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想像と理解とゆるすこと⑯

「ペットの猫が亡くなった時に、半身をもがれた気がした。」
生活困窮者の就労支援をする中で出会った言葉達。
その中で時々思い出すのが上記の言葉だ。

この言葉には続きがある。
「その失った半身を取り戻すために、働こうと思った。」
「ひきこもっていた20年の間、ずっと側にいてくれた猫が身をもってそれを教えてくれたのだと思う。」

その言葉を聞いた当時は、私は「なんて純粋な感情なんだろう」と感激して涙ぐんでしまった記憶がある。

しかし時間を経た現在思うことは、人とはそれほど大きな外的衝撃=アイデンティティの喪失もしくは崩壊がない限り変わらない、という絶望だ。

自己にとっての大切な存在が亡くなる、病気になる、介護もしくは看護が必要になる。
自分の意志とは関係のない、否応なしに訪れる外側からの大きな変化が起きない限り、今までの環境や行動、意識を変えようとはしない。
そのほうが楽だからだ。もちろん、私もそこに含まれるのだが。



2年前からだろうか、私は生活困窮者支援の現場にいながらにして「困ってるのは本人じゃないよね、親(もしくは家族)だよね。」という、どうしても拭い難い思いを抱えるようになった。
しかしその思いを職場で口にすることは憚られた。
「つながり続ける支援」という理念が、その職場では共有されていたから。

おかしくない?
本人は「つながる」ことを望んでいるのかな。
私には到底そんな風には見えない。
むしろ進んでつながりを絶っていて、そんな「つながり」なんて、気持ち悪いし必要ないと思ってるんじゃないかな。

困っているのは家族や親で、本人はできれば変わりたくない、現状のままでいい、何も考えず、ずっとこのまま何も変わらず、生温い海中をただふわふわと漂流していくような、そんな時間が過ぎていくことを望んでいるのではないだろうか。

そう考える私は傲慢なのだろうか。
自分がどれだけ「選ぶこと」ができる環境にいるか、どれだけ恵まれた環境で育ってきたのか顧みることなく、己を一段高いところに置いて他者を見下しているのだろうか。

スーパーバイズの先生が言っていた、「生きるエネルギーが低い人」、それがこういうことなのか。
じゃあその「生きるエネルギーの低い人」が発する、このどす黒いどろどろとした、怒りにも似たこのエネルギーの強さは、何だろう。

怖い。



私は支援者には向いていないのかもしれない。
正確には「生きるエネルギーの低い人と対峙すること」に向いていないのかもしれない。
相談職やカウンセラーにとって感受性の強さはある程度必要な能力ではあるが、その感受性の強さが身を亡ぼすことがある。

私はその言葉通り、身を削られてしまった。

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