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彼女の思い出

会社の帰り、花を買うことにした。
僕の会社は企業の勤怠表を一括に管理して給与明細まで発行するシステムを主としていたので、大きな厄病により家で仕事をする人達が増えた結果、膨大な業務に僕の心は些細な事で怒りを感じるようになった。
キーボードを叩きながら、リリックを刻むがごとく舌打ちと溜息を交互に満遍なく。我ながら下品だが隣の同期はヘッドフォンからものすごい音量が漏れている。激しい旋律のトランスミュージックだ。
インターフェース上としか、コンタクトを取る暇はないという決意表明。ついで激しい貧乏ゆすり。

うちの会社はやる事さえやれば、特段何も言われることは無い。自由と平等に伴う高い精神性と引き換えに、僕たちは様々な厄介ごとを引き受ける。
日本人特有の生真面目さで時間外労働の精算、1人で出張しているのに、部屋は何故かダブル…果たして差額は経費として許されるのか?いかにも女性が好みそうなルームサービスまで申請する面の厚さよ…などと微妙な判断を要される書類を各企業の規範によって整える。
何百社という規範を頭にぶち込みながら、僕はラーメンを啜り、試験の為に出張したホテルに女性を連れ込む?とぶつくさ言いながら胡椒を投入する。

ダメだ。人間の社会は欺瞞が多過ぎる。

そして、僕は花を買うことにした。
花は自身の遺伝子を繋ぐ為にその薄い花弁を身に纏う。儚い生き方だ。潔いから、僕は生まれ変わるなら花がいい。人間はここ数十年稼働したら、綺麗さっぱりどこかの海とか山とかに撒いてもらおう。
もういいや。

そうして、ぼくは彼女に出逢う。

彼女はほっそりとしていて、生花の香りに包まれていた。眼がきらきらとして、奇妙な色合いに濡れていた。
彼女はどんな花を包みましょうか?と僕の目を見て、微笑んだ。店ではテクノミュージックが流れていて、その音を受ける度、様々な粒子を包み込んで瞳の色が僕には違って見えた。


花はあなたの気持ちを吸ってくれますよ。と僕の荒んだ気持ちを何となく受け取り、ガーベラや鈴蘭、ユーカリを手早く包んで渡してくれた。
冷たい指先が僕の指に少し触れた。
そして僕は恋に堕ちた。
僕は部屋にそれを持ち帰り、高鳴る胸を抑えきれずどうしようもない衝動を花へと伝えた。
花は安物の花瓶に刺し込まれ、儚げな香りを撒き散らしている。部屋はそこだけ空気の密度が高い。
僕は鞄を放って、その花を長い事見つめた。
彼女の瞳を思い出して、胸が痛くなった。

僕は幾度か花屋へ通い、連絡先を書いた紙を震えながら渡し、彼女からの連絡を携帯から受け取る。
会社で彼女のメールを受信した時、僕の身体は文字通り震えた。隣の同期がついにもお前もか。辞める前に病院行って診断書貰っとけよ。アレあると便利だぞ。と目を細めて言う。彼の机の上にはの少しづつ残ったドリンク剤の瓶が所狭しと並べてある。
中身はアルコールだったりする。

僕はあの奇妙な目を、薄暗い部屋で2人きりになって服を脱がしながらもっと濡らしたいと願っていたし、それは思ったよりも早い展開で導かれた。

彼女は花に関しては異様な知識を持っていたけれど、他はてんで駄目だった。電話を極端に嫌がって、ものすごく急ぎでない限り伝えたい事は文字にしなければならなかった。声が聴きたくて電話しても、物凄く怒りを抑えた声で、何があったの?と聞かれるので、ええと、君の声が聴きたいなどと言おうものなら即座に切られた。ドライブで助手席に乗せると右と左の区別が付いていなくて指先でこっちとかあっちとか指示した。煙草をよく吸いあまり食べ物を食べず、花のことばかり考えていた。
僕以外が彼女の内側に入り込めるとは考えにくかったけれど、彼女の外側の美しさは周囲の目を引いたし、実際服を脱がした彼女の美しさは讃えようがなかった。肌のきめ細かさや反応の良さ、僕への愛情へ確実に応えようとする誠実さに、僕は幾度か我を忘れた。
彼女はいつも首を隠すスタイルを貫いていて、それは首筋に生々しく残る3本の傷を隠す為だろうけれど、僕はそれを舌でなぞるのが堪らなく好きだった。

幾度となく彼女の中で滑らに欲望を果たしても、彼女は何となくいつもよそよそしくて僕は少なからず焦っていた。抱いても抱いても終わった後の彼女はいそいそとベットから抜け出して、ベランダで気怠そうに煙草を吸っていた。1人になりたいのよ。と言葉にしなくても分かった。
だからある夜、ベットの中で彼女は首筋の傷を撫でながら、
私の姉は高いマンションから飛び降りたのよ。と言った時、僕はそうきたか。と妙に安心した。
「その日は私と約束していたの。近所の携帯やさんで一緒に新機種に変更しようって。でも、あの厄病が流行ったから予約が必要だったのよね。組織はあの厄病に対して今迄とやり方を変えざるを得なかったのは仕方ないわよね。で、明日行こうって約束した10分後に近所の高いマンションから飛び降りたの。」
「どうして?」僕は彼女が吐き出す煙をぼんやり見つめている。部屋は暗いのに煙だけが何故か光っていて、彼女の魂が溶けているみたいに思えた。
「全く分からないのよ。姉は高級取りの医者の旦那さんと2人の子供がいたわ。専業主婦でいつも素敵な洋服を着て子供を愛していた。姉が最初の子供を産んだ時、産後ハイみたいな感じで赤ちゃんてすごい、なんで美しくてかわいいの。私はこの子と会う為に生まれたのかもしれない。とか言ってた。あなたも早く産んで、一緒に遊ばせたい。とか猿みたいに真っ赤な生き物を嬉しそうに抱いてた。」
「でも姉は自分の身体をめちゃくちゃにしたの。そのマンションの住人が地響きと大量の水が撒き散らされるみたいな音がしたって言ってた。マンションの人に申し訳ないから菓子折りを姉の旦那さんと持っていった時、お花を飾ってくれてた住人の方が教えてくれたの。その人に私たちは泣きながら住んでる場所を汚してごめんなさいって謝ったの。」
「その人はいいのよ。あなたたちは自分たちの事を大切にしてね。私も親戚が最近亡くなったの。闘病の果てだったけれど、身を切られる程辛かったわ。あなたたちは、今はやる事が沢山あって心が麻痺しているけれど、こういった亡くなり方はあなたたちの人生を蝕むかもしれない。だから、飛び降りた事実ではなくてあなたたちが知っていた彼女の笑顔とか一緒に食べたご飯とかを思い出すようにしてね。死に様ではなくて、その人が生きた記憶を思い出すようにしてね。って。」
「警察から電話が掛かってきて、私の姉の名前を告げて、どこそこのマンションから飛び降りましたって言われたの。そしてそれを母に伝えたら、母は、あんたが約束破ったからあの子は飛び降りたのよって。泣きながら言われた。まあそれも一理あるし、私もそう思ったけど母親に言われるとどうしようもない気持ちになったわ。」
「それはいつ起こったの?」
「ええと、今て何年?」
「2024年。」
「ええと、姪が8歳であの時3歳だったから5年前かしら。」
「今の西暦関係ないじゃん。」
「いや、覚えてると思ったから引き算しようかと思ったけど、やっぱり全然覚えてなかった。私は数字とか右とか左が分からないから、母親は出来損ないで独身の私がそうなれば良かったと思っても致し方ないわよね。」
「君のお母さんは悪くないかもしれない。
とてつもないショックを受けたのだから。」
「分かっている。でも私もショックを受けていた。
その時は、私の実家でいなくなった姉の子供を母と私で見ていての。姉と約束があったからうちで待ち合わせをしたから。その子がお昼寝から起きて寝ぼけ眼で姉を探しに来たの。
その子はとても人見知りで姉にしか抱かれないけれど、どうしてか私に抱かれてそして初めて私の腕の中で眠ったの。」
「とても悲しい話だね。」
「そうなの。どこにも救いがないお話。」
「お姉さんは子供と一緒に飛び降りなかったから救いはあるよ。」
彼女は少し考えて、そうね。と呟いた。
「上の子は保育園にいたけれど、下の子は連れて飛び降りてもおかしくはなかった。」
「どうしてそもそもそんな行動を選んだのかな?
君のお姉さんは。」
「わっからないよのねぇ。全く。全然。当然。いきなり。全然縁もゆかりもないマンションから飛び降りたの。」
彼女は短い時間に3本煙草を吸った。
「まだ話には続きがあって、その1月後、姉の旦那さんは公園で首を括ったの。彼の鞄にはとても大きなナイフがあって、私はそれをガムテープでぐるぐる巻きにして不燃物の日に出したの。気持ち悪かったわ。
辛いのは、分かる。うちの実家に来て、みんなで子供を育てようねって言った翌日、子供と一緒に寝てる部屋を抜け出して、彼は自死したの。で、私はその夜母親と殴り合いの喧嘩をして母の頭をかち割ったの。でも母も私の首にこの傷を付けたの。」
「だから携帯の電話が嫌いなの。私、警察から姉が飛び落ちましたって言われても大声で叫んでしまったのよ。自分の口から出る声なんだけど止められなくて、警察の人に悪い事をしたわ。」
「それにしても、君とお母さんが喧嘩する必要はないんじゃないか?」
「今でも震えが来るくらいに怒りが止まらなくて。姉の旦那さんに。勿論、姉にもよ。母は泣いてばかりだし、子供はとても小さいからたくさん面倒を見なければいけなかったの。だから、お互い大人として立ち振る舞う事に限界が来たの。だから殴り合ったわ。
母も私も必死だった。そうでもしないと死神みたいなものがいつまでもそこにいる気がしたの。
あの殴り合いがなければ、私たちは立ち直れなかったと思う。」
「女性同士の殴り合いは性的に何となく興奮する。」
「気持ちの悪い人ね。」彼女は少し笑った。
「どうして子供を作るの?捨てるくらいなら、望まなければいいのに。自分たちにできる事だけすればいいのに。」
「自死するのと、子供を捨てるのは違うよ。
人はそんなに簡単に社会制度を諦めたり出来ないんだよ。結婚とか出産とか家族とか、その言葉自体にとても大きな夢とか希望があるんだ。」
「そうね。言葉はとても大切だわ。その言葉自体の響きは美しいけれど、組織とか社会制度がそれを大きく歪める時があるのよね。多分姉はそういったものに飲み込まれてしまったようで、姉が身体をめちゃくちゃにしたのは姉のせいではない、とは分かっている。」
「でも姉の旦那さんは、もう少し頑張って欲しかったな。お葬式をするのは疲れるもの。焼き場の人もとても申し訳無さそうなのよ。子供はよく分かってないからすごくはしゃぐのよ。でも遺影を見て急に泣いたりするの。疫病が流行っていて助かったわ。親戚を呼ばなくて済んだもの。」

僕は彼女に口づけして、丁寧に抱いた。
眠ってしまった彼女の肌を撫でながら、僕はそれなりに満足していた。震える程腹を立てる人を旦那さんとか律儀に呼ぶ彼女をとても愛おしいと思った。

僕は産まれた時から家族はいない。
僕は孤児院で育ち、本当の名前すら知らない。
そこの職員がシンプルな何の由緒もない漢字を4つ並べて僕の名前として役所に申請した。みんなが親の愚痴や親戚の冠婚葬祭の感想を何の気なしに話す度、僕は曖昧な相槌を打ち適当な言葉を述べた。
その度に僕は自分がすり減るのを感じた。
悲しみではなく、消しゴムが少しづつ小さくなっていくみたいに僕の魂は削られた。
来歴を述べたところで気まずくなるのは明白であるし、そもそも僕自体が僕のことを知らないのだ。
孤児院はそれなりに快適ではあるが、家庭とは少し違う。家族について話されるとその違和感は僕自身がどうしようもなく重くのしかかり、他人と触れ合う事が困難になった。
彼女の前にも幾人か女性と付き合ったけれど、どうしても性的な交渉が出来なかった。女性達は僕をやんわりと詰り、大体季節が変わる頃に去っていった。

彼女に、いつか僕は誰からも求められなかったと伝えたいと思った。僕は生涯で抱くのはあなた1人だけだから、他の女性の事を心配しなくていいし、組織とか制度とかそういった外側の出来事は僕には全く関係ないので、君の家族が受けたような厄災はもう起こらない気がすると。
だって僕は完全に1個人として誕生した。完全に現行のシステムの外側からもたらされた、祝福されなかった子供。孤児院には親から手酷い暴力を受けてもなお、その親の関心を買おうとする不思議な光景に溢れていた。彼らは家に帰ろうと孤児院を出ようとするけれど、僕にはそういった他者に期待する衝動はなかった。僕はこの世界に対して絶望に近い表情を見ていた。長い間ずっと。彼女に出逢うまでは。
だからこそ、彼女の怒りは理解出来た。
そして、もしかしたら僕の両親は僕の命を救う為に孤児院へ託したのかもという、ただの捨て子ではないというそこはかとない希望を持てた。

そして、僕たちの魂は誰にも邪魔される事なく出逢えたのだから、その僥倖を大袈裟に伝えたいと思った。
彼女は眠りながら涙を流していて、それはこれからこの先ずっと、僕に見せる為に流れて欲しいと願った。
この世界の残酷な物語から救われる僕がいて、まだ救われない彼女がここにいる。
今までバックボーンがない自分を恥じていたけれど彼女が1人で流した涙を、全部受け入れる為にこの世にたった1人で産まれてきたのだろうとか思える。

その涙を舐めてみると不思議と甘くて、良い香りがした。彼女が愛する花の蜜のようだと思った。
そして、痛みでしか繋がれない瞬間の、少し残酷な味がした。
他人の不幸は蜜の味ってやつかな。と吸い慣れない煙草が燃えるのを見詰めながら青白く光る煙を眺めた。
彼女の姪や甥の事を考えると、孤児院の前で泣いていたであろう小さな自分の無限の可能性を見た気がした。それはとても儚い希望だけれど、朝露を含んだ花弁のように凛としていてありふれた風景。
僕らは全ての瞬間へと溶け込みながら、自分が望む方向へ舵を切れると彼女が起きたら伝えようとと思った。

https://note.com/salt_5/n/n700bd6d0351a?sub_rt=share_pw

https://on.soundcloud.com/RvsTPimffiGrrLvRA


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