「うちらみたいにはなってほしくない」彼は能登へ向かった
記者になって5年、宮城県で東日本大震災の復興の取材を続けてきた。
しかし、自分は被災地のほんの一部しか知らなかったと、気付かされることになる。
地震直後の被災地を取材するのは、実は能登半島地震が初めてだった。
地震直後の被災地は・・・
元日に起きた能登半島地震から2週間後。私は石川県輪島市にいた。被災地取材の応援だった。
2019年、仙台放送局で記者として働き始めた私は、東日本大震災の時はまだ中学2年生だった。
震災から10年のタイミングで気仙沼支局に赴任し、当時の状況や街の復興の様子を伝え続けてきた。
自らの命を省みず、高齢者施設の利用者を救出した高校生たち。
新たな取り組みで復興を目指す水産業者。
10年たって初めて亡き夫について語った女性。
さまざまな角度から東日本大震災と向き合い、発信してきたつもりだった。
しかし能登半島で目の当たりにした地震直後の光景は、衝撃的だった。
倒壊した伝統的な瓦屋根の住宅。跡形も無く燃えてしまった朝市通り。海底の隆起により港から出られなくなった多くの漁船。
地震や津波のすさまじい力を「これでもか」と伝えていた。
当時は旅館やホテルなど、より落ち着いた場所に移る「2次避難」が始まったころ。
私は地元を離れる人たちを取材しようと、輪島市の中心部から離れた地区を訪れたが、人がほとんど見当たらない。
これまで取材してきた台風などの被災地では、中心部や避難所に行けば、多くの被災した人たちに会い、お話を伺うことができた。
だがこの地区では、避難所に行っても、10人ほどにしか、お会いできなかった。
「一体何が起きているのだろう」
避難所で会った区長に聞くと、すでに2次避難が始まっていて、ほとんどの住民が地区を離れたという。
区長は「誰がどこにいるのか、帰ってくるのかどうか、誰も把握できていない」と打ち明けた。
誰が、どこにいるのか、誰も分からないなんて・・・
これから一体どうなってしまうのか。
13年後の静寂
被災地応援を終えて、仙台局に戻った私は東日本大震災からの教訓を何か発信できないか考えた。
注目したのは、石巻市の東部に位置する雄勝町。まちの規模が比較的小さく、能登の被災地とも似ていた。
東日本大震災で、関連死を含む173人が犠牲となり、町の住宅の約8割にあたる1300棟余りが全壊。震災後、人口が大きく減少した地域だ。
震災から13年。現在の雄勝町は、海沿いに高さ10メートルほどの防潮堤が建設され、高台には、新たに造成された住宅が建ち並んでいる。
この地域を訪れて驚いた。平日の日中とは言え、人の姿はほとんど見当たらない。人口減少が激しかったことは知っていたが、こんなに誰にも会えないものか。
「この街ではどんな復興が進められてきたのだろう」
これまで観光や水産業の復活といった、比較的、復興の「にぎわい」の面を取材することが多かったが、「静けさ」にしっかり向き合うのは初めてだった。
復興のトップランナーと呼ばれたが・・・
「はっきり言って、震災前の状況よりも地域の構造が悪くなっている。どう見てもこれは復興じゃない」
そう語ったのは、雄勝町で生まれ育った阿部晃成さん(35)。
宮城大学の特任助教授として、災害後のまちづくりを専門に研究している。
雄勝町の実家で、家業の電気店を手伝っていた阿部さん。自宅は津波で店ごと流され全壊。家族は全員無事だったが、1か月ほど避難生活を余儀なくされた。
【阿部さんが震災直後の状況にについて語った証言はこちら】
雄勝町では、震災からわずか2か月後に、今後のまちづくりを話し合う協議会が立ち上がった。「復興のトップランナー」と呼ぶ声もあった。
私がかつて勤務していた気仙沼市では、中心部で協議会が立ち上がったのは震災から1年後。2か月後といえば、被災した人たちが自分の暮らしの再建で精いっぱいだったはずの時期なのだから、「よいスタートダッシュが切れたのだな」と素直に感じた。
ところが阿部さんの話は、思わぬ方向へ進んでいった。
私は自分が今まで見てきたものが、東日本大震災の一部にしかすぎないことに気付かされた。
住民は徐々に離れていった
当時の雄勝町には仮設住宅を建設できる土地が少なく、ほとんどの住民が地区から離れた避難所で暮らしていた。
月1回のペースで開かれていった協議会の内容を、離れた人たちに伝えるのは難しかったこともあり、「参加できる」住民だけで話し合いが進められていった。
元々あった住宅地は「災害危険区域」に指定され、住宅地はすべて高台移転するという行政側の計画が、ほぼそのまま採用された。震災からわずか半年後のことだった。
「もう少し時間をかけて住民たちで話し合うべきだ」
協議会のメンバーだった阿部さんはそう主張したが、その意見が通ることはなかった。
石巻市では地区にとどまって高台での生活再建を希望する人数を把握するため、アンケートを3回に分けて実施。しかしアンケートを取るたびに、地元で再建を望む住民の数は減っていったという。
意向を丁寧にくむための調査なのに、なぜそのような事態になったのか。
「コミュニティには『みんなが戻れば戻る』『戻らなければ戻らない』という力がある。自分達が住んでいたコミュニティの人たちが戻るのか戻らないか、どこに住むのかというのがすごく大事な意思決定のファクターだった」
「みんながしっかり集まることなく、バラバラな状態で個別世帯のアンケートが行われ、結果的に雄勝町はどんどん人口が減っていった」
(阿部晃成さん)
方針は定まったものの、再建を望む人が減るたびに工事の計画は変更を余儀なくされた。
結局すべての住宅地が完成したのは、震災から7年たってからだった。その間、自宅を再建する経済的余力が無くなってしまった住民も増え、最終的に町の人口は震災前の4分の1、約1000人まで減少した。
こうした状況について市の担当者に取材すると「人口が減少したのは残念なことだが、地域では新たなコミュニティーが生まれ始めていて、震災後に移住者してきた人も積極的に活動している。こうした新たな一面を生かしたまちづくりを進めていきたい」と応えた。
阿部さんは、震災前のコミュニティをもう1度つなぎ合わせる努力を住民側も行政側もしていれば、結果は違ったはずだと、悔しそうに振り返る。
そして能登へ・・・
みずからの経験を基にこれまでも各地で復興のアドバイスを行ってきた阿部さん。
能登半島地震の1週間後、東日本大震災の教訓を伝えられないかと、能登半島地震の被災地に入っていた。
「大規模な災害のあとは避難によって地域コミュニティーがバラバラになってしまうことが多い」
私は、再び能登に行くという阿部さんに同行した。
阿部さんは被災地の区長たちを対象に、どのようにまちを再建したいか意向を聞いた上で、仮設住宅の建設希望地を住民と共に行政に要望したり、まちづくりの計画案を作成したりしていた。
一緒に訪れた志賀町では、避難所を運営している地頭町区の区長から話を聞いていた。
地頭町区では、およそ200世帯の住民が暮らしていたが、その時点で35世帯が地区の外に避難。区長は、地元を離れている人たちが戻れるよう、被災した住宅を取り壊して土地を確保し、災害公営住宅を建てたいと強く望んでいた。
(区長)
「この地区は土地が少ないし、一部損壊だったとしても年寄りは体力がない、経済力もない。自力再建は無理。なので行政にお願いして更地にして公営住宅を建ててもらいたい」
区長は今後の役に立つかもしれないと、住民たちの所在地を独自に確認していた。
だが阿部さんはさらに先を見据え、こうアドバイスした。
「所在確認を取れているなら、本当に今の計画でいいのか、みんなで集まって話合う機会を設けるべきだ」
自分たちは「みんな」の意見をくみ取れなかった。
ふるさとの復興と向き合ってきた阿部さんが、最も後悔していることだという。
「正直うちらみたいにはなってほしくはない、同じてつを踏んでほしくないんですよね。ある程度自分たちで自分たちの復興を考えて『なんとかなったよね』と思えるような復興になるのが結果として1番いいのかなと思っていて、その姿を見せていただくことで東日本大震災の被災地であるわれわれにもある意味良い影響があるのかなと思って活動しています」
阿部さんの言葉から伝わってきたのは「悔恨」と「リベンジ」だった。
全員が納得するのは難しいけれど
土地としての「ふるさと」があったとしても、避難によってつながりが失われてしまった雄勝町は、それまでとはまったく異なってしまったと阿部さんは話す。
みんなが知っている「ふるさと」を取り戻したい、取り戻してほしいという一心が、各地を訪れる阿部さんの原動力だと感じた。
一方で、これまでの自分の取材を振り返えると、全員が納得するまちづくりを進めるのは難しいことだとも感じる。
復興に成功したと言われている東北の被災地でも、現状に納得していない住民や、地元を離れて正解だったと思う人もいる。
どんなまちづくりを進めていくのか。能登でも行政や専門家も交えながら、これから多くの決断を迫られていくだろう。
誰がどんな選択をしたとしても、実際にそこで生きていくのは住民たちであり、そこは離れていく人たちにとっても、ふるさとであり続ける。
残る人も去る人も、一人ひとりが将来について対話をつくしていくことでしか、ふるさとの復興にはつながらない。
答えになっていないかも知れないが。
北見晃太郎 記者
2019年入局 仙台放送局 気仙沼支局時代は震災や水産業を取材 県警キャップを経て、現在は経済担当
北見記者はこんな取材をしてきた