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昔の都知事はマルクス主義者だった

四年に一度の東京都知事選が来月に迫っている。

先日には、立憲民主党の蓮舫氏が、”無所属”で立候補を表明した。

しかし今のところ、本命と目されている現職の小池都知事は、立候補を表明していない。

この東京都知事選だが、1955年の保守合同以来、日本の権力を握り続けてきた与党自民党にとっては、まさに”鬼門”とも呼べる存在だ。

今回は、混迷の色を深める東京都知事選について、歴史的経緯も含めて記してみたい。

革新都知事の誕生の衝撃

Wikipedia:美濃部都知事

元々は、東京都知事を含めた都道府県知事は、政府が任命していた。

それが戦後に日本国憲法が導入され、また占領軍のGHQの指導で地方自治が導入されたことから、今の直接選挙による公選制に切り替わった。選挙で都知事が選ばれるようになったのは、戦後になってからだ。

この東京都知事だが、公選制が導入された1947年から最初の東京オリンピックのころまでは、戦前の内務省に関係のある元官僚などが就任して無難に勤める例が多かった。

しかし、東京オリンピック後の1967年(昭和42年)に、この都知事選で異変が生じた。革新系の系の美濃部亮吉知事が選出されたのだ。

団地の主婦が革新都政を生む

社会党や共産党が支持する人物が就任するという驚天動地の事態が起きた背景が面白い。

それは、1960年代に盛んに建設された団地だ。特に東京の西部の武蔵野地区から多摩地区にかけて沢山の団地が建設された。

その団地の中でも代表格だったのが、西武池袋線のひばりが丘駅が最寄りの”ひばりが丘団地”という超巨大団地だ。

今でこそ団地というと、老朽化した老人や貧乏人の住まいというイメージかもしれない。しかし戦後十数年程しか経っておらず、多くの都民が貧相な借家に住んでいた時代に、鉄筋コンクリートで出来た団地は、まさに憧れの住まいだったようだ。ちょうど今の都心のタワマンのような存在だ。

その当時のタワマンに相当する団地には、数多のエリートが、挙って移り住んだ。医者や弁護士、大学教授などだ。その中には、今となっては、曰くつきの人物も混じっていた。

それは、後の共産党書記長の不破哲三だ。

不破哲三は東大物理学科を卒業した後に、日本鋼管など鉄鋼関連の産別組合の書記に就任していた。

また当時のひばりが丘団地の家賃は意外に高く、平均的なサラリーマンの給与の三割を超えていたそうだ。今で言えば20万円近い家賃になろうか。また競争倍率も高く、庶民には憧れの住宅だったようだ。まさに今の都心のタワマンだ。

共産主義者の労働組合の書記が、今で言うタワマンに住んでいたというのも意外だが、東大を出た大企業の労働組合の書記というのは、今では想像できないほどエリートだったようだ。ちょうど”おひとり様教祖”のフェミニズムで有名な元東大教授がタワマンに住んでいたのと似ていなくもない。

団地で共産主義が広がる

この当時は最先端の住宅だった東京西部の団地で異変が起き始める。なんと住民の間に共産主義が広がり始めたのだ。

発端になったのは、なんと小中学校のPTAだ。この当時、団地住人の奥様達は、この時代にしては例外的に高学歴で、大卒も珍しくなかった。また不破哲三夫人のように共産党員や社会党の党員も珍しくなかったそうだ。

今では想像もできないが、当時のひばりが丘団地では、団地の集会所などに集まった専業主婦たちが、マルクス理論の勉強会を開いていたらしい。

一方で、ひばりが丘団地がある東京都西部は、当時はまだ畑の広がる農村地帯だった。当然ながら団地以外の住人は地元の農家が中心だ。そしてPTAなどことあるごとに、地元住民と高学歴の団地住民との間で軋轢が生まれるようになる。

その結果、当時としては超高学歴の団地婦人たちが、PTAを切っ掛けに団結、団地を拠点に社会活動を始めた。日本で最初の消費者運動が生まれたのも、この東京の団地群だと言われている。

西武鉄道と団地主婦のガチバトル

特に団地婦人の社会活動として有名なのが、西武鉄道との運賃値上げ阻止運動だ。ひばりが丘団地は、文字通りすべてを”西武グループ”に依存していた。

最寄りの駅までは”西武バス”を使い、その後は”西武鉄道”に乗って通勤する。当初は団地近辺に商店なも少なく、買い物も”西武スーパー(現:西友)でするしかなかった。

この西武グループの運賃値上げや、高い物価に団地婦人たちの怒りが爆発することになった。そして最終的には、西武鉄道本社に乗り込んで、堤社長に直談判を要求する騒動にまで発展した。

団地婦人、政治家になる

その後、この団地婦人の中から市会議員や都議会議員に立候補する人まで登場した。そして「数は力」の言葉通り、団地住民パワーを結集して、多くの団地婦人が市会議員や都議会議員に当選するようになった。

最終的には、東京都の西部、特に中央線を軸に北側は西武池袋線、南側は京王線に挟まれた武蔵野多摩地区エリアの自治体の多くが社会党や共産党系に塗り替えられていった。有名な”革新自治体”の誕生だ。

今でも多摩地区では、外国人参政権の導入を目論む三鷹市の女性市長や、立憲民主党の元総理大臣である菅直人など、リベラル革新系の政治家が多いのは、この時代の名残りだ。

そして、この共産党や社会党の支配する地方自治体の最終形態が、1967年(昭和42年)に誕生したマルクス主義経済学者である美濃部亮吉都知事だ。

マルクス主義者の都知事が爆誕

美濃部都知事は、もともと東大経済学部出身の”マルクス経済学者”だ。当時は法政大学の教授をしていた。天皇機関説で有名な美濃部達吉東大法学部教授の息子でもある。

また都知事になる前の1960年代(昭和30年代)には、NHKで庶民に経済を優しく教える”やさしい経済教室”でお父さん役をやっていたそうだ。今で言うとニュース解説で有名な”池上彰”という感じだろうか。

当時の東京は、昭和30年代の高度成長が東京オリンピック開催で一巡し、公害や物価高騰などの問題が噴出していた。

美濃部都知事は、老人医療を無料化、都バス無料の老人パス、児童手当の創設、公害対策として都に公害局を設置、ゴミ戦争の終結、などなど現代を先取りする当時としては極めてラジカルな政策を次々に実行に移して都民の人気を博していった。

そして、この美濃部都知事は、その後なんと二回再選され、三期12年の長きに渡り都知事を務めることになった。

美濃部都政に関しては、都知事の最中の1973年に有名なオイルショックが発生、物価が高騰、美濃部都政は財政赤字に転落した、赤字財政の影響からかか、その後の評判は芳しくない。特に1980年以降の新自由主義全盛の時代には、美濃部都政は、社会主義政策の失敗の典型のように言われている。しかし、いま改めて内容を見てみると、環境対策など極めて先進的な政策も多いことに気づくだろう。

田中角栄の逆襲

この首都東京での社会主義や共産主義の広がりに、与党自民党は狼狽えた。そんな中、政府自民党が逆襲に出る。その先頭に立ったのが、後の総理になる”田中角栄”だと言われている。

田中角栄は総理に就任すると、美濃部都知事が導入した”老人医療の無料化”を完コピした政策を実施した。今の高齢者医療の膨張の責任は、この美濃部とそれを完コピした田中にあると言ってもいいだろう。

人は家を持つと保守化する

老人医療の無料化など、美濃部革新都政を完コピしたような政策を実施した田中角栄の最終兵器と言われている政策がある。それは”住宅ローン”だ。

今の時代、30年など長期の住宅ローンを組んでマイホームを買うのは常識だ。しかし昭和30年代や40年代には、多くの人が”借家”に住んでいた。

銀行は、高度成長で企業の資金需要が強かったこともあり、貧乏な庶民に住宅ローンを提供するようなことはなかった。当時の住宅公団(現UR)が建設した団地の多くも”賃貸”だった。

そんな借家住まいが常識だった時代に、田中角栄は大胆にも、国営の”日本住宅金融公庫”を設立して、庶民に30年超の超長期住宅ローンを提供し始めた。
今の”マイホームをローンで買う”というのが一般化したのは、この田中角栄にようる住宅金融公庫の設立がその始まりだ。

団地からマイホームへ

田中角栄によって導入された”住宅金融公庫”による住宅ローンにより、庶民がマイホームを持つことが可能になった。その結果、庶民のあこがれは、”コンクリーの団地”から”郊外の庭付き一戸建て”に移ることになる。

実際に武蔵野地区に建設された巨大団地である”ひばりが丘団地”などからは、多くの住民が郊外の一軒家に引っ越していった。

そして埼玉や千葉の庭付き一戸建てに住むようになった多くの元都民が、それまでの戦闘的な団地婦人から”従順な専業主婦”になっていった。

1970年代に入り、多くの団地住民が住宅ローンを組んで郊外に移住すると、団地で吹き荒れた市民運動も徐々に沈静化していった。

その結果、美濃部都政の後に都知事に就任したのは、元内務官僚で、高度成長期には東京都の副知事を務め、東京オリンピックを知事に代わって仕切っていた”鈴木俊一”だ。

この鈴木都知事の登場を以って、事実上革新都政は終焉を迎え、政府自民党の”都政奪還”は完了した。今私たちが見ている都政は、この鈴木都政から続くものだ。

有名なお台場もレインボーブリッジも、築地市場の豊洲への移転も、新宿の新都心に聳え立つサグラダファミリアを彷彿とさせる都庁も、この鈴木都政の時代に計画されたものだ。

団地には創価学会が広がる。

既に述べた通り、1970年代になると武蔵野地区の団地で住民の入れ替わりが発生する。当初団地に住んでいた、大学教授や医者、官僚や大企業の管理職クラスの言わば上級国民は、住宅ローンを組んで、新しく住宅地として開発された、”東急線沿線”や中央線の一戸建に移っていった。

また日本の経済発展からマイホームや、民間が建設したマンションなどが人気化したこともあり、団地は徐々に人気を失っていった。

そして家賃が安くなった団地には、代わりに貧乏な低所得層が多く住むようになっていった。今の団地の”古くて汚くて貧乏”なイメージが広がったのもこのころだ。

その庶民の住処になった団地で広がったものがある。それは創価学会だ。以前のマルクス主義に代わって、団地住民の間に創価学会を中心とした新興宗教が広がったのだ。

今の東京で公明党が強力な基盤を持っているのは、この団地の創価学会員に寄るところが大きい。

東京15区補選はタワマンの影響か?

1970年代の美濃部革新都政の後、青島幸雄都知事を除くと、東京都知事の椅子は、基本的に政府自民党寄りの候補が占めてきた。鈴木、石原、猪瀬、舛添、そして現在の小池都知事は全て保守系だ。

しかし、この保守優勢の情勢に異変が生じる可能性が出てきた。それはタワマンの影響だ。

先日行われた、江東区を選挙区とする衆議院東京15区の補選では、立憲民主党の女性候補が、自民党から選挙区を奪取した。また二位には、下馬評を覆して、れいわ新選組と近いと噂される須藤元気氏が食い込んだ。自公が水面下で支援した乙武候補は5位に沈んだ。

元々、東京の東部の下町に位置する江東区は、町工場が並び、中小企業や自営業者が多い地域だ。そのため自民党が強力な地盤を持っていた。

また区内には有名な”南砂団地”という一万人近い住民を抱える1960年代に建設された巨大団地が存在しており、共産党や旧社会党が一定の地盤を持っていた。

その江東区では、この20年ほどの間に異変が生じていた。それはタワマンの林立だ。有名な豊洲地区だけでなく、最近は清澄白河などの東西線沿線などにもタワマンが林立するようになってきている。タワマンが一棟立つだけで新規の住民が数千人増える。

このタワマン住民は、以前の下町の都民とは異質な存在だ。その中心は、夫婦とも四年制大学卒で大企業の正社員の所謂「パワーカップル」だ。また株やITなどの起業で富を築いた比較的年齢の若い”新興富裕層”と呼ばれる人たちも多い。

このタワマン住民の投票行動は従来とは異質だと思われる。多くが、労働組合や青年会議所、農協など従来型の組織には属していない。全く組織されていな上に、地縁も全くないよそ者だ。更に高学歴者が多く、スマホやSNSを使いこなし、食品や医療、教育などへの関心も高い。一言で言うと”意識高い系”が多い。特に女性にその比率が高いと思われる。

蓮舫はタワマンの支持を得られるか

このタワマンに住む意識高い系の人々は、裏金疑惑で批判を浴びる古臭い自民には反感を覚える一方で、旧来型の組合や市民運動中心の立憲民主党など従来型リベラルへの忌避感も強い。

一時は、日本維新の会が、このタワマン住民を取り込むようにも見えたが、大阪万博での混乱を見るにつけ、時に街のチンピラのような言動の目立つ維新は、タワマン住民の支持を得るには至っていないようだ。

一方で実際の投票率は、極めて低いことが容易に想像される。ようは”ハイパー浮動票”とでも言うべき存在だ。

7月に予定されている都知事選では、この”意識高い系”のタワマン住民が、選挙結果を左右する存在になるかもしれない。特に都心部では、タワマン住民が急増していることから、立候補を予定している蓮舫候補が、どれくらいタワマン住民を取り込めるかも注目点の一つだろう。


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