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【読むな!】おなら・うんこの匂いについて

前書き(言い訳)

書き終わってから書いてますが、絶対に食事中の人と、下品な話に耐性のない人はここで読むのをやめてください。
すみません。

自分の便の、「悪くは無い」匂いと「悪い」匂い

私は生来、胃腸が弱い。よく腹を下すし、たんなる腹痛も頻発する。特に夏場は冷えると胃痛がするし、にんにくや辛いもので簡単に大腸が仕事を放棄する。
自律神経がいかれているのか、飯を食わないと消化器が動かないので、食べ始めてから便意を催し、共食する人々に気まずい思いをさせたり、心配をかけたりする(トイレに篭もる時間が長いのだ)。
きっと外国の水は、人一倍飲めないだろう。

快便のとき

消化器の調子について、だから、人一倍気にする時間が多い。
それで、あることに気づいた。体調が良いときのおならや、あるいは尻を拭く必要のないくらい後腐れなくするりと出た快便(実際、理想的な大便はその周りに透明な粘膜が覆った状態で肛門から排泄されるため、トイレットペーパーを何度も擦り付ける必要がない)は、確かに典型的なおならやうんこの匂いがするものの、嗅いでしまったとて強いて不快な思いするわけではない。むしろ「イイ感じ」といった具合で、清々しささえ感じるのは私だけだろうか。

状態の悪い便のとき

逆に、体調の優れない日の屁や便は非常に不安な匂いを放つ。単に不快というよりは警告を受けるのに近い。過度な腐卵臭や、その他言語化できない嗅いだことのない匂い。明らかに腸内細菌が異常をきたしていることがうかがい知れる。このときは、より体調の良い日のそれらとは違い、清々しさはなく、マイナスをゼロにどうにか近づけるための徒労を繰り返しているような気分になる。

匂いの感じ方の理由

これらの匂いに関する印象は、爽快感を伴っている方は「出すべきものを出した」という開放感が伴っているのだろう。観念的な理解が感覚を呼び起こすわけではないだろうから、生理的にそう決められているはずだ。排便はある種の快楽であるはずなのだ。
ちなみに私は、排便を行うと一時的に性欲が減退するようにも思う。位置が近い部位は影響関係を避けられないのかもしれない。

一方、それなりに不快で不安な匂いだが、こちらはそのまま体調のバロメーターであるわけで(多分、世界各国の昔の為政者は、毎日の便をいろいろな方法で臣下に吟味され、体調や病気などを推測されていたはずだ)、ここに危険信号があるから、快くはなれないのだろう。そういう理屈で考えているというわけではなく、そういうふうに感じるように出来ていると思う。不安に駆られれば野外での活動に積極的にはならず、寝床で大人しくしているかもしれないし、自然淘汰的にはそれが賢明だろうから。

大切なこと

一応断っておくが、私はうんこやおならが手放しに「いい匂い」だと言っているわけではなくて、うんこの匂いにも種類があって、単純な種類というにはあまりにもこちらに提示してくる感覚的な情報の差異が大きい、ということを言いたい。私を狂った人間だと思っている読者は、一週間くらい、用を足した後に便器に顔を近づけることを習慣づけてみよう。家族にバレないように。

第二の論点、自他の問題

今まで私は自分の便及び屁の話に終始していたつもりだが、「匂いの感じ方議論」に他者という次元を追加すると、複雑になる。
というのは、まあ他人の体調は実感としてよくわからないので、さしあたり平均的な体調だとして考える。
家族の使用した直後のトイレやら公衆便所やらで少なからず他人の排泄物の臭気について思いを馳せる瞬間が読者諸兄にもあると思われるが、冷静に匂いの感じ方、その記憶を分析してみて欲しい。自分のそれの匂いと多分そこまで組成的な差異はないだろうはずなのに、どうしても嗅覚がそれをキャッチするのを拒絶する生理的な強迫感に襲われるのではないだろうか。
あれは、どうやって判別しているのか、私は不思議でしょうがない。

成分的な判別

自分のと他人のとで、個人ごとに異なる匂いの指標みたいなものがあって、それを判別しているのだろうか。
それにしては、ある個人の匂いに幅がありすぎるように思える。先述したように、体調によって排泄物の匂いは様々であるからだ。
とは言え、おならの匂いの感じ方に関する研究は既にあるようだ。

この記事によると、よく嗅ぐ匂いとして自分のおならの匂いが記憶され、区別されているらしい。他者のそれを嫌う理由も、想像に難くなく、感染症など自分に害のあるものを避けるための本能だという。
ということは、どんなに個人の中で匂いの幅があり、全く違う臭気が感じられているように思えても、どの個人のおならまたは便にも共通するある指標的成分が存在することになる。

状況的な判別


成分的な判別をしているというのは説得力が十分あるが、しかし状況的な要因も検討しておかなければいけない。つまり、自分が排泄の当事者であるという身体的記憶が、直後に感じ取られる匂いへの不快感を削ぎ落としているのではないだろうか。
たとえば、真反対の例――食事のことを考えてもらえばいい。空腹時は驚異的なまでの引力を発揮する脂質・タンパク質・糖質の混合物の濃厚な香り(さしあたり豚骨ラーメンやからあげを想像して欲しい)は、腹いっぱい食べて満足、あるいはこれ以上は無理だというところまで来ると、むしろ不快な臭気にしか感じられない。実物や写真見るのも嫌だろう。間違って口に含んでしまったら、吐き気さえ催す。
当然これは満腹中枢がこれ以上消化管への物体の投入を我々の口や手や意識にやめろと言っているわけだが、当の物体の組成は満腹のときも空腹のときも変わらないはずだ。
これと同じようなシステムが、当然排泄中にも働いていると考えるのは自然なことだろう。放屁または大便をひねり出している最中、あるいはその直後は排泄物の匂いに(感性的に)鈍感になる可能性は否定できない。

確かめたいこと

とは言え、公衆トイレで個室を使用したとき、いくら自分がしていたとしても「残り香」や隣の人の匂いが漂ってきたら不快に思うかもしれない、と思ってしまうので、状況的な判断がなされているかは感覚的には怪しいところがある(「残り香」の場合は、個室に入ったときが最高点で、実際に排泄を始めると気にならなくなるようにも感じるが)。
だから、この現象を解明するために、次のような実験を行うべきだと考えられる。なお、自分が大便をしているときには自分の大便から漂っている匂いはそこまで不快には感じない、という現象は認めることとする。

①:複数人(仮にA,B,Cとする)大便を採取する。採取した大便は本人は形状を確認しないようにする。
②:少し時間をおいて(大便が大気中で組成を変化させないように保存する必要がある)、A,B,Cにそれぞれの大便を嗅がせ、どれが一番マシか、あるいは「親しみが持てる匂いか」を考えてもらう。
③:①の行程を繰り返す。
④:③で採取した大便を、今度はA,B,Cが大便をしている最中に②と同じことを繰り返す。

以上のやり方で、自他の区別をしているのか、状況的な感性の鈍りが発生するのか、事実としてはっきりするだろう。人数を増やすか、実験グループの数を増やすことでより精度が上がる。
もし有意差が見られなければ、人間はそのときリアルタイムで出している便にしか特殊な耐性を持ちえないということになる。
便を便所に流さずに保存するという醜悪な趣味の実験になってしまうが、これは下水道の整備と生活水準の向上によって現代日本人が体験する機会を剥奪されてしまった、生活において必ず伴うべき、大便と向き合う時間の再考である。食べれば出る、それを処理しなければいけない。そんな当たり前の感覚も、我々は水洗便所に大便とともに流してしまっているのだ。

……当然、実際に行う目途は立っていないし、立たせるつもりもない。やりたくないと言えばウソになるが、被験者にはなりたくない。いや、被験者として私は適役ではない。便の状態が常に悪いのだから、見た目で分かってしまう。
そういうわけで、これに興味があって、大便を採取してもよく、それでいて他人の大便と対面しても構わないという方は、私まで一報入れてくれれば嬉しい。内部的な機序はともかく、人間の外見的な感覚システムを知ることは文理問わず有用なことである。人間生理学である。

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