくないから、わたしはいつも下を向いて歩いている(そのおかげで小銭を拾った事も多々)。

だけど今日は、そんな自分を恨んだ。

家まであと5分というところで、不覚にも思い出してしまったのだ。冷蔵庫に、飲み物が無いということを。水道水か・・・いやここは妥協するまい。
少し戻れば、コンビニがある。ビールも欲しかったし。と、引き返す。

そして、ペットボトルの水とビール、余計なアイスまで購入したわたしはコンビニの自動ドアを抜けた。

そして次の瞬間 —— 持っていた袋を地面に落としてしまった。

——— まずい。

一瞬焦ったが、こういう時の対処法は学んでいる。

わたしは落とした袋を冷静に拾い上げた。

そして何事も無かったように、家へと歩き出す。平常心、平常心と自分に言い聞かせながら。

でも、すぐにそれが打ち砕かれた。

ついて・・・きてる・・・?

確認したくても、振り返る勇気がない。でも、間違いなく、後ろに何かを感じる。
一気に鼓動が早まり、冷や汗が込み上げる。

どうしよう —— このまま家に帰ったら、"彼女"まで・・・?

次の行動を起こすまで、コンマ1秒もかからなかった。
わたしは右手に見える路地に、吸い込まれるように入り込んだ。決して走らず、歩きと言えるギリギリの速さで駆け抜ける。

ここら辺は道路が入り組んでいるし、どうにか"撒ける"かも。わたしはそのまま突き進み、また抜けれる道を探した。

——— えっ、ちょっと待って。まさか・・・。

鼓動が更に早まっていくのを感じる。

抜け道なんて見当たらない。見えるのは、レンガ積みの高い塀だけ。

待て待て待て!
そして次の瞬間、早鐘のように打っていた鼓動が、一瞬、止まった。それと同時に、わたしの足も止まる。

行き止まりだ。

——— 落ち着け。落ち着けわたし。

次にわたしがすることは、まず、振り返ることだ。"居る"と決まったわけじゃない。
もしかしたら、ついて来てると勘違いしているのかもしれない。

そうだよ、絶対そうだ。
わたしは至って冷静に、そしてゆっくりと、後ろを振り向いた。

10秒、いや、もしかしたらもっと経っていたかもしれない。わたしは無言のまま、その場に立ち尽くしていた。

正確に言えば、見つめ合っていた、かもしれない。

さっきコンビニの前で見た彼女が、そこに居た。距離にすれば2メートル程先。

側にある街灯のおかげ(せい)で、その地面を引きずる長い髪と真っ黒な目が、ハッキリと見える。背丈はわたしと同じくらい。
白いノースリーブのワンピース姿で、手足は普通の人間と同じ。ただ、異常なくらい細く、裸足だ。

顔にかかる髪のせいで顔全体は見えないが、わかるのは、目は1つだということ。額全体を覆うほど大きな目。
彼女の姿勢は猫背気味で、その腕は髪と共に揺れている。

しばらく見つめ合っていたが、彼女はその場に立ち尽くし、動かない。
ただわたしを見据えている。

彼女の横をダッシュで通り抜けられるんじゃ。一瞬脳裏を過ったが、それを実行に移せる勇気は無い。

どうすればいい。
わたしは、どうすれば ・・・。

考えるより先に動いたのは、右手だった。
「あ、こんばんは」次にこの口。

わたしは店長か!
毎日ギリギリに出勤してきては、「あ、おはようさん」と、気怠そうに手を上げる光景が頭に浮かんだ。
ああ、今頃2人は冷えたビールを堪能してるんだろうな。こんなことなら、わたしも一緒に行けばよかった。

もちろん、彼女の反応は無い。

「あの、わたし家に帰らなければならないので。失礼します」自分で何を言っているかわからなかったが、勢いに任せて、1歩足を踏み出した。

すると彼女の大きな目が、バサっと動いた。
わたしはそれに驚き、ビクリと身体が跳ねる。
瞬き1回で、そんな音しないでしょ普通。
まあどう見ても、普通ではないんだが。

その時だった、何処からか弱い風が吹いてきて、彼女の顔にかかった髪を、一瞬持ち上げた。

わたしはそれを見逃さなかった。街灯の灯りでハッキリ見えた。
彼女には、口が無い。というか、鼻も無い。おそらく耳も。
顔に存在するのは、あの大きすぎる目だけだ。

ということは当然、喋ることも聞くことも出来ないわけで・・・。

どうしたものか —— 今まで、何かを訴えてくる"者達"はいたが、こういうタイプは初めてだ。こういうシチュエーションも。
そこに居るとわかっていても、決して目を合わさず、見て見ぬフリをしてきた。

だから、対処方法がわからない。
逃げるという選択肢以外、浮かばない。

わたしは頭の中でシミュレーションを立てた。

よーいどん!でダッシュ。出来るだけ彼女から離れながら、逃げ去る。
今日はスニーカーだし、足は決して遅いほうじゃない。

よし、と意を決したところで、彼女に先を越されてしまった。

右足が、ズリッと動く。

いやいやいやいや、ちょっと待って!

次に左足。

引きずるように、1歩、2歩と近いてくる。

わたしは心の中で悲鳴をあげた。そして、彼女の両腕がわたしに向かって伸びてくる。

もはや、恐怖で身体が硬直していた。
逃げろ。逃げろ。
気持ちとは裏腹に、足が退いてしまう。
彼女が1歩進み、わたしは1歩退く。ゆっくりと。そして—— 完全に追い込まれた。

背中に壁が当たる。もう逃げようがない。

「あの、ちょっと、落ち着きましょう!話し合いましょう!」またわけのわからないことが口から出る。

彼女との距離は、わずか数十センチ。わたしは身をよじり、塀にすがりついた。

「わーー!ごめんなさいーー!」

そして彼女の指先が、わたしに数センチのところまで近づき—— もうダメだ。わたしは、ギュッと目を瞑った。

どれくらい、そうしていただろう。
とても長い時間に思えたが、実際は10秒ほどだと思う。

あれ?なに?身体に何も触れた感触がない。
目を開けたいけど、怖い。
なんでこんなに静かなんだろう?

わたしは恐る恐る、目を開けた。

そして——— 「ギャーーーー!!!」

「キャーーーーー!!」

———・・・・・えっ?

状況を理解出来なかった。
今起こった事。目を開けた。目の前に顔があった。叫んだ。目の前の顔も叫んだ。

「ちょっとやだ、ビックリするじゃない!」

「・・・えっ?・・・誰?」もはや半泣き状態だった。

わたしの勘違いでなければ、目の前に"人間"がいる。さっきの彼女ではない。人間の男の人が。

「大丈夫?どこも怪我してない?」

わたしは言われるままに頷いた。
徐々に目が慣れてきて、やっぱり、普通の人間だと認識した。
一気に安堵感が広がり、膝からへなへなと崩れ落ちた。

「あらあら、大丈夫?」

目線が下がると、男が手に持っている物が見えてギョッとした。街灯の明かりでキラッと光る。
わたしの反応を見た男は、慌てたようにソレを後ろに隠した。

「安心して、アナタを傷つける物じゃないから」そう言って、何処からか取り出した革張りの鞘にソレをしまう。

「なんで、ナイフなんか持ってるんですか?」

「これ?」男はちょっと意外そうだった。「これね。まあ、正確に言うとナイフじゃないのよ」

思考が正常に戻り始め、やっと違和感を感じて取れた。
じゃないのよ?今この人、そう言ったよね。
それにさっきも、キャーーって言ってたような。

男の、足から頭へと視線を巡らせた。
スニーカー。パンツ。暗くて色まではよくわからないけど、チェック柄のシャツ。髪は短髪までいかないが、短い。

どう見ても、男だ。

「大丈夫?立てる?」もちろん、声も。

男は持っていたナイフを身体の後ろにしまうと、前屈みになり、片方の手をわたしに差し出した。

素直にその手を取る程、冷静さは失ってない。「大丈夫です。立てます」と、強気に言ったものの、足に力が入らない。

わたしは腕をバネにして、勢い良く立ち上がった。
案の定、足がもたつき前に倒れそうになる。わたしは男に抱きつくような形で、シッカリと受け止められた。

「すみません・・・」

「だから言ったでしょ?素直に甘えなさい」笑顔なのが口調でわかる。

男から離れて、気づいた。大きい。
背もだが、なんだろう、全体的に。店長も背は大きいけど、こんなに威圧感はない。

「あの・・・」と言いかけたところで、男の後ろから黒い何かがこちらに向かってくるのが見えた。

「ギャーーー!!」

「キャーーー!」

咄嗟に男にしがみついた。もしかして、さっきの彼女?

「なに!どうしたの?」

わたしは男の身体に隠れるようにして、後ろを指差した。「何かいる!」

黒い物体が街灯に近づくにつれ、その姿形が見えてきた。そして、ホッとした。

彼女じゃない。またしても、男の人だ。普通の。

「なんだ?どういう状況だコレは」その男の言う意味がわかり、わたしはしがみついていた腕を慌ててほどいた。

「お前な、急に走っていくなよ。何事かと思っただろうが」

「ゴメンゴメン。彼女について行く"奴ら"が見えたものだから、つい追いかけちゃった」

「それで?」

「始末したわよ」

2人の会話は理解できなかったが、2人が顔見知りだと言うことはわかった。

オネエじゃない男のほうが、わたしをジッと見る。—— えっ、睨まれてる?

「ところで・・・」と言いかけたところで、オネエが遮った。「ちょっと、そんな威圧的に見たら怖がるでしょ!ただでさえ悪人面なんだから。ねえ?」

わたしに同意を求められたが、反応出来るわけもなく。

「やかましい!別に、普通に見ただけだ」

「ゴメンねぇ、この人顔はこんなだけど、決して怖い人じゃないから」その、この人の肩をオネエがポンポンと叩く。

確かに、威圧感は否めない。切れ長の目と太い眉毛がそう見せているのかも。そして、この人も、デカい。

「あのぉ・・・」自分でも聞こえるか聞こえないかという声だったが、2人が同時にわたしを見た。「この状況が、よくわかっていないのですが・・・」

わたしは無意識に、彼女を探した。さっきまでわたしに触れそうな程近くにいた彼女は、いったい何処へ?

「あの女の人なら始末したわよ。まあ、人とは言えないけど」淡々と言われ、頭がついていかない。

「ということは——」オネエじゃないほうが言い、オネエが頷いた。

「見えるわね」わたしに問いかけるというより、納得している口調だ。

今、わたしに唯一理解できることは ——「見えるんですか?」

2人がまた同時にわたしを見る。そして2人で目を合わせた。

「見えるんですかって、見えなきゃ始末出来ないだろう」当たり前のように言われ、ちょっと怯む。

「始末って、あなたが・・・?どうやって・・・」

オネエを見て言ったが、またもや返ってきたのは、「どうやってって、その場に居たんじゃないのか?」

「はいストーップ!だから威圧的になるのやめなさいって!怯えてるじゃないの」

わたしは口を閉ざした。確かに、威圧的だもの。

「別に、そんなつもりはない」男は少し申し訳なさそうに言った。「この口調は元からで、他意はない」

「目閉じてたから、見えなかったのよね?」オネエに優しく言われ、わたしは頷いた。
この人、変だけど(かなり)、優しい。

「にしても」そう言うなり、オネエが身体を揺らし始めた。「面白かったわね。奴ら相手に、落ち着きましょう!話し合いましょう!なんて、初めて聞いたわ」

体の揺れは、笑っているからだ。ちょっと、前言撤回。そりゃあ自分でも、何言ってるかわからなかったけど。

「見たのは、初めてじゃないだろう?」男の口調は、さっきより幾分優しい。

「はい。でも、あーゆう事になったのは初めてで・・・」

男がオネエを見た。説明を求めている。

「追い込まれてたのよ」親指でわたしの後ろの壁を差す。「間一髪だったわね。もう少し遅かったら食べられてたわ」

「食べっ・・・られてた!?わたしが!?」

オネエは不思議そうにわたしを見た。「あなた、1回も見たことないの?」

「何を?」即答だった。

「奴らが人間を、—— 襲うところ」言葉を選んでるのがわかった。

返事が出来ず、首を横に振ると、オネエは眉をクイっと上げた。

「それもまた、運が良いというかなんというか・・・」

運が良い?わたしが?
自慢じゃないが、わたしはこれまで自分を哀れむことはあっても、恵まれてると思ったことは1度たりとも無い。

「一応聞くけど、あなた大人よね?」

突として聞かれ、感情が顔に出ているのが自分でもわかった。「どーゆう意味ですか?」

「今のは、セクハラ発言にも取れるぞ」男が冷静に指摘する。

「いやん!違うわよ!ただ、大人になるまで1度も見ずに生きてきたなんて、ちょっと信じ難くて」

「まあ確かにそうだな。ただ、どう見ても小学生には見えんぞ」

「・・・一応、24歳の大人です」

「あら、ピチピチね。ごめんなさい、悪気はないのよ」

24でピチピチって、この人はいったい何歳なんだ?

「そんなに、おかしいですか?その、今まで・・・」その先は、どう表現していいかわからなかった。

「そうねぇ・・・」オネエがしみじみと言い、腕を組んだ。「奴らの中にも、人間に害を与えないのもいるわ。でも、大概は——」

今しがた自分に起こった事に、段々現実味が湧いてきた。さっきの彼女は、わたしを食べようとしていたんだ。
手が、微かに震えるのがわかった。

「大丈夫よ」ふと、頭に手が乗る。「もういないから。安心して」

オネエの言葉の通り、ホッとする自分がいた。

「でも、どうやって・・・始末・・・したんですか?」

オネエは後ろに手をやると、先ほどのナイフを取り出した。鞘から外さず、わたしに見せる。「簡単に言うと、これで突き刺すのよ」

「このナイフで・・・彼女を?」その姿を想像して、身震いする。

「ナイフではない。正確には短刀だ。ちなみに俺も持ってる」そう言い、男は着ていたジャケットの内ポケットから同じような物を取り出した。長さは同じくらいだが、オネエの物より少しゴツく見える。それもまた、革張りの鞘に納められている。

「まあ、ナイフでも刀でもどっちでもいいわよ」

「どっちでもよくはないだろ。ちゃんと正式名称があるからな」

「やだこの堅物!わかればいいじゃない別に」

「よくない。それを言ったら全てが曖昧になるだろう」

「きー、やだやだこんなクソ真面目。アンタ人生大概損してるわね」

「まず、自分を見てから言え」

「どういう意味よッ!」

2人の"じゃれあい"にピリオドを打ったのは、わたしだ。
わたしは無意識に、オネエの持つ刀の鞘に触れていた。2人とも少し、驚いてるようだ。

「・・・持ってみる?」

オネエの言い方は変わらず、優しい。わたしはコクリと頷いた。そして、柄をわたしに向ける。
わたしはソレを、慎重に受け取った。

——— 重い。

「慣れるとそうでもないわよ」

この人は、わたしの考えてることがわかるのか?

「中、見てもいいですか?」

オネエは静かに頷いたけど、もう1人のほうは少し警戒しているように見えた。
わたしは構わず、でも慎重に、鞘を外す。
街灯に照らされた切先がキラリと光る。

「きれい・・・」今までわたしが手に持った刃物といえば包丁くらいだが、包丁とは全然違う。それに、形が少し反っている。

「もういいだろう」男に言われて、見惚れていた自分に気づいた。刀を鞘に戻し、オネエに返す。そのまま渡しそうになり、慌てて柄を向ける。

「欲しい?」オネエはどこか、面白そうだ。

意外だったのは、わたしの返答。「欲しいです」素直に答えていた。

「おい・・・」

「瀬野、彼女は大丈夫よ」

「しかし・・・」

「どっちにしろ、このままにしてはおけないでしょ?サバンナに子猫を放つようなもんよ」

意味をちゃんと理解はできなかったけど、オネエの言う"子猫"が、わたしの事だということだけはわかった。

「あなた、お名前は?」言いながらオネエはまたナイフを後ろに隠した。

「中条です」

「中条・・・?」

「あ、雪音です」

「あらー!綺麗な名前ね。ピッタリよ」

—— どういう意味だ。

「あたしは遊里(ゆうり)よ。早坂 遊里。そして・・・」数秒間、沈黙が流れ—— 「アンタの番でしょ!自己紹介しなさいよ!」

「今の流れだとお前が紹介するもんだと思うだろ!」

「あ、そお?この人はね、瀬」

「瀬野 正輝(せの まさき)だ」

「結局言うんじゃない!」

「自分の紹介くらい自分でする」

「ブッ・・」思わず噴き出してしまい、2人がまたわたしを見た。「ごめんなさい」と謝りながらも、笑いを抑えられない。だって、2人のこの間(ま)、ツボなんだもん。

「ふふ、少し落ち着いてきたみたいね」

言われて、確かにと気がついた。笑える余裕があるほど、気持ちは落ち着いている。

「それで、どうするんだ?」

「うーん、そうねぇ」オネエが腕時計を確認する。「もうこんな時間だし、詳しい事は後日ね。雪音ちゃん、携帯番号教えてくれるかしら?」

警戒心というよりは、当然のように名前を呼ばれたことに、すぐ返事ができなかった。

「ほら、セクハラだと思われてるぞ」

「ノー!違うわよ!今度、改めて話をしましょうって意味よ」

ノーって。わたしはボディバッグから携帯を取り出し、自分の番号を表示してしてオネエに見せた。「ありがと」と微笑み、自分の携帯に入力する。そのあと、1コール貰った。

「さっ、夜も遅いし送ってくわ」

「あっ、いえ、家すぐそこなんで大丈夫です」

「何言ってるの!女の子でしょ」

—— 説得力に欠けるのは、気のせいじゃないだろう。

「警戒されてるなぁ」男が面白そうに言う。

「もー!変なこと言わないでよ!雪音ちゃん、安心して。あたしジェントルマンだから」

—— 説得力に欠けるのは、間違いない。

「送ってもらったほうがいいぞ。また、さっきのような目に遭わないとも限らんだろう」

ドキリと心臓が跳ねた。確かに、近いとはいえ、もう現れないという保証はない。

「では、お願いします・・・」ボソりと呟く。

「じゃあ、俺は先に行って"報告"してる。頼んだぞ」

「オーケー」

「あの、瀬野さん」去ろうとしていた瀬野さんが振り返る。——この人達がいなければ、わたしは今、こうしていない。「ありがとうございます」

瀬野さんは軽く頷くと、来た道を戻っていった。

「さ、あたしたちも行きましょうか」

「・・・はい」

オネエの後に続き、数メートル歩いたところで——「あっ!!」

「ぎゃっ!・・・何!どうしたの!?」

思い出した。「アイス・・・」

「アイス?」

また戻り、辺りを探すと先程わたしが追い込まれていた場所に落ちていた。
拾い上げて袋の中からアイスを取り出すと、すっかり液体化している。

「ガーン・・・」

「びっくりした。何事かと思えば、アイスの心配?」

「・・・奮発したんです。いつもは買わないヤツを・・・」

これは、帰ったら冷凍し直して、また食べる。心に決めた。

「掴めない子ね。面白いわ」

「えっ」

オネエは、その言葉通りの顔をしている。「さっ、行きましょう」

家までは5分程で着いた為、とくに会話という会話も無かった。
オネエは辺りを見回しながら、時々わたしにも目を向け、歩幅を合わせて歩いてくれているのがわかった。疲れ切っていたわたしは、素直にそれに甘えた。

「今日は、ありがとうございました」

「あなたを見かけて良かったわ。この辺はあまり通らないんだけど。コレも何かの縁ね」

「・・・あの・・・」

「ん?」

聞きたいことは山程あるはずなのに、頭がまわらず、言葉が出てこない。

「大丈夫よ。今度、ちゃんと話してあげるから。今日は何も考えず、ゆっくり休みなさい」

—— やっぱり、この人は人の考えてることが読めるのか?

「わかりました・・・おやすみなさい」

オネエはニコりと微笑んだ。「おやすみなさい」

アパートの階段を登ったところで1度振り返ると、まだこっちを見ていた。
手を振り、早く行けと促す。

わたしは頷き、小走りで2階へ上がる。部屋に入り、電気もつけず窓に直行した。
バッグと買い物袋をベッドに放り投げ、カーテンを開ける。

———いない。

「・・・・・」

一気に気が抜け、そのままベッドに仰向けに倒れ込んだ。「いてっ!」さっき投げた袋に後頭部が直撃した。

あ・・・アイス、冷凍庫に入れなきゃ。
それより、今になって自分が死ぬほど喉が渇いてることに気づいた。
ペットボトルの水を一気に3分の2ほど飲み干す。ひと息ついて、残りも。

「ぶはーーーー」空いたペットボトルをそこら辺に投げ、また寝そべる。
天井を見つめ、しばらくボーッとしていた。

メイク落として、シャワー浴びなきゃ。でも、身体が鉛のように重くて、動かない。

寝たまま、バッグの中から携帯を取り出す。画面の明かりが眩しい。
着信を開き、1番上にある未登録の番号を確認する。

「はやさか・・・ゆうり・・・」

漢字もわからないし、なんて登録しよう。
即決で、『オネエ』になった。

——— 変な、人だったな。
それしか印象がない。
瀬野さんのほうは"まとも"だったけど、どこかとっつきにくい感じ。でも、悪い人じゃないのはわかる。

ていうか、名前も女ぽいし。
薄れゆく意識の中で最後に考えたのは、そんなことだった——。

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