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#23 台北-植民地主義の爪痕-

 周知のように日本帝国は1895年の下関条約から1945年のアジア太平洋戦争における敗戦まで約50年にわたり台湾を支配してきました。台北はその植民地行政の中心地でした。
 今回は台北に限って植民地行政の跡地を見ていきます。

旧台湾総督府(現総統府)

 MRTの「西門站(駅)」を降りて徒歩5分ほどのところにあります。
 台湾総督府は台湾植民地行政のまさに中心でした。この機関が様々な政策を企画立案及び施行をしてきました。
 リーダーである台湾総督には樺山資紀や児玉源太郎が就任したことは有名です。なお、あまり知られてはいませんが首相経験者である桂太郎や日露戦争の英雄となった乃木希典も就任しています。初期は基本的に武官が就任するのが慣例でした。
 現在は中華民国政府の総統府として利用されており、史跡ながら現役の最高政治機関になっています。
 調べたところどうやら中を見学できるみたいなのですが、衛兵の物々しい雰囲気にビビってしまい、中に入ることを諦めました。

旧台湾総督府高等法院(現司法院)

 台湾総督府という植民地行政の最高機関のすぐ隣にそれはありました。ここは台湾における最高の司法機関です。総統府と同様、司法院として現役で稼働しています。

台湾銀行

1938年に竣工

 台湾銀行もまた建設当時の姿のまま現存しています。1899年に帝国日本が特殊銀行として設立。植民地台湾の中央銀行として、紙幣発行権をもち、台湾産業への大規模融資を主な業務としていました。
 そういえば、高校日本史の教科書にも台湾銀行の名前が出てきますが、1927年に発生した金融恐慌との関連でしたね。
 第一次若槻礼次郎内閣の蔵相片岡直温の失言(『東京渡辺銀行潰れました』)により、取付騒動が発生し弱小銀行がバタバタと休業。そうして金融恐慌が発生しましたが、この煽りを受ける形で、大戦景気のもと台湾を拠点に急成長した鈴木商店が経営危機に陥ります。この鈴木商店に大規模融資を行っていたのが台湾銀行でした。なんと当時の台湾銀行の総貸出額が7億円だったのに対して、鈴木商店への融資額は3億5000万円だったようです。かなり不健全な博打ともいえる融資が発覚し、さらに震災恐慌(1923)、金融恐慌(1927)と弱った鈴木商店への融資が焦げ付き、台湾銀行が一時休業に追い込まれます。
 帝国政府は台湾銀行救済の緊急勅令案を枢密院に提出します。当初若槻内閣はこれを拒否され、にっちもさっちもいかず総辞職しましたが田中義一内閣が成立し蔵相高橋是清のもとなんとか台湾銀行は救済されます。

 台湾銀行は台湾の植民地政策を経済的な側面から支えた植民地主義の象徴的な存在でした。
 現在、中華民国政府の紙幣発行権は台湾銀行が持っておらず、一般の商用銀行になっています。台湾に日本から旅行に行った際、台湾銀行で円と台湾ドルを交換する時があると思いますが、そうした負の側面を忘れないようにしたいですよね。


旧台北帝国大学(現台湾大学)

 台湾大学もまた、帝国主義の爪痕です。もともと台北帝国大学として1928年に7番目の帝国大学として設立されます。
 日本目線から見ると『台湾に大学を作ってあげたのか』と上から目線で考えがちですが、そもそも台北帝国大学は台湾人に門戸は開かれていません。台湾生れの日本人たちのための大学です。当然ながら土地の買い占めや自分たちのための大学ではないことがわかるなど、現地の人間からは歓迎はされなかったようです。
 台北帝国大学には農学部が初期からありました。亜熱帯地方の台湾には日本本土では育たない植物が多数見られます。それらの植物が帝国日本にどのように役立つのかを農学部で研究していたのです。いわば、植民地主義は『珍しい植物を手に入れる』ことが根本的な精神としてあるように思えます(欧米列強がアフリカや東南アジアなどの熱帯地域をこぞって支配してきたことと、プランテーションを形成したことがその証左と言えます)。実際、帝国日本も製糖業務の中心を台湾に据え、砂糖製造能力の向上を植民地台湾に求めています。
 現在は台湾の最高学府でありますが、こうした帝国主義や植民地主義の根本精神のもと設立された大学だったわけです。


 今回は台北に2泊3日と無理な計画を立ててしまったため、行きたいところすべてまわれませんでした。少し後悔していますが、『また台北にいく理由ができた』と考え直すことにしました。

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