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私の失くしたもの【掌編小説】

 夏の新幹線は感傷さを呼び起こす。
 数多くの子供の声、故郷へ帰省をする大人達の先祖を想う寂寥感を帯びた表情。それら全ては夏でなければ何とも思わなかったかもしれない。ただ例年以上の猛暑も相まって何か長く感じた。特に、あの車中では。

 毎年、長男として義務的に帰省することだけを考えていた。なぜならば、妹や弟の子供の成長を見るぐらいしか楽しみが無かったからだ。いつもは、東京から仙台までの約1時間半は読みかけの小説で時間をつぶしていた。東京駅構内でアイスコーヒーを買ってグランプラスと呼ばれる新幹線に乗り込んだ。「8号車の23列目は・・・」とつぶやきながら、恐る恐る歩みを進める。数多くの子供の声がした。背後から数人の子供が背中やらお尻を触ってきたのが分かった。少し怪訝に思いながらも、自らの席を目指した。あった、と一言だけささやいた。己れの声でありながら、すっと飲み込んだ。このまま喧しい雰囲気に呑まれそうになっていた為か、安堵感があった。

 通路手前の席だった。3人掛けで、既に2席は未就学児らしき男の子二人とその母親が座っていた。母親は玩具を持って暴れ回る子猿のような二人を必死になだめていた。
 私は必要以上に謝り席に腰掛けた。母親は「うるさくてすみません」と、私に被せてくるように恐縮していた。
 「ママ、このおじさん誰?」スポーツ刈りが私に指を差して訊いた。
 「すみません」
 母親は青ざめたような表情で、何度も頭を下げた。私は何も無かったように手でジェスチャーをした。
 「おじさん、どこに帰るの?」
 もう一人の坊主頭が私に尋ねてきた。
 「こら、やめなさい!」と母親は叱責した後、また深々と頭を下げた。
 私は笑みを浮かべてから「おじさんはね、仙台のお家に帰るんだよ」となるべく優しく伝えようとゆったりと話した。母親はいたたまれないような表情で私を見ていた。
 「おじさん。僕たちも仙台だよ」
 東京から乗れば降車駅は上野か大宮しか無い為、ある程度予測はついた。ただ、分かっていても回答までの間(ま)だったり、独特の節は子供ならではだ。もし、私に子供がいたら・・・違う人生だったと、少し感傷的になった。

 時間の流れは緩やかだった。気がつけば私は小説をカバンにしまい込んでいた。小説を持ってきたことすら忘れていた。
 大宮駅を過ぎたあたりから、坊主頭が突然席を立ち、新幹線の玩具を通路で走らせた。
 「こら翔太! 邪魔になるからダメでしょ!」母親は当然の如く、激しい口調で言った。たまたま通りがかった車掌が優しく微笑んで「気にしないでください。じゃあ、こっちのスペースに」と言うなり、デッキと呼ばれる席の無いスペースへ坊主頭を誘導した。車掌は私を父親と勘違いしたのか私も来るように、と言った表情で肩を軽く触った。母親は(違うんです)と言いたげな表情だった。私は一つ首を振って何も言わずに車掌と坊主頭に付き添うように、デッキに向かった。席に座ったままの母親は激しく暴れるスポーツ刈りを必死に抱えたまま、これ以上ないまでのすがるような目をしていた。私は決して父親面でも無く、かと言って他人面でも無く、苦笑いをした。

 デッキに行くやいなや、坊主頭は叫ぶように声を上げて玩具の電車を地面に滑らせた。車掌と私は二人がかりで暴れ回る彼の勢いを止めるのに必死だった。通りすがる乗客達は、車掌に頭を下げる私を実の父親のような目で見ていた。しかし、そんな好奇なのか憐みなのか視線を受けることは新鮮だった。デッキでしばらく坊主頭をあやしているうちに私は45年間の人生で何かを失ってしまったような気がした。もしも、結婚をして10歳とは言わず、目の前の5歳の坊主頭ぐらいの息子がいたら。きっと、今独り身としての自由とは違った人生観を得ていただろう。

 私と坊主頭は再び母親の元に戻った。
 母親は罪悪感に満ちた表情で何度も何度も平謝りをした。私は、逆に貴重な経験をさせて貰ったとお礼を言いたいぐらいだった。仙台駅に到着して、母親と子二人に付いて行くように降車した。
 「今日は本当に有難うございました」母親は右手で坊主頭と手を繋ぎ、左腕にスポーツ刈りを抱いて、ややぎこちなく頭を下げた。坊主頭は目に涙を浮かべて「おじさん。遊んでくれてありがとう」と、母親に倣うようにお礼を言ってきた。私は笑顔で改札口から手を振った。

【了】

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