#21 桑の都・八王子の史跡
八王子は地方出身者の私でも名前を知っていた町です。
大学進学をきっかけに東京へ引っ越したのですが、八王子は何度も訪れました。
今回は八王子におけるいくつかの史跡について書きたいと思います。
八王子は江戸時代の街道や町割りを使い続けている。
八王子には甲州街道が通っていました。
いまでもこの道を進んでいけば日本橋に着きます。
JR中央線の前身である甲武鉄道(甲府〜新宿)はまさに甲州街道があったからできた鉄道です。
八王子には甲州街道という幹線道路が通っていたので自然と市場が形成されました。
それがこの八日市です。八王子市の町名にもなっています。
八日市は毎月8のつく日に市場を開いていたのでこの名がつけられました。
8日、18日、28日の三斎市ということですね。
また、ここに街道が走っていたことを示す名残がいまも垣間見えます。
それが以下の写真です。何か気づきますか?
写真だけでは分かりづらいのですが、建物が長方形ですよね。
こんな感じです。
江戸時代の街道沿いの住居やお店は長屋が基本でした。
江戸時代にできた町割りをいまでも使い続けているんですね!
街道はここで甲州街道と陣馬街道に分岐します。
桑の都がつないだ産業
また、八王子には群馬銀行があります。
なぜ地方銀行がここにあるのでしょうか?
江戸時代、八王子は生糸の生産が盛んでした。 幕末には八王子で生産された品物は横浜に運ばれ、列強へ出荷されました。
明治になると、新政府は生糸生産の中心地を群馬県の富岡に据えます。
そのためか、八王子の生糸生産は落ち込みますが、絹織物の生産へシフトします。
そうして、その原料を富岡製糸場から手に入れるための輸送ルートを敷設します。それが、八高線(八王子~高崎)です。
そして、横浜線(八王子〜横浜)を使って生糸や絹織物は横浜まで更に運ばれ主にアメリカやイギリスなどの欧米諸国に輸出されていきました。群馬ー八王子ー横浜という『関東版シルクロード』の商ルートが形成されていたわけです。
八高線は1930年代、横浜線は1900年代に敷設され、その沿線には群馬企業が進出してきたわけです。
群馬企業が八王子で取り引きして得たお金を群馬の本店に現金で持ち帰るのは大変ですよね。ですから群馬銀行が八王子にあるとそこに預けるだけで済みますからかなり便利です。
そうした需要をみたす役割が群馬銀行八王子支店にはあったためここに作られたのです。
現在は産業構造が変化し、絹糸がメイン産業ではなくなりましたが、その商ルートは当時から引き継がれており、群馬銀行の八王子支店は1977年に建てられています(なお、横浜支店は1965年)。
群馬銀行の資料は以下をご参照ください。
群馬銀行はもともと「第三十九国立銀行」だったことなど興味深い事実が記載されています。
千人町について
この写真をご覧ください。
千人町と書いてあります。
これ、幕府の役人の名前が由来になっています。
八王子千人同心です。『同心』とは幕府の下級役職名ですが、文字通り1000人の同心が幕領であった八王子の治安維持業務を担っていたんです。JR西八王子駅周辺が彼らの住居地でした。
なので千人町と言うんですね。西八王子は八王子千人同心をとてもプッシュしてます。
詳しくは八王子市の公式HPをご参照ください。
コニカミノルタサイエンスドームでプラネタリウムを。
八王子の史跡を歩き回り、最後はコニカミノルタサイエンスドームを訪ねました。株主として訪れたかった場所の一つであります。ここにはプラネタリウムがあり、めちゃくちゃ面白い映像が流れていました。
たった600円ほどで映像美を堪能できるのですからコスパ最強です。
コニカミノルタの近くにはサンダーバードという喫茶があり、こんな軽食をいただきました。
これでたった250円ですから驚きです。ぜひ寄られてはいかがでしょうか。
八王子は広いです。そのすべてを1度の訪問で知ることはできません。
再度訪れることを楽しみにしてこの日は終わります。
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