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【奇譚】白の連還 第2話 白い女


 その年の冬は大荒れに荒れた。正月寒波を迎え豪雪下にある白馬山系の、標高一八〇〇メートルの分岐点にある避難小屋に、表層雪崩をかいくぐって辿りついた大勢の登山家が、偶然、閉じ込められることになった。 

 さきの見えない逗留生活は人を不安にさせる。過度のストレスを心配した医師が、毎晩、ひとりづつ、話をすることを提案した。

最初の夜に話しを終えた医師が、次の夜の語り部として、若いカメラマンを指名した。

          白の連還 第2話 白い女

 よわったなぁ、オレ、ハナシがへたなんだよな、生まれつき。だからこうやって写真屋、やってんだよ、しかたなく。ハナシがうまけりゃ、もっとましな仕事やってたよ、いまごろはさぁ。楽じゃないんだ、この商売だって。

 いったい、ぜんたい、だれがこんなこと、思いついたんだ。いい迷惑だぜ、はっきりいって。もっとも、反対しなかったオレにも、えらそうにいえた義理はないんだけどね。

 さて、グチってたってはじまらないや。なにを話せばいいのか決めなきゃね。

 とりあえず、自分のハナシでもしてみるか。

 オレってもともと、内気でまじめな、公平で正義感の強い、オレが女だったら真先に惚れちまうような男、だったんだ。頭もわるくはなかったしさ。すんなり中学に上がって、ラクラク高校に入って、ちょっぴり苦労したけど、一浪-ヒトナミ-で大学に受かったしさ。チョイかじりの芸術や文学にも興味あったし、政治にも無関心じゃなかったね。時期が時期だっただけにさ。

 徹夜でよく議論したもんだ。なんとか世の中よくならないかってさ。若かったんだね、あのころは。情熱もあったし、体力もあった。けれど、とどのつまり、どこかの飛行機をハイジャックするまで思い詰めたわけでもないし、肉を食いたくなるほどひとりのオンナに惚れたわけでもない。なんやかんや中途半端にやってるうちに、平々凡々で生煮えの脳みそのまま、なんとなく世の中に出ちまったってわけさ。人畜無害で退屈きわまりない中年準備群…悲しいねぇ、まったく。なにもかも透けて見えてたのさ、あのころは。

 たぶん、それがどうにもたまらなく、腹立たしかったんだね。写真やろうって思い立ったのは。

 大学出て一年半、就職もせずブラブラしてた。こんなつまらない世の中に、わざわざこっちから出ていってやることはない。どうせどっかの金儲けに手を貸すだけのハナシなんだ。だったらなにも一っ所にこだわることないじゃないか。そう思ったから停職にもつかず、きままにバイトしながら、遊び回っていたのさ。

 そんなある日、ものの見事に、見方が変わったんだ。目のウロコが落ちるって、ああいうことをいうんだね。いまだからイカした人生なんていってるけれど、ほんとうはうんざりしてたんだよ、バイトで明け暮れる生活なんかには。

 あれはなんの予告もなくやってきた。

 妙に蒸し暑い十月の朝だった。その日もサッシ張りのバイトにいく途中だった。乗換の新宿駅のホームで、軌道から舞い上がる金臭い埃の臭いをかぎながら電車を待ってると、突然、飯屋の棚に並んだぶつ切りのタコみたいなオレの人生が、目の前にアリアリと現れて見えたんだ。

 それはまるで、特撮の怪奇映画そのままだった。完璧に分裂した自分自身が、剥き出しのまま目の前にさらけ出されたんだ。

 昨日と今日がつながっていなかった。今日と明日も無関係だった。ひとつしかない自分の人生が、腐ってバラバラになった肉片みたいに、無残に転がっていたんだ。そして、不均一でみすぼらしいそれらの断片が、いままでのオレの生そのものだったことに気づいたんだ。

 ひどいショックだった。
 オレはその日、バイトにいかなかった。

 その日かぎりでバイトはやめた。なんとかしないとオレはだめになる。はやく生活を変えなければ。本能的にそう直観したんだな、わけもなくね。たぶん、自衛本能ってヤツさ。それに、はっきりいって、変わり身が速いんだよ、このオレは。

 さて、とにかくお茶でものもうとマチに出た。ラッシュで歩くのにずいぶん苦労した。なにせ、みな駅に向かって、元気はつらつと歩いてくる。まるで黒い津波だった。駅から戻ろうなんてふとどきなヤツは、容赦なく押し返される。生産に携わらないものはゴミ同然、有産階級の鼻つまみもの、許容しがたい存在だ。みな、敵意で充血した目をオレに向け、これみよがしにサッと忙しい十月の風を吹きかけてスタスタ過ぎさっていく。たった一度、偶然、歩く向きを変えただけで、こうも世の中、違って見えるものなのか。おれも変わり身速いけど、世間の方がよっぽど上をいってるぜ、はっきりいって。

 苦労して、やっと東口の改札を出ることができた。

 さて、これからどこへ行こうか。

 迷ってるうち、駅ビルに上るエスカレーター下の壁に、いろんなポスターが貼ってあるのが目に入った。どうということはなかったが、とにかくそれを見るために、オレは近づいた。

 張り紙はみな、CMのポスターだった。

 なかの一枚に、オレは妙にひかれた。

 それは、黒の地の厚紙にスナップ写真を貼りつけただけの平凡な写真広告、と思ったが、よく見ると、じつはそうじゃなかった。

 たぶん場所はアメリカの西部かどこかだろう。盛りを過ぎた農夫がひとり、ポツンと荒れた農地にたたずんでいる。左手に持った帽子を胸にあて、だらりと下げた右手は力なくクワをにぎっていた。衣服は汚れ、くたびれていた。薄くなった金髪は、土ぼこりでバサバサ。不精ヒゲが覆い尽くした頬はゲッソリ、見るからにみすぼらしい貧乏人だった。

 その男の憂いを含んだ目が見下ろす先に、きっとそいつの妻だろう、女がひとり大地にひざまづき、手の中からこぼれ落ちる乾いた土をじっと眺めていた。女のまなざしには男以上に深い憂いが漂っている。それどころじゃない。もっと強い、もっと救いようのない、そう、絶望みたいなものが、印画紙に写した像の荒い粒子の間から、ひしひしとこちらがわに伝わってきたんだ。

 オレは、一瞬、決定的なものを見たと思った。これでオレの人生は変わる、と確信した。ゴックンとなまつばをのんで、オレはその下に書いてある字に目をやった。 

—    君もカントリー・ヴィレッジで写真をやってみないか、未来は写真とともに広がる、君のシャッターはカシアス・クレイ、フット・ワークはキュートでドライ、蝶のように舞い蜂のように刺す、ノイズは迷いのすべてを凌駕するひょっとしたら、カラシニコフのショット・サウンドより、着実でハイ・スピードかもしれないぞ…

  写真家養成研究所カントリー・ヴィレッジ
 問い合わせ先住所─東京都千代田区…

  オレはこれだと思った。これこそおれの使命だと思った。なぜいままで知らなかったのだ。オレの人生はこれをやるためにこそあったのだ。写真をやろう。写真に決めた。オレは写真ヤだ。オレがならなくてだれがなる?オレこそ適任者だ。そのためにいままでいろんなことをやってきた。そのために他人のやらないこともやってきた。雨の日も、風の日も。柔軟な精神を鍛え、あらゆる角度から世の中の事象を見ることができる目を養うために…ヘヘへ、はっきりいって、変わり身が速いんだよ、このオレは。

 オレはその日のうちにカントリー・ヴィレッジにいった。JR水道橋駅から神保町の交差点にいく大通りを一本、お茶の水寄りに入った通りの四階建てのビルに、それはあった。

 カネを払い、登録し、晴れてオレは研究生になった。

 その足で小川町に行き、四件目のカメラ屋で中古の一眼レフを一台買った。チョボヒゲでハゲのオヤジがベトナム帰りだと自慢する、マミヤの35ミリKR-30168だった。望遠も欲しかった。だがそのオヤジ、望遠で撮るなんて被写体に失礼だ、と意見しやがった。ベトナム帰りときいて面食らっていたオレは、さすがはいいこといいやがる、とつい感動したものさ。だが実際は、いい出物がなかっただけのはなしだったんだよ。あとで分かったことだけどね。

 いずれにしろいいカメラだった。カラのわりに軽量だった。ところどころ革が剥がれ、カバー・リングと右肩の一部にへこみがあった。いかにも歴戦のカメラマンが持ち歩いた貫祿のブツだった。かまえてファインダーを覗くと、一瞬、背筋がゾクッとした。シャッターの切れもよかった。音は大きかった。さしずめそのノイズは、カラシニコフのショット・サウンドより着実でビッグだったかもしれないな、ハハハハ…。 

 そうだ、アイツの話をしよう!

 こんな山のなかで、よく思い出したものだ、アイツのことを。さっきは文句をいったけど、撤回するよ、心からね。こんなことでもないかぎり、アイツのことなど思い出しもしなかったろうからな。

 そんなこんなで喜び勇んで入った研究所は、正直いって、職にあふれて食うに困った写真ヤ連中の、メシのタネに建てたようなものだった。一コース二年の授業は短大なみ。内容はたしかに豊富で工夫はしてあった。一般教養あり、必須専門過程あり、実習あり、トレーニングありで、各過程で消化しなければならない単位数もちゃんと決めてある。各過程は三から六か月構成、それぞれにそれらしき講師がやってきては、あたりまえで退屈な能書きをたれ、帰っていった。みな、クソよりお粗末な連中だった。

 オレは最初、詐欺にひっかかったと思った。やることなすこと、その辺の本屋で立ち読みすればこと足りる、まるでお粗末な内容だったからだ。

 考えてもみてくれ。なんで大学出のオレが、時事問題は別としても、一般教養で日本史、世界史、あげくの果てに地理社会までやんなくちゃならないんだ?一一九二年に頼朝が鎌倉幕府を建てたのとカントリー・ヴィレッジと、いったいどういう関係があるっていうんだ?

 しかし、ある日、自分の回りを見て気がついた。おれより年くってるやつは数えるくらい。ほかはみな年下も下、なかには中学もろくに出てないってヤツまで混じってる。

 そうか、こいつはオレの早合点だった。中学以外に学校とはまるで縁ナシのヤツらもこの中にいるんだ。そいつらにカリキュラムを合わせるのは、しごくもっともな話じゃないか。それに気がつかなかったオレの方こそ、いまいち鈍感だったのだ。

 そこでオレは、半年の一般教養は遠慮して、もっぱら図書館通いに努めた。報道誌という報道誌は、かたっぱしから読んだ。あらゆるジャンルの写真集に目を通した。オレの目は、写された像に飢えていた。撮影されたものならマッチ棒でも女のケツでも、見逃すことはできなかった。餓えたオレの目は、歴戦のマミヤ35KRのみたいに、見るものかたっぱしから呑みこんでいったんだ。

 ちょうどそんなとき、偶然、アイツに遇ったんだ。

 それは、いつも通っている日比谷の図書館の閲覧室だった。その日オレは、やがてはじまる必須専門過程の準備をやろうと、はりきっていた。カメラ-写真機-の物理的・数学的解析ならびに報道写真の歴史的分析と実戦…たいそうなお題目だが、ひらたくいえば、厚さ五ミリのレンズを使えば一〇メートル前の被写体はレンズから何センチのところで像を結ぶか、という話だった。焦点キョリの理論解析ってヤツだ。オレはわりと計算することが好きだったので、とても楽しみにしていた。

 もう一つは報道写真の発展経緯で、写真ヤと歴史が正面衝突した生々しい歴史に光を当て、写真を撮る側からそれを実戦的に分析する、というものだった。これも楽しみだった。生々しい話はなんだって、いつだって、きいて楽しいものだからね。

 図書館には閲覧室という部屋がある。借り出したい本を借りるか借りないか決めるトコだとオレは理解している。天井が高く広々していた。オレはその日も、十冊ばかり借り出そうと、世界中の報道誌を読みあさっていた。

 最後の一冊、そう、あれはたしかフランスのエクスプレスだったよ。アルジェリアの大統領急死に関する特集号だった。歌できくカスバの女しか知らなかったオレは、スミからスミまで注意深く読んだ。うさんくさいヒゲ面の男どもには興味なかったが、白いベールを被った女たちが、なんともいわくありげで、煽情的だった。

 見おわってホッと一息いれたとき、広いテーブルのオレの席の右斜め前から、妙に緊張した暗い空気が漂ってくるのに気がついた。見ると、痩せた男がひとり、分厚い写真集を自分の回りに防壁のように積み上げ、そのなかの一冊にのめりこむように見入っているのが目に入った。

 年のころはちょうどオレくらいか。カミは丸刈りで、不釣り合いに長いあごひげを生やしている。よっぽどタバコが好きらしく、彼の二メートル四方はニコチンの臭いがプンプン。右手の指は黄色く染まっていた。モヤシみたいに生白く、首筋にカビでも生え出そうな汚れたシャツを着ていた。さぞクサイやつだろうと思ったが、反対に目の辺りにはじつに清涼な空気が漂っていて、無心な眼差しでじっと写真集をながめていた。

 それは、仏像ばかり集めた写真集だった。

 一見してマニアと判断したオレは、ついからかい半分に、その男にいってしまったんだ。

「いいねェ、仏像は。心が、洗われるねェ、仏像は」

 はっきりいって、オレにはだいたいぶしつけなところがある。ヒトをヒトとも思わないところがある。とくに真面目くさったマニア面を見ると、つい、からかいたくなるんだよ。親ゆずりの性格だから、仕方がない。

 その男は、しかし、涼しげな眼差しでこちらを見ると、思いもよらない太い男らしい声で、こう反応したんだ。

「ああ、いいよ、仏像は。心が、洗われるよ。ホントだよ」

 それからニコッと、まるでガキみたいな顔でオレに笑いかけた。その瞳の涼しげな笑い顔を見て、オレは一発で、その男のことが好きになってしまったんだ。

 オレとアイツはそんな風にして知り合った。

 その日以来、オレとアイツは閲覧室で会うたびに、親しく言葉を交わすようになった。

 アイツの名はケンタといった。

 知り合って間もなく、いつもの閲覧室で、オレは単刀直入にケンタにきいた。

「どこが、そんなに、おもしろいんだ?よく退屈しないねェ、そんな仏さんばっか見ててよー…」

 するとケンタは、静かに、自信に満ちた太い声で、仏像は素晴らしい、見れば見るほど引きつけられる、といった。

「いったいどこがいいのかね、こんなカビの生えた血の通わない、ドあつかましい仏頂面のどこに、そんな魅力があるのかねェ」

「そういうな。これでけっこう、温かいのさ。かわいいヤツらさ。こっちの思いが通じるし、分かってくれる。よく見てると、生きてる人間より、よっぽど温かいのさ」

「ヘーッ、そんなもんかねェ。おまえ、ちょっとおかしいんじゃないの?たまには風呂にでも入って、そのアカ、落とせよ。そしたら一緒に、仏さんも落ちてくれるんじゃないの?」

 しかしケンタは、怒るどころか、ゆっくりと涼しげな瞳をオレに向けると、またニコッと、ガキみたいに笑った。

 ケンタの仏像熱は、それは大したものだった。

 ケンタもオレとおなじで、西新宿の私設研究所でオレより二年まえに、写真を覚えたヤツだった。彼が選択したのは報道写真と違い、商品写真だった。プロ生活わずか三年でフリーの写真ヤとして、もうけっこう稼いでいた。ひるは図書館で充電し、よるは仕事をする。場所は契約先のアトリエだ。フリーのときはもっぱら写真を撮るための旅行ということだった。

 アイツの仕事に関しては、インテリア雑誌に載った家具、食器類や花瓶など、いくつかの作品例をみせてもらった。たしかに客受けする写真だった。うすぎたなくてクサい当人からは想像もつかない、ほのかな叙情性と清涼感が、どの商品にもある種の雰囲気、温かくて爽やかな雰囲気を与えていた。

 オレは、はっきりいって、その雰囲気がきらいだった。少女趣味で情緒的な、客の気を引くだけの鼻持ちならない迎合主義が、オレにはガマンならなかったからだ。

「ケンタよ。先輩としてひとつ、教えてくれないか」

 アイツと知り合って半年ほどたった真夏のある日、有楽町駅のガード下にある牛丼ヤでひるメシをほおばりながら、額の汗を拭きふきオレはきいた。

「おまえ、なんであんな、甘っちろい写真ばっか、撮ってんだよ」
「アマっちろい?」
「そうさ。どれもこれも、おまえが崇拝する仏さんとは、まるで似ても似つかない写真じゃないか」

 まだ研究所通いのオレには、たぶんやっかみもあったんだろう。それに、ラジオからきこえてくるアンコ椿にも、少々、煽られていたのかもしれない。しゃべっているうちにオレは、だんだん口調が挑戦的になっていった。

「それによ、商品て、しょせんはカネもうけの手伝いだろが」
「そりゃそうだ」
「だからそこで、オレ、考えたんだよ。なんでおまえが仏さんにこだわるかって理由をさ」
「どう考えたんだ?」

 うすぎたないグレーのティーシャツを汗でぐっしょり濡らしたケンタは、それでも涼しげな瞳をキラリと光らせてオレを見た。

「つまりさ、おまえだって、おまえ自信の撮りたい写真を撮ろうと思ってると、オレは思うんだ。だが、それじゃ食ってけないだろ。だから手っとり早く商品で稼ぐ。でも自分の夢は捨てたわけじゃない。そこんとこのズレを埋め合わせるのに、ジレンマをなんとかごまかすために、仏さんが必要なんだろ? 仏さん見てたら、なんとなくやましい気持ちが和らいで、気分がすっきりしてくんだろ? え、ケンタ、そうじゃネーのか?」
「フーン、じつに明快でおもしろい観察だ」

 ケンタは平然としてキムチをほうばった。

「商品で稼ぐのはやましいという観察は、いかにも研究生らしくていい」「なんだ、ひとをバカにすんのか」
「それに、罪滅ぼしに仏さんを拝むという発想も、なかなかナミのヒトにはできないな」
「チェッ、先輩ズラしやがって」

 ケンタは水をゴクリと飲むと、べつにからかったわけじゃないと言い訳しようとした。すかさずオレはいった。

「からかおうがからかおうまいが、どっちだっていいさ。だがな、オレはぜったい、あんな甘っちろい画は撮らないぞ。見る人間の度肝を抜くような、根底から揺さぶるような、世界の存在理由を根本から問い直すような、そんな画を撮るんだ、オレは…」

 興奮して負けずにキムチをほおばるオレを、ケンタはあい変わらず涼しげな瞳で見ていった。

「いちどオレんチにこいよ。撮りたい画、見せるから」

 オレは内心、待ってましたと思った。まんまとオレの挑発に乗ったわけだ。ケンタもわざわざ研究所まで通って写真ヤになったんだ。あんな商品写真で満足するわけがない。自分ひとりでひそかに追求しているモノがあるはずだ。でなければおかしい。オレはそれを知りたかったんだ。

 つぎの週の日曜日さっそく、東新宿と早稲田の間の、比較的整備された住宅街の端に、継ぎ足しみたいに建った古い木造モルタル造りのアパートを、炎天下、汗を拭きふき、オレはたずねた。

 オレはそのとき、自分の作品をなん枚か、封筒に入れて持っていった。卒業制作の参考にと、そのころからもう試作をはじめていたなかの、数枚だった。

 どんな写真かって?

 あれは、都内の横断歩道をランダムに選んで、信号を待つ通勤者の群れを真よこから写したものだった。仕事場に行く多くの人間が群れて動く。べつに示し合わせたわけでもない。待ち合わせたわけでもない。おたがい、なんの共有意識も待たない赤の他人の群れだ。それが、目的だけは完全に一致している。不思議な現象だとは思わないか? オレはそこに、なにか、象徴的なテーマがあると思ったんだ。

 とにかくオレは、アイツのアパートにつくなり、それを手渡した。ひとの作品を見にいくんだ。自分のも見せるのが礼儀というものだろう?

 アイツは、信じられないことに、風呂にでも入ったのか、ヒゲもそり頭も洗い、下着もティーシャツもなにもかも着替えて、実にサッパリしたスタイルでオレを迎えてくれた。

 オレはその変身にすごく驚いた。が、もっと驚いたのは、室内が実にシックで、しかも、とてもきれいに掃除してあるという事実だった。

 ケンタの部屋は二階の西の端にあった。

 薄い化粧板を施した入口のドアを開けてなかに入ると、小さなダイニングだった。壁は合成樹脂の塗料で白く塗り上げ、床板は、なんとワックスでピカピカ光っていた。夏の盛りだというのに室内は冷房が効いて寒いくらい。ニコチンとワックスの臭いがさほど気にならなくなるほど冷えていた。

 奥の六畳の間にはあずき色のシックなじゅうたんが敷きつめてあり、白や黒やベージュの小さなレザーのクッションが五つ六つ、無造作に転がしてある。ベランダの手前、引き戸の左の壁には、安価な節目の白木で作ったタタミ一畳分ほどの板を、太めの垂木で組んだ足の上に置いて机にし、右側の壁面には仏像の写真が一面に張りつけてあった。チラリと目をやったオレは、撮影のための旅行というのはコイツらのことだったのか、と呟いた。

 そのとなりにもうひと部屋あったが、たぶん寝室にでも使っているのだろう、黒塗りの引き戸でかたく閉ざしてあった。

 オレは、壁一面に貼りめぐらした写真群のマニアックな様子といい、アイツからは想像もできないシックな部屋構えといい、そこにはどうもワケありな事情があると憶測した。なので、なにくわぬ顔でこうきいたものだ。

「おまえ、コレ、いるンじゃネーの?」

 かるく首をたてに振り、意外にあっさり認めたケンタは、ヤニで黄色く染まった歯をニヤリと見せ、クク…と喉の奥で笑い、天井に向かってフーッと煙をはいた。オレは内心、ケンタのことが急に憎らしくなった。仕事への熱の入れ方やぶざまな格好からみて、オンナのかけらもないヤツだと思っていたからだ。ところがどっこい、スミに置けないヤローだったんだ。

「うまくやりやがって」

 ケンタは、しかし、また意外な反応でオレに答えた。

「ソレ、もおわったんだ」
「おわった?」
「捨てられたのさ」
「なんで?」
「コイツさ」

 ケンタが指差したのは、ほかでもない、壁一面に張りつけた一連の写真群だった。

「ぜんぶコイツのためさ…」
「コイツがどうしたんだ?」
「阿修羅さ、奈良は興福寺の阿修羅像だよ」
「知ってらい、それくらい」

 いいながらオレはピンときた。この仏サンにどうしようもなく取り憑かれ、心底惚れちまったっていいたいんだろう? 

「な、ケンタ、そうだろう?」

 実際、その辺の事情は、アイツの部屋に入ったときからおおよそ察しはついていた。けっこう長く付き合ったオンナがいる。もちろんそのオンナとの馴れ初めなんか、知るよしもない。だが、壁の写真を見ただけでピンときた。そのふたりがいま、破局寸前の仲だってことに。

 だってそうだろう、自分と一緒にいる男が、これだけ自分以外のモノに、特定の仏さんに心を奪われ、気持ちを注ぎこんでいるのを目の当たりにしたら、どんなヌケた女だって、愛想尽かして逃げちまうに決まってるじゃないか。

 オレは、しかし、なにも分からないフリをした。

「コイツに惚れちまったのか?」

 とろけるような目で阿修羅の写真群をながめるケンタは、なにもいわず、意外に骨太の毛深い人指し指をそのなかの一枚の上に置くと、ギューギュー音が出るほど撫で続けた。阿修羅の唇の上にべっとり付いた湿った脂の跡が、ガラス越しの真夏の午後の光を受け、にぶく光った。

「惚れていないといえばウソになるな」
「このヤロー、禅問答やってんじゃないぜ」

 オレは、つい、まだ会ったこともないそのオンナの立場になっていった。

 これだけ部屋が整い、居心地いいのも、オンナがいての話だ。オンナが優しくて可愛らしい心を持っていればこそのハナシだ。そんな温かい生身の生き物をないがしろにして、こともあろうに、こんな三面六臂の化け物にウツツをぬかすとは、どういう了見なんだ!…

「まあ、そういうな」

 オレの憤慨をまじめにとったかとらなかったか、ケンタはもっと近寄ってじっくり写真を見ろといった。

「な、この面、どうだ、この世のどこに、こんなに幻想的でエロティックな、官能的な面があるっていうんだ?」

 大きな喉仏をポンプみたい動かしてゴクリと唾を呑みこんだケンタは、タイヤのホイールカバーを工夫して作った灰皿に吸殻をねじこむと、無言で写真を眺め、深々とため息をついた。ヤニ臭い息と洗いたてのシャンプー、それにワックスが混じり合った奇妙な臭いのなかで、不思議なことにオレはそのとき、阿修羅がコイツの命取りになると、はっきり予感したんだ。

 壁に張りつけた阿修羅像の数は、四つ切りで優に五十枚は越えていた。みなモノクロで、暇さえあれば奈良に足を運び、小型カメラで守衛の目を盗みつつ、苦労して撮りためたものだということだった。

 全身像、半身像、大写し、様々な角度から接近、肉薄した顔面のクローズアップが、たがいに重なり合い、ところ狭しと並んでいる。そばの柱にはベタ焼きを無造作に束ね、手の形を真鍮で鋳造したクリップに挟み、まとめて吊るしてあった。

「どうだい」

 ヤニ臭い息でケンタがいった。

「これが、この純真無垢な美少年が、むかし天地空中を暴れまわった、手のつけられない悪鬼だと思えるかい?」

 アイツはまた、骨太の毛深い指で、その美少年を愛しそうに撫でた。

「いいか、阿修羅はもともと悪鬼だった…」

 ケンタの独り言はつづく。

 いまから二千五百年もまえ、ちょうど釈迦が悟りを開くころ、阿修羅は仏の住む須弥山下の大海底に住んでいた。もともとインドの善神だったが、太陽や月、日本でいう帝釈天のインドラ神などと争ったため、悪鬼となった。海底には他にも阿修羅のような悪鬼が大勢、住んでいた。連中には大きな悩みがあった。修行中の釈迦が悟りを開き、仏陀になって衆生を救済し平和な世の中を築いたら、まことおもしろくない世の中になる。そうならないことを望んだ。だが釈迦は、六年の苦行でさまざまな邪神を降魔し、ひとり、さっさと悟ってしまった。そこで連中、釈迦の説法をきく衆生のじゃまをして、みなが説法にきき入らないようにしようと企てた。ところが説法をきくうち、阿修羅はすっかり感動し、他の悪鬼が約束どおり騒ぎ立てると、逆に怒って彼らを追っ払ってしまった…。

「ほら、これをみろよ」

 ケンタは机の上の本立てから絵はがきを一枚、抜き取ってオレにみせた。アイツの目からはいつもの涼し気な表情は消え、代わりに熱のこもった、鋭い眼差しがそこにあった。

「これは妙法院三十三間堂にあるもう一つの阿修羅像だ。釈迦を守って他の悪鬼と戦う姿を表したものだ。力強く、たくましく、無敵の武人を彷彿とさせるだろ。でも、この阿修羅は、オレはあまり好きじゃない。いや、きらいだな。どこかウソくさい。この前で説法のありがたみを説かれた日にゃあ、テヤンデー、おおきなお世話だッ、てなもんさ。一分だってきいちゃいられないよ」

 ケンタはポイと絵はがきの阿修羅像を机の上に捨てた。

「逆に、コイツはちがう。ぜんぜんちがう。見ろよ、この抽象的で観念的な面。むだ肉を徹底的に削き落とした体。コイツはまさに、自己に内在する悪鬼を克服する至福の喜びを開示した表情だ。しかし、じっくり見てみると、ほら、カレの中の悪鬼は、まだ完璧には克服されていない。分かるか? その証拠はここだ、この、眉の微妙な歪みを見てみろ。眉をわずかに引きつらせたこの苦悩の表情、これは、邪悪を願うあさましい心と、法悦の境を希求する崇高な心の、両極の間で引き裂かれた、矛盾を矛盾のまま雄々しく認めて生きようとする、生身の苦しみを背負った人間のみが知りうることができる、絶望の表情そのものさ!」

「オマエ、チョイ、哲学書、読みすぎじゃネーの?」

 オレはついにいってしまった。

「なにが生身の人間なんだよ。矛盾をありのまま冷徹に眺めて生きようとする、だって? ヘン、きいてあきれらあ。ペンキがはげて色も落ちて、よくみりゃ、ひび割れだらけの単なる木像じゃネーか。そいつが、なんで、生身の苦しみを背負った人間なんだ、こんな壊れかけた仏像がよ」

「そりゃあそうさ」

 ケンタは素直に認めた。

「なんせコレができたのはいまから千二百年もまえのことだ。ムリもないよ。ま、そこまでは、オレの勝手な思い入れとして、きき流してもいい」

 阿修羅の上の毛深い指にギュッと力が入った。

「だがな、コイツの持つ中性的な、ホモセクシャルな魅力は、だれも否定できないぞ」
「ホモ!?」
「あどけない童子、りりしい少年、闘争心を克服した、というより開放された、法悦の喜びを湛える優しい顔、にもかかわらず、どこか根源的な苦しみに耐えるマゾヒスティックな表情、これが見る人間の欲情さえそそるんだ」「あきれたな、オマエがオカマだったとはいまのいままでオレ、知らなかったぜ」

 ケンタの目が熱っぽくギラリと輝いた。

「オマエも写真やろうって男だろう?」
「オー、そのとおりだ」
「じゃあ、ナミの人間と視点が違うってことくらい、分かってるはずだぞ」

 タバコに火をつけ、ケンタはいった。

「オレたちの目は水晶体じゃない。特殊な光学レンズだ。いわば肉の煩悩から脱却したカメラ・アイだ。レンズを通して対称を見る。欲情するのはオレのアソコじゃない。この目が、カメラ・アイが欲情するんだ」
「欲情しすぎて濡れすぎるなよ。なにも見えなくなるぜ」
「オマエ、どこまでそう形而下的存在をきどるんだ?」
「形而下的存在だって!?」

 オレは飛び上がった。

「やめてくれ、そんなの、オレのガラじゃネーよ」

 からかうつもりはなかったが、クソまじめな顔で能書きをタレるケンタを見て、オレは少々、気恥ずかしくなっていたんだ。

 はっきりいってあのころのオレは、哲学カブレにアレルギーをおこしていた。自分も一時期カブれたことはあったが、とてもオレの知能指数ではついていけないと判断して、早々に撤退した。

 ところが、無知といおうか無謀といおうか、ない頭に哲学用語をつめこんで、善良でささやかな生活者を攻撃してはほくそえんでるヤツらが、腐るほどいたんだ。そういう連中を相手にしたときのオレのアレルギーは、肌が七面鳥よりひどい鳥肌になるほど、最悪だったよ。

 ケンタがその仲間というわけではなかったが、反射的にムカッときたオレは、つい皮肉のひとつでもいってやりたくなった。オレって、やっぱ、気が短いのさ、はっきりいって。

 少々くすぐったかったが、自己反省もかねてオレはいった。

「ま、この画には、形而上もその下もない、独特で生身の、身を切るような厳しい視線が、感じられるな」
「ン、少々、ほめすぎの感はあるが、やっぱりオマエも、カメラ・アイだ」

 ケンタは満足そうだった。

「だが、ソコんとこをアイツは、理解してくれないのさ」
「アイツって、コレのことか?」
「そうだ」
「あったりメーよ」
「なぜだ?」
「オマエ、いちど、あの画を見てるときの自分のツラ、カガミでみてみろ」「どういう意味だ」
「ロリータ趣味にプッツンした変態そのままの目つきだぜ、はっきりいって」
「!?」
「そんな変態と、まいにちいっしょに住んでられるか!」

 いいながらオレは、自分の想像がますます正しかったことを確信していた。

 ケンタはオンナと一緒に住んでいた。そのうち彼は阿修羅とかいう化け物に恋をした。オトコはくる日もくる日もその写真のことしか考えない。それしか眺めない。オンナは我慢する。じっと我慢する。いつかオトコが自分に振り返ってくれることを願いながら。
 しかし、その時はやってこない。長い忍耐の末、ついにオンナは決断する。こんな変態と一緒にはもう住めない、と。だが、そのまま永遠に離れてしまうわけにもいかない。オトコひとりの生活だ。気になる。自分とて淋しい。孤独な東京の生活だ。別れればそれまでの過去が無になってしまう。空白の過去に耐えていく勇気はない。だからオンナは定期的に古巣へやってくる。なにかとオトコの世話をし、掃除をし、料理をつくり、帰っていく。泣けるじゃないか、この話!こんな心根の優しい女が、まだ東京にいたなんてよォ!

「オマエなァ、そんな理不尽なことしてたら、いまにロクなことにはならネーぞ」

 オレはまた、まだ会ったこともないそのオンナの身になって、ケンタにいった。

「たしかにオレたち、カメラ・アイだ。しかしなァ、オンナを見るときくらい、会うときくらい、ライフ・アイになれよ。それはなにも、禁じられたことじゃないぞ。カメラ・アイとライフ・アイの間には一本の回路があるんだ。オレたち、いつだってそこを、行ったりきたりできるんだ。その往来そのものが、人生ってヤツじゃないのか?」
「ヘー、オマエから人生論をきこうとは思わなかったよ」

 こんどはケンタがオレをからかう番だった。しかしオレは、あえて反発しなかった。オレ自身、なんでそんなことをいってしまったのか、見当もつかなかったからだ。
 オレは、熱を帯びてギラリと光るケンタの目を避け、マニアックな一群の阿修羅像を眺めた。
 邪悪と法悦の矛盾に耐えるマゾヒスティックな魅力…とアイツはいった。なんとなく分かるような気がする。細筆で苦渋をトレースしたような眉の下でじっとこちらを見返す凛々しい二つの瞳…たしかにそこには摩訶不思議な魅力があった。

 じっと見ていると、いつのまにかその瞳を通して、自分を見ているような気にさえなった。そこを通して広大な矛盾の世界が広がり、荒涼とした土漠をさまよう自分が見える。それは、酒が好きで、女が好きで、元気はつらつ、なにひとつ不自由のないオレのはずだった。だが実際には、やせて青白く、萎びてシワだらけの自分だった。あさましく餓鬼道を這えずり回り、ジュージュー脂を垂らして業火で焼かれるオレが見える。

 ぞっとしてオレは、阿修羅像から目を逸らしてケンタにいった。

「ケンタよ、コイツはマゾじゃない、サドだぞ!」

 とたんにオレの目の前で、一群の阿修羅像が次々とケンタに襲いかかり、衣類を剥ぎ取っては後ろからせっせと犯しはじめた。オレはこの邪悪な幻覚を必死で振り払おうとしたが、だめだった。犯されるケンタのやせた肉体は熱くほてり、青竹のようにしなり、局部が擦れる摩擦音やほとばしる体液の音やニオイまでが、ありありと耳や鼻にきこえてきた。オレの目は、阿修羅の上を這い回るケンタの毛深い指に吸いよせられ、それを支える黒々した体毛の手や上腕に吸いつけられた。そして、ワックスとシャンプーとヤニの混じった奇妙な臭いのなかでオレは、その生身の腕に自分の唇を思い切り押しつけたい衝動を、必死でこらえていたんだ。

 なんとも気味がわるくなったオレは、早々にケンタの家から退散しようと決めた。そのままいると、邪悪な幻覚に呑みこまれ、アイツに抱きついたあと、どうにかなってしまいそうな気がしたからだ。おれはとにかく、じつにそっけない挨拶だけ残して、大いそぎでアイツの家を出た。

 オンナには会わなかったのかって?

 もちろんオレも会ってみたかったさ。だが、だめだった。なにせ、二週間おきにしかやってこない、心やさしく控えめな女ということだったからね。それを知らなきゃオレだって、彼女が現れるまで待ってたかもしれないな。あんなヤロウにぞっこん惚れこむ女がどんな女か、ぜひ見てみたいと思ったからね。

 だが、表に出たとたん、そんなことはきれいに忘れ、東新宿へ帰る途中、ずっと考えた。たったいまヌラリと臓腑をひとなめしていった、オレのなかの情欲のことだった。

 なんでオレがアイツの腕にしゃぶりつかなければならないんだ? どうしてこのオレが、アイツの臭くてうす汚れた肉体に、ホモセクシャルな欲情を感じなければならないんだ? ジョーダンじゃないぜ! こんなことがあり得てなるものか! 
 道すがら思った。これはきっとあの阿修羅とかいう仏さんの魔力に違いない。カオが三つに腕が六本、天地空中を駆けめぐった、やせてペンキも剥げてるくせに妙に生々しい、あの奇怪な化け物のせいにほかならないと。
 ところがその化け物は、実際にはオレを陥れるどころか、なぜかオレ自身が初めに直観したとおり、肝心のケンタの方を完璧に狂わしてしてしまったのだ。

 異変はケンタのアパートを訪ねた直後から起こった。

 つぎの週の木曜日、日比谷の図書館で待ち合わせたのに、アイツはこなかった。その土曜日、恵比寿の写真美術館にいっしょに行く約束だったが、やっぱりこなかった。変だと思った。アイツはワリと律儀で、約束通りいかないときは、必ずまえもって連絡してくる。心配なオレは家に電話したが、いなかった。契約先のアトリエにきくと、撮影にはちゃんと出ているという。

 それでオレは早合点した。

 フン、そうか、オレがアパートでいったことによっぽど腹を立てたとみえる。なんでェー、気のちいセーッ! たかだか血の気の多い写真ヤのタマゴが、思い余って舌の先でフライングしただけの話じゃないか! オレだって悪気があったわけじゃない。阿修羅が化け物に見えたから化け物といい、女と引換えにする価値もないからバカなヤロウだといったんだ。それのどこがわるいってンだ、エー、フザけんな、このヤローッ!

 だが実際は、そんな月並みなマニア症候群ではなかったんだ。まったく考えもできない、想像もつかない出来事が、そのときアイツの心の中で起こっていたんだ。

 アイツと会わなくなって四週間目の日曜日、安否を気づかう口実で、じつはオンナみたさに、アイツのアパートを訪ねてみた。
 鍵はかかっていなかった。ドアを開けてなかを覗くと、ヤニの臭いが鼻を突いた。午後三時だというのに、カーテンは締め切ったまま。うすぐらい。室内を見渡したが、残念ながら女の気配はなかった。そうなれば勝手知ったるわが家、オーイ、はいるゾー、とつかつか上がりこんだ。

 部屋はこのまえと違って見事な散らかりようだった。生ゴミの腐った臭いが鼻を突く。あれから掃除のソの字もしてないらしい。とうとう女に見捨てられたか。ムリもない。どうだ、床いちめんクズの山だ。チリ紙、新聞、雑誌、本、タオル、下着、その他もろもろ、一切合切、散らばって足の踏み場もない。ワックスの代わりにカビ臭い臭いが鼻を突く。流しに張った針金には、現像ずみの数しれないネガが乱雑にひっかけたまま放ってある。冷房が効いているせいか、空気は埃っぽくない。それだけがせめてもの救いだった。

 さて、アイツの生活破綻の元凶でもある阿修羅群像をもう一度見てやれと奥に入ったとき、いきなり左壁の黒塗りの引き戸が開いて、真っ青なケンタが冬眠でやせ細った穴熊のようなかっこうで出てきた。

 ギクリとしたが、何気ない風をしてオレはいった。

「ヤー、いたのか? 上がらせてもらったよ」

いくら連絡してもだめなので、心配できてみたといおうとしたが、ケンタはその暇を与えなかった。

「オイ、ちょっときてくれ!」

 いうなりケンタは、オレの左肩を右手でわしづかみにすると、意外な腕力でオレを隣室に引きずりこんだ。
 隣室は思ったとおり、セミタブルのベッドを入れた寝室になっていた。ベランダの反対側の押入れは、改造暗室になっていた。ケンタはそこへオレをねじこむと、自分もあとからむりやり入ってきた。ほの赤いセイフティー・ランプのなか、わずか一畳の密室でオレとケンタは向き合った。ヤニと体臭と現像液の入り交じった奇妙な臭いで吐きそうになったが、ケンタの只ならぬ様子に、それを口に出すことさえはばかれた。

「よく見ててくれ、まちがいないか、いいな」

 危機迫るケンタは、その表情とは裏腹に、ネガの現像から焼き付けまでのプロセスに間違いないかよく見てくれと、実にばかげた要求をしてきたのだ。

「そんなこと、オレだって、一年もまえからやってるぜ」
「そうじゃないんだ。やり方にまちがいがないか、よく見てくれというんだよ」

 ケンタはザックから35ミリのネガ・フィルム十数本を取り出して作業台に並べると、セイフティー・ランプを消した。真っ暗で蒸し暑く、悪臭でむせかえる空間だけがあとに残った。

「まず、ネガを開ける。現像リールに巻き取る。それをタンクに放りこむ。それからシェイクする。固定液を入れる。待つ。出す。リンスする。現像リールに巻き取る…」

 ケンタは暗闇のなかで自分の行為を逐一報告した。そのつどオレは、アア、アア、となげやりな口調で応じた。ポリタンクを締める音、シェイクする音、開ける音、リンスタンクに放りこむ音…なにも見えず、むせかえる厚さのなかでオレは、執拗に現像作業を繰り返すケンタの姿を思い浮かべた。

 二十分もたったろうか。

 蒸し暑くて、臭くて、気分がわるくて、もうどうにもがまんできなくなったころ、セイフティー・ランプがパッとついた。

「オイ、どうだ、見てくれ!」

 暗室のドアをけとばし、タンクをかかえてケンタは流しまで突っ走った。

「ナニが映ってる?エエ、ナニがウツってる?」

 そこらじゅうに水を撒き散らし、ケンタが流しの針金に引っかけたネガを見ると、どれもみな電車をサイドから撮っただけの、あたりまえの写真だった。

「なんだ、オマエ、狂ってるのは仏さんだけかと思ったら、まだあったのか?」
「よく見ろ、なにが映ってる?」
「JR山の手線じゃネーの?」
「総武線だ」
「それがどうしたんだ?」
「乗ってるひとを見てくれ」
「満員だぜ、こんなラッシュにゴクロウサンなこった」
「オンナはいるか?」
「オンナ?」
「そうだ、オンナだ」
「オンナなんかいっぱい、いるぞ。ヤセたのもいりゃあ、フトっちょもいる。ビケイもいりゃあブスもいる。ウジャウジャいるぞ」
「ちがう、白い女だ、白い」
「白い女?」

 オレはネガから目を離してアイツにきき返した。

「白い? なにが白いんだ? 服か? 髪の毛か? 皮膚の色か?」

 モノクロつかまえて白も黒もないだろう? 写真でバリバリ稼いでるヤツが、習いたてのガキみたいに、いまごろナニいってやがるんだ!

「ドーしたんだ、オマエ!まるでキツネツキみたいな目してるぞ、病気じゃネーのか?」
「白い女だ、白い女だ、ソイツがドアの、右側のドアの、ガラスの向こうに、こっち向いて立ってるだろうが!」
「イネーよ!」

 実際、流しの窓の、真夏の午後の明かりに十数本のネガを透かしていくら探してみても、ケンタのいう白い女はどこにも映っていなかった。

 ケンタは、しかし、なおもしつっこくオレに問いただした。いいかげんアタマにきたオレは、ぶら下がったネガを全部わしずかみにするや、アイツめがけて投げつけた。

「そんなに信用できなけりゃ、テメーで見りゃいいだろッ!」

 ケンタは、腹を立てるどころか、ガックリ膝を折ってその場に座りこみ、バラバラに散らばったネガを拾い集めると、ズルズル鼻をすすって泣き出したんだ。そのさまを見てオレは、これはタダゴトじゃないと思ったね。

 人間て、ながい間生きてると、といってもオレまだそんなトシでもないんだが、なんやかんや精神的にまいるトキってあるんだよ。そんなとき、木が森にみえたり、針が大木にみえたり、水溜まりが大海原にみえたりするものなんだね。勘違いっていうか、錯覚っていうか、また幻覚っていうヤツなのか。いずれにしても、なにかが正常な感覚の働きを、恣意的に阻害するんだ。むかしからオレはそれを、ワナだと思ってる。人間の力の及ばないナニかが、力強い意思力と支配力をもったダレかが、人間をたぶらかすために、ある日突然、きままにワナをしかけるんだ。するとオレたちのだれかが、とりわけマジなヤツが、かならずそれに引っかかる。ヤツらはそれを見て、どっかで嬉しそうに笑ってやがるんだ。憎たらしいがしかたがない。なんたって雲の上の連中なんだ。手の出しようもないじゃないか。

 ゴミだらけの床に座りこみ、だらしなくハナをすするアイツを見てオレは、これはまさにワナだと思った。あの三面六臂の化け物がしかけたワナに、アイツは見事に嵌まってしまったんだ。

「どうせ、オマエ、あのアシュラに似たオンナでも見たんだろう?」

 ケンタは、しかし、オレの推理を頭から否定した。

「違う!阿修羅には似てもにつかない、正真正銘の、生身の、白い女なんだ!」
「そんなに美人なのか?」
「いや、そうじゃない。どっちかといえば、色気のない平凡な女なんだ」「そんな女が、なんでそんなに気になるんだよ?」
「分からない。ただ、どういうわけか、惹かれるんだ」
「ただ惹かれるって、オマエ、男が女に惹かれるのは、アレしかネーだろが?」
「オレもそう思う。だが、違うんだ。向こう側にいるあの白い女を見ると、フッと気が抜けて、どうしてもそこへ行って、体ごとのめりこんでしまわなければ、と思ってしまうんだ」
「オマエ、女に捨てられて、飢えてんじゃないのか。白い女なんて、どこにでもいるぜ。真っ黒な女でもファンデーション、コテコテに塗ってコンパクトでパカパカたたきゃあ、白い女、一丁、上がり、だぜ」
「いや、あの女は違う。アイツはたしかに、まいにちオレの前に現れ、オレににこやかに笑いかけ、思わせぶりに手を振るんだ」
「手を振る?」
「そうだ」
「向こうからか?」
「そのとおりだ」
「どこで?」
「お茶の水のてまえだ」
「お茶の水のてまえ?」
「オレは新宿から中央線でお茶の水までいく。アイツは、どこからくるのか知らないが、いつも向かいの総武線に乗ってるんだ」
「総武線?」
「オマエも知ってるだろう、信濃町を過ぎる辺りからお茶の水の駅まで、中央線と総武線が並んで走るんだ」
「ああ、環状線ならドコにでもある風景だ」
「あいつは、まいあさ、かならずオレが乗る車両のオレのいるドアの向こう側にいるんだ」
「偶然だろう? それに、どこに乗ろうと、ひとの勝手じゃないか」
「オレはヘンだと思って、試しに場所を変えてみた。そしたら、やっぱり、オレの行くトコいくトコ、かならずオレの前に現れるんだ、そして、オレを誘うんだ、こうやって、腰の辺りで真っ白な右手を振って、それから、それから、サッと、消えちまうんだ」
「消える?」
「そうだ、消えちまうんだよ!」

 ケンタはハナをグシュグシュいわせ、懸命に訴えた。お茶の水駅に着くまえ、道路橋の下を電車はもぐる。橋の下に入る直前、白い女はケンタに笑いかけ、右手を振ってかるく合図を送る。まるでつぎの駅で下りるからアナタも下りてといわんばかりに。

「単なる、オマエのひとりよがりだろう?」
「断じてちがう!」

 ケンタは強く否定した。

「オレもおかしいと思った。だから、こっちからも合図してやったんだ、ホントにツギで下りるのかい?ってね。そしたら、アイツは、しっかりとうなずくんだ。なにか言いたげな黒い目を、伏せ目がちになんどもまばたかせて、白いカオいっぱいでハニかんで、アイツはうなずくんだ。だからオレは、電車が早くあの短い橋の下を抜けないかと、イライラして待つんだ。ところが、そこを抜けたとたん女は消えてるんだ、アイツはもうそこにはいないんだよ」
「車両がズレてんじゃないのか?」
「いや、確かめた。八両編成で停車位置もおなじだ。ホームに止まったとき、ぜったいズレないようになってるんだ」
「橋の下で席に座ったんだろう?」
「あり得ない。あのラッシュだ。ウデ一本動かせないほどギューギュー詰めなんだ」
「じゃあ、なんなんだ? オマエのアタマがオカシクなったとでもいうのか?」
「だから、オレもオカシイと思って、写真に撮れば分かるだろうと考えた。だろう? これに映りゃあ、幽霊でもお化けでもない。正真正銘、生身の人間ってことになるじゃないか」
「なるほど」
「ところが…」
「ところが、何枚撮っても、映ってない?」
「そうなんだ! そのとおりなんだよ!…」

 ケンタはガックリと肩を落とすと、またハナをズルズルすすって泣き出した。ゴミや雑誌の散乱したダイニングの床の上で、大の男が、まるで姑女にイビリ抜かれた嫁みたいに、めめしく泣いてやがる。そんなだらしない男を目の当たりにして、オレは腹が立った。が、また、かわいそうにも思った。いったん嵌まったワナからは、そう簡単には出られまい。だって、そうだろう。とどのつまり、きままな雲の上のヤツらが、いつかまた、きまままに気持ちを変えるまで、じっとがまんの子で耐えていく以外、手はないんだから。

 それから半年間、オレはアイツに会わなかった。会えなかった。なんども家に連絡したが、つかまらなかった。年の瀬に仕事場に問い合わせてみたが、契約切れで二ヵ月もきていないということだった。気になった。アパートに行こうと思った。が、行かなかった。じつはオレも忙しくて、他人のことなど構っているヒマはなかったんだ。

 時間のたつのは早い。二年と区切られた研究所通いも、いつの間にか終わりに近づいていた。年明けて二月末には、卒業制作の作品を出さなければならない。報道写真を選んでいたオレは、できるだけ方々歩き回る必要があった。足で稼ぐしかない世界だ。少しでも世相を反映した事象に出会うと、かたっぱしからマミヤ35KR-30168に収めた。

 ところで、さっきもちょっと触れたけど、卒業制作の構想はこういうものだった。

 まったくランダムに漢和辞典を開く。開いたページから一つの単語を選ぶ。自覚、労働、停止、楽屋、千秋楽、信号、交差点、なんでもいいんだ。要するに、偶然選んだ言葉に写真の方を合わせていくわけさ。たとえば自覚だったら、オカマが鏡の前で鼻毛を切ってる画とか、労働だったら、自分の半分もあるペットの犬を抱いて歩く毛皮の成り金婦人とか、いつかオレの仕事の見本にケンタにも渡した、信号を待つ無関係な群衆の完璧な一致性とか、なんやかや、いろいろあるのさ。そんなものをワンサと撮って、収録、編集する。

 あれは二月の二日だった。

 どういうわけか、めずらしく早朝に目がさめた。すぐ卒業制作のことが頭に浮かび、ほとんどできあがった写真集を、また初めから見直した。締切までに間がなかったが、いまひとつ、納得がいかなかった。切れ味がわるかった。これが現代だ、と大見栄を切れるものがなかった。象徴性をコンパクトでリアルな画面に圧縮していくプロセスが甘いのだ。観念に走り、現実に則していない。オレは焦っていた。

 なにが足りないのか?

 答えは、しかし、分かっていた。第二次石油ショックの直後だっただけに、現代そのものに肉薄するにはどうしても、砂漠のパイプラインを撮る必要があった。現代社会に血肉を供給する血管そのものが、大ピンチにみまわれている。それを一発で表出できる写真が欲しかった。

 だがオレには、中東に行く金もなければ時間もない。それは、実に、あたりまえのことだった。だが、そのあたりまえのことが、悔しくて腹立たしくて、なんど画を見返しても、あきらめがつかなかった。高望みしてたんだな。ナイものねだりの一文なし。はっきりいって、やっぱ、若かったんだね、あのころは。

 あきらめきれない気持ちを抑えつつオレは、また初めから未練がましく卒業制作作品のページをめくりはじめた。

 そのときだった。

 いきなり電話が鳴った。オレは一瞬、全身から血の気が失せるのを感じた。なぜだ? 心臓がドカッと音をたてて落ちた。どうしてだ? 不思議だった。わけもなくそのとき、アイツになにかが起こったと、オレは直観したんだ。おそるおそる受話器をとると、案の定、万世橋警察署からの電話だった。

 いま思えば、あの日のアイツの行動は、手に取るように分かる。録画ビデオを見るように、なんどでも繰り返し、思い浮かべることができる。

 ケンタはあの幻の白い女に、完全にまいっていた。

オレと会わなくなって半年間、あの女のことばかり考え、追いかけていた。カキ色の中央線のケンタの向こう側に、黄色い総武線の白い女が現れる。水道橋を抜けお茶の水に着くちょっとまえ、女はアイツをソッと誘う。控え目に、密やかに。アイツはそれに、コロリとまいる。まるで女郎グモの巣に引っかかる間抜けなハエだ。だが、橋の下を抜けると女はもういない。アイツは大あわで、通勤者で溢れるホームを駆け回って探すが、女が見つかることはけっしてない。

 あの日もケンタは、装填したカメラ片手に新宿から中央線に乗りこんだ。電車が信濃町を通過するころ、向こう側から総武線の黄色い電車が近づいてくる。あわやぶつかると思うとき、二本の電車は並んで走行しはじめる。そんな風に、追いつ追われつ、何本かの総武線を追い越すうち、水道橋を通過して間もなくケンタの乗るかき色の電車は、いましがた駅を出たばかりの黄色い電車に追いついて並んだ。そのときケンタは、いつものように、白い女が自分の前にいるのをはっきりと認めた。

 女は、伏せ目がちな黒い目を瞬かせ、顔いっぱいではにかみながら、白い華奢な右手を腰の辺りでそっと振ってみせた。ケンタは夢中でシャッターを押し続けた。撮れた!バッチリだ!いままでにない手応えだ!なんという存在感だ!まるで、この両手で、生身のアイツを、腰を、生首を、つかんだみたいだ!あの白い肌の湿り気まで、細やかな産毛の感触まで、温かい体温まで、直接こっちに伝わってくるじゃないか!…

 だが、橋の下を抜け、お茶の水駅のホームに入ったとき、いつものように女は、跡形もなく消えていた。ケンタは狂喜の高みから絶望のドン底に、一気に蹴落とされた。

 あの日ケンタは、撮った写真の手応えにとりわけ昂っていた。それだけに、落ちた落差は大きかった。その分の反動が、大きく作用した。うっ積した欲求不満に火がついた。自制がきかなくなった。向こう側の白い女に会いたい欲求が、爆発した。狂ったようにケンタは走った。通勤客で混雑するラッシュ時のホームを、がむしゃらに駆け回った。なんどもひとにぶつかり、跳ね返され、突き飛ばされ、殴られ、蹴飛ばされた。だが、かまわずケンタは、探し回った。あの白い女を。

 だが…だが…そのときだった。次の黄色い電車がホームに入ってきた。そして、運わるくひとに押されたケンタは足をとられ、柱にぶつかり、はずみでバランスを失って、ホームから転落した。不幸な出来事だった。黄色い電車は、そのまま、落ちたケンタの上を通過して…。

 あのあさ、万世橋警察署からかかってきた電話は、ケンタが駅のホームから転落、轢死したので、身元の確認にきてくれという内容だった。

 凍りつくような二月二日の死体置き場に、ケンタはいた。両手両足を切断し、やせて小さくなったダルマみたいに、アイツは死んでいた。伸び放題のあごひげも無残な土色のアイツを見てオレは、たしかに小川ケンタです、と硬直した喉から懸命に声をしぼりだして担当官にこたえた。

 所持品はカメラザック一つだった。中を開けると、撮影ずみのネガフィルムが十本、ケンタ愛用のミノルタF571717、それにオレがいつかケンタに手渡したオレの作品を入れた封筒がひとつ、入っていた。

「封筒の裏にアナタの名前が書いてあったものですから、連絡させていただいた次第です」

 封筒を取り出して裏を見た。たしかにオレの字で住所と電話番号が書いてある。アイツに渡すとき、無意識に書いたのだ。封は切られていなかった。

 オレはきいた。

「女のひとはきませんでしたか?」
「女のひと?」

 怪訝な顔で担当官がオレを見た。

「どなたか身内のかたでも?」
「いえ、べつに…」

 オレは目を逸らした。

「じつは、知らないんです、なにも、知らないんです…」

 オレはそのとき、肝が凍りつくような寒気を覚えた。オレはなにも知らなかったのか?…背筋がなん度もゾクゾクした。本当は知っていたのではなかったのか? ケンタがいつか、取り返しのつかない不幸な目にあうことを、本当は予感していたのではなかったのか?

 初めてケンタのアパートに行ったとき、あの阿修羅を見てオレは、たしか、アイツはコレで命を落とすかもしれないと、直観したんだ。とすれば、オレはやっぱり、無意識にケンタの不幸を予め予期していたことなるじゃないか。

 はっきりいって、オレはいまでも後悔しているよ。あの予感は、たぶん、ケンタをワナにはめるついでに、雲の上のヤツらがオレという存在を利用しようと決めたときの、オレに送ったなんらかの合図ではなかったのか。とすれば、アイツを危機から救うために、なにかオレにできることがあったはずだ。もしオレが、もう少し早く、そのことに気づいていたとしたら…。

  いや、これはまた、すっかり陰気な話になっちまって、まったくもうしわけないね。気分わるくなったひとがいたら、ごめんよ。弁解するワケじゃないけど、なにも、オレ、好きでしゃべったワケじゃないからね、こんなこと。

 えっ、なんで報道写真をやめたのかって? そりゃそうだろう、あんなケンタの死にザマみたら、ひとさま相手に仕事するのが恐ろしくなって、やめちまったのさ。オレって、変わり身が早いんだよ、はっきりいって。

 じゃあ、おやすみ。あしたもまた、無事の下山目指して、がんばろうぜ、なあ、みんな。

  翌日も雪は一日じゅう降り続いた。みなよく眠れるせいか、避難者にはまだストレスの兆候は認められず、各班それぞれ所定の仕事を粛々と遂行した。消灯直前、カメラマンがその夜の語り手として、女監督を指名した。監督はいくぶん予期していたようだったが、しかし、あら、と意外なふりをして座り直し、長い指で髪をすいた。

 

白の連還 第三章 白い女 完 第四章 白い氷 につづく


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