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5分で読める小説 『サプライズ』


『サプライズ』


トラちゃんは不器用な男だ。
サプライズなんてまるでしない。

公務員として真面目に働いては定時に帰ってきて少し晩酌して眠りにつく。
それが彼の平日のルーティン。

休日はベランダにずらりと並んだ植木鉢のお花のお手入れと部屋の掃除とピー助のお世話、あ、ピー助は飼ってる小鳥の名前ね。
とにかくゴロゴロするのが嫌なのかなっていうくらいちょこまかと忙しなく動き回って生きている。

私はどっちかって言うとズボラだからそんな綺麗好きなトラちゃんと結婚できてラッキー。って言ったら怒られるか。
不器用って言ったけど掃除の面ではトラちゃんの方がセンスあるのかも。

でも裁縫なら自信ある。
トラちゃんが夏に着る甚平、私が縫ってあげたら、「さーこは何でも手作りできるなぁー」って。
褒め上手だけどそれはトラちゃんが優しいから。
あんなの誰だって作れるよ。

トラちゃんが私のことを「さーこ」って呼ぶ声が一番好き。
名前が幸子だから「さーこ」。

今まで生きてきた中では「サチコ」とか「サッちゃん」とか、弟たちからは「お姉ちゃん」としか呼ばれて来なかったから、トラちゃんだけの特別な呼び名を貰ったみたいで嬉しかった。

タバコを吸うのが嫌だったけど、それ以外は優しくて私の自慢の旦那さん。

でもさ、たまには花束とかサプライズでプレゼントしてくれてもいいと思わない?

結婚してから誕生日も結婚記念日も何も無いのよ?
なんだかぶっきらぼうすぎるのよね。
でもいいの。それがトラちゃんだから。
トキメキがなくても穏やかで平和なこの日常がどれだけ奇跡的なことか私は知ってる。

トラちゃんが側にいてくれて、お腹の子ももうすぐ産まれる。

この毎日が私の何よりの宝物。

………………………………………………

 
さーこは口下手だ。
怒ると必ず無言になる。その無言が一番怖い。
何か不満があるなら言ってくれたらいいのに。
この前、結婚してから初めての結婚記念日を迎えたときだってさーこの表情がどこか晴れていなかった。

「具合悪いの?」
「え?全然」
「なにか俺した?」
「何もしてないよ」
「怒ってるの?」
「怒ってない」

そうやって段々機嫌が悪くなるときは絶対に怒っている。

無言ほど怖いものはない。

さすがに何かしたかな?と自分の行動を遡ってみた。
朝起きて、ご飯食べて、仕事に行って、いつも通り定時に終わって、少しでも、一秒でも長くさーこと今日という日を過ごせるように真っ直ぐに出来るだけ急いで帰ってきた。

怒らせるようなことは何もしていない、と思う。

ま、でも口下手なさーこだけど、いつも俺のこと「世界一格好良い」だの「可愛い」だの、「大好き」ってありのままストレートに伝えてくれる。
俺は口に出すのが苦手だからそんな純粋な性格が少し羨ましい。

さーこと街を歩くとすれ違う男性はさーこに目線が行く。
自慢じゃないけどさーこは美人なのだ。

こんな綺麗な奥さんがいて、もうすぐ子どもが生まれる。
どんな名前がいいか考え、候補に挙がった名前をたくさん紙に書いて、横にいるさーこの笑顔を見る日々はなんて幸せなんだろう。

この毎日が俺の何よりの宝物だ。

………………………………………………

 
休日、私の検診に付き添ってくれるはずだったのに、トラちゃんが急用でどこかに出かけて行った。

産婦人科の帰り道、市場で大根とカボチャを買った後、魚屋の前を通ったらふと鯨の切り身が目に入って、トラちゃんのお酒のおつまみにって手に取ったら「赤ちゃんの為に鯵も安くするよ」っておじさんの真心に余計に買い過ぎてしまったのがいけないんだけど、一人でこんなに買い物袋を持つと指がちぎれそうだ。
大きなお腹で重たい袋を両手に下げて歩いていたら段々腹が立ってきた。

「もう。今日は病院に付き添ってくれるって約束してたでしょ。」
トラちゃんがいたら一緒に買うものも選べたし、トラちゃんがいたらこれ全部一人で持ってくれるだろうな。
トラちゃんがいたら…。

怒りながらもトラちゃんの普段の優しさを噛み締めていると、もう空がオレンジ色に染まりかけている。
夕飯の支度をするためにお腹の子から応援されながらシャキシャキと家に帰った。

「さーこー、ただいまー。」
「おかえりなさーい、結構遅かったね。え?!どうしたの?!」

へへっと笑ったトラちゃんの口元に驚きを隠せない。
トラちゃんのトレードマークの出っ歯がない。
前歯四本が出っ歯なのがトラちゃんのチャームポイントだったのに、痛々しく血を滲ませたガーゼを噛んでぽっかりとそこだけ歯が無いのだ。

「歯医者に行ってきた」
「え、前歯…」
「うん、前歯抜いたの」
「四本全部?」
「そう」
「え、なんで?!」
「赤ちゃんがびっくりしたらいけないと思って」

あまりにも衝撃で言葉が出てこない。
「え…痛かった…でしょ…?」
「うん、痛かった」
「……」
「これから部分入れ歯にするんだー」
「なんでそんな…」
「だから言ったでしょ。生まれてくる赤ちゃんがこんな四本出っ歯のお父さんに怖がって泣いたら可哀想だなーってね」

涙が溢れた。
そんなの怖がるわけないでしょ。
赤ちゃんなんだし。目も見えてないし、見えてきたとしてもそれが出っ歯なのかなんなのか分かってないよ。

でも嬉しかった。
バカみたいなトラちゃんの優しさが。

後から聞くと歯医者さんには全力で止められたらしい。
こんな虫歯でもない健康で丈夫な歯を四本も抜くなんて勿体ないって。
「それでもいいんですか?」って何度も聞かれて、「構いません、お願いします」ってトラちゃんが頑なに聞かなかったから仕方なく抜歯したそうだ。

でも一言くらい相談してくれてもよかったのに。
だって大切な自分の歯でしょ。

びっくりしたよ。
でもトラちゃんがどれだけ優しいのか、この時初めて心の底から実感した。

 

あれから三年。
今でもあの時のことは鮮明に覚えている。
痛いのが苦手で予防注射すら行きたがらないトラちゃんが突然思い立って行動したその気持ちがいじらしくて、思わず抱きしめたら照れて擽ったそうに笑ってた。
でも私の涙がトラちゃんのシャツに染みていくのがわかると、トラちゃんは優しく抱きしめ返してくれたよね。
懐かしい思い出。

あれがトラちゃんからの初めてのサプライズだった。
感激したけど今思うと歯医者さんから頭おかしいって思われて当然だよね。

そうだ!こんなこともあったよね。私がトラちゃんにびっくりしたこと。
結婚して二年程経った頃、実はトラちゃんと宗教が違うんだって勇気を出して打ち明けたときがあったでしょ。
それを聞いたトラちゃん、「何でもっと早く言ってくれなかったの?」って、私が押し入れに隠してた仏壇をすぐに部屋に出して、綺麗に埃を払ってくれたよね。
そして黙って手を合わせてくれたの。
私の宗教を微塵も否定することなく真っ先に私の気持ちを優先して大事にしてくれた…。

今思い出しても涙が出る。

いつもトラちゃんは思い立ったが吉日で何かあれば秒速の優しさで、潔い男気で温かく包み込んでくれたよね。
それなのに急にどこかに行っちゃうなんてあんまりだよ。
ある日突然、ご主人が火災の家に入って行って…って病院から電話がかかってきたんだもん。
びっくりした。

そんなサプライズ、私はやだよ。
だって、ずっと、花束のサプライズほしいって願ってて、まだそれ叶ってないのに。

いつになったら「ただいまー」って花束抱えて帰ってきてくれるの?

トラちゃんが居なくなってから私、だいぶ強く生きてきたつもり。
何でもイヤイヤって泣く美乃を抱っこしてお外を散歩するのも平気になったけど、トラちゃんの好きな餃子はつい作りすぎちゃって一人だと食べきれないの。

トラちゃんの好きなお花も私なりにお世話したんだけど枯れちゃった。ごめん。
お水をあげればいいだけかと思ってた。
愛情たっぷりに育てないとすぐ虫が植木鉢に登ってきて難しいんだね…

 
幸子はこうやっていつも写真立ての中の寅吉を見ながら彼と過ごした日々の追憶に耽け、一方通行の会話をするのが好きだった。
彼が亡くなったあの日からそれはずっと変わらなかった。

 
淡いセピア色の思い出の中で若々しい幸子の黒髪がみるみるうちに白く変わっていく…

 
あの頃は毎日がバタバタで子育てと仕事を両立させるのが闘いだったから、夜になると一杯一杯になってよくこの写真に独り言言ってたっけ。

トラちゃんが居なくなってからようやく落ち着いて窓際で日向ぼっこできると思ったらもうこんなお婆ちゃんになっちゃった。
だいぶ長い年月が流れたのね。

これ見てよ。車椅子。
もう一人で歩けないの。頼もしい孫が押してくれるけどね。

一番下の孫もね、成人してこの前振袖姿見せに来てくれたの。
ニコって笑った時の顔がトラちゃんに似て可愛いんだー。

私、そろそろ会いたいかも。
トラちゃんにまた会いたい。

サプライズで突然会いに行ってもいい?
その時は皺々のお婆ちゃんになったってびっくりしないでよ?

またぎゅーって抱きしめてよ。
一人でよく頑張ったねって褒めてよ。
抱えきれないほどの花束持って、突然居なくなってごめんねって言ってよ。

さーこって、また呼んでよ。

私、寂しかった。

トラちゃんに安心してもらえるように必死に奮闘した日々だったけど、トラちゃんがいないと…。私、トラちゃんがいないとやっぱりダメね。

 

「どう思う?まだ若いのに入れ歯の父ちゃん、笑っちゃうよね。
でもお前さん、生まれる前からもう既に幸せ者ねー。こんなに子ども想いの父ちゃんがいるんだから。」

幸子は大きなお腹をさすりながらお腹の子に話しかけた。

昭和三十六年、歯の矯正技術もまだない時代だった。
出産予定日を一ヶ月後に控えた風薫る五月、戦争という想像を絶するような恐ろしく悲惨な体験をした二人が復興した小さな町で日常のささやかな幸せを大事に大事に抱きしめて、二人三脚、いや三人四脚で歩き出した日。

寅吉の初めてのサプライズから約六十年後の今日、幸子は五月の柔らかな風に乗ってふわりと空の光の中へ昇っていく…

 
「さーこー」
どこか遠くから寅吉の声が聞こえてきたその先に、片手を振って歩いてくるあの頃のままの格好いい彼を見つけると、幸子は満面の笑みで大粒の涙を流しながら駆け出した。
たくさんの花が咲き誇る野原を艶やかな黒髪を靡かせて力の限り走った。

「遠くに行っちゃったと思ってたのに。もう会えないと思ってあれだけ泣いたのに、今、こんなに近くにいるなんて…」

久しぶりにやっと会えた彼の少し照れくさそうな赤らんだ笑顔に夢中で、幸子はまだ気づいていない。
寅吉が幸子の好きなかすみ草の花束を背中の後ろに隠し持っていることを。



2020年5月22日

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