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私は運動ができない(跳び箱)

彼女の名前だけは知っていた。

「賞状の伝達を行います」

朝礼で先生がそう言った後、彼女の名前は頻繁に登場していた。
「剣道四国大会優勝」
「剣道全国大会〇位」
高校1年の時から全国大会に出場していたため、高校内では彼女の名前は知れ渡っていた。
彼女の名前が朝礼で告げられ「全国大会優勝」とアナウンスされると場内がざわめいた。
彼女の姿を見たことはなかったが、私とは違う位置にいる人だと思っていた。

私は高校2年になり、更衣室で体操服に着替えていた。
前のロッカーで
「あめゆじゅとてちん〇」「あめゆじゅとてちてちん〇」
と、教科書に載っていた宮沢賢治の「永訣の朝」をもじって笑っている三人組がいた。

体育の授業が始まり、さきほど笑っていた三人組の小柄な一人が前に出た。
「おーいみんな、〇〇が間違えても笑うなよー」
と先生は私たちの方に向かって笑いながら叫んだ。

体育委員の彼女はちらっと先生の方を見て笑い、みんなの前で準備体操の指揮をした。
のちに彼女は剣道部のメンバーであることを私は知る。

何段もの高い跳び箱を跳ぶ練習をしたが、能力等から全員が同じ練習はできないため、下手なグループと上手なグループに分けられた。

私は順当に下手なグループに入った。
できないグループは、他とは少し離れた場所でマットを敷き、跳び箱三段の練習をすることになった。

そのグループに身長は私と同じ160cmを少し超えたほどの体格のいい子がいた。「永訣の朝」をもじって笑っていた三人組のもうひとりだった。先生がその子に近づいてきて、その子に何かを言って笑った。

そして、先生はその子の名前を呼んだ。
先生の口から出た名前は、朝礼の賞状の伝達式でよく聞いた名前だった。

剣道全国大会出場の彼女はなぜか跳べない下手なグループに入っており、私の隣で立っていた。
体育の先生は20代イケメン男性、さらに剣道部の顧問だった。
先生は三段の跳び箱を置き、跳び方を説明した後、他のグループの指導へ行った。

私たち跳べないグループはしばらく跳び箱三段の練習をしていたが、一向に跳べるようにならない。
「跳び箱は難しいなぁ」
そう言いながら、跳べない跳び箱の練習をした。
そのうちに剣道部の彼女が提案した。
「私たち、三段が跳べないんだから、まず二段の練習をした方がいいと思うんだけど」
他の子も、「そうだ」「二段がいい」「二段の練習のほうがいい」といいだした。

剣道部の彼女は先生を呼んだ。
「せんせー」

先生は私たちのグループにやってきた。

「私たち全員三段跳べないから二段の練習をしたいんだけど」
「跳び箱二段かー?三段のほうがやりやすいぞー」
そういって先生は笑いながら跳び箱を一段外し二段にした。
「これは低いぞー」

私たちは二段の練習を始めたが、跳び箱三段を跳べない人間は二段も跳べない。
何回か練習をしたあと、剣道部の彼女がこんなことを言った。
「一段だったら私は跳べるような気がする」
他の子も、「一段だったら私も跳べるような気がする」「一段がいい」「一段にしよう」と言い出した。

剣道部の彼女は再び先生を呼んだ。
「せんせ、せんせー」

先生が来た。

「せんせー、わたしたち一段だったら跳べるような気がする。跳び箱を一段にして」
「跳び箱一段かー。低すぎてやりにくいぞー」
そう言って笑いながら跳び箱を一段にした。
「これは低いわーハッハッハッ」
「せんせ、一度見本に跳んでみて」
「跳び箱一段跳ぶんかー、ハッハッハッ」
そう言って先生は一段を跳んだ。
「一段は難しわー、ハッハッハッ」

先生が跳んだあと私たちは一段に挑戦したが、高校2年生に一段の跳び箱は低すぎて跳ぶのは至難の業だった。
「やっぱり三段の練習した方がええと思うなー、ハッハッハッ」と笑い、先生は跳び箱を三段に戻した。
「走らずに跳び箱を跳ぶことだけをしてみたら?」

跳び箱だけでない。彼女は高跳びも跳べなかった。
「せんせー、バーをもっと低くして」
先生は笑いながら彼女の要望に応じた。
「これ、跨げるぞ。ハッハッハッ」

剣道の名手はできない種目がいくつかあった。

彼女の言動は先生の笑いを誘った。
剣道部顧問のイケメン体育教師は剣道の名手である彼女の側面を面白がっていた。

できないグループの方が先生もメンバーも楽しそうだ、と誰かが言い出した。

「できないグループが羨ましい」

確かに、私は体育の時間が少しだけ楽しくなっていた。
剣道の技術が卓越している彼女を笑う人はいなかった。
剣道部の三人組の他の二人は跳び箱が跳べなくても彼女を尊敬していた。
驕ることのない彼女の人柄もあった。

さらに言えば、わたしたちは跳び箱四段を跳べるようになり、五段に挑戦していた。

肩の力を抜いて運動を楽しむ。

それが功を奏したのかもしれない。

しかし、私たちは跳び箱の上で前転をするというような高度な技は、教えてもらうこともなく練習もしなかった。    

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