お後が全然よろしくない〜久方ぶりの落語について少々〜
近頃、わりかしスピ記事が続いたような気がするので今回は違ったテイストの記事を書きたくなりました。
スイッチのオンオフに考え方は近いのかもしれませんが、実は霊的な世界を日常的に探求している人は
全く霊的なものとは正反対の事をする時間や、それを意にしない人と過ごす時間がとても大切だったりします。
とはいっても、私の場合、日中は普通に上司に詰められる三十路リーマンなので普段からバランスが取れてるといえば取れているのかもしれませんが。。。笑
ということで、今回は唐突ですが、改めて落語についての話をしようかと思います。(今日、プロの落語家として活躍する先輩の落語をたまたま見て触発されたからですw)
大学時代に落語研究会に所属していた話は、はじめの方のブログ記事にてお話をさせていただきましたが、
今回は純粋に、「落語」というものの何に魅せられたのかという話を少しだけ話をしていこうと思います。
といっても学生落語のアマチュアですし、当時その魅せられている事の本質を自覚できていたのかは甚だ怪しいですが(今もですが、、、笑)
私の場合は当時落語が好きで落語研究会にはいったわけではなく、半ば騙されwという形だったのでプロの落語すら見たことはありませんでした。
(↓当時成り行きで落研に入ってしまった話を書いています(笑)未読の方はぜひ!)
それでもやはり噺を覚えなくてはならないので、寄席にいったり、音源やDVDを見ていたのですが、そんな中である一人の落語家を知ります。
天才落語家、立川談志師匠です。
落研の同期の家で、はじめて談志師匠の「芝浜」を見たときの「なんかとんでもないものを見てしまった!」感は未だに忘れもしません。
(「芝浜」は江戸の裏長屋に住む貧しい夫婦を主役とする人情噺で、落語に馴染みのない人でもこの噺は知っているという方も多いかもしれません。)
当時、落語家のDVDを見ながら酒を飲み飲み、あーだこーだいうのはわりかし定番ではありましたが(アマチュアの特権です笑)殊、この談志師匠の落語に関しては本編が始まると同時に、同期と共に一時間ほど一言も喋らずに黙って最後まで食い入るように見たのを覚えております。
そこから、書かれている本を読んだり、他の噺もきいたりして、私の中では落語=立川談志と言う構図ができてしまうほどの惚れ込みようでした。
実際、私が立川談志師匠を知り、のめりこんだ時期というのはもはや師匠の最晩年期で、咽頭がんの影響で高座にもほとんど上がれないという時期でありましたが
なんとか一度だけ、生の高座を見に行くことができました。
がんの影響でそれこそ、かすれかすれの声ではありましたが、生前の談志師匠を体感できたというのは、私の中ではかけがえのない思い出となっております。
自身の著書に「談志(私)ほど落語に興味をもったものはいない」と書かれているように、世間的には破天荒な発言をする大物タレントというイメージが強いかもしれませんが、その本質は誰よりも落語を愛し、1から落語を分解しては創造し、はたまた壊すの繰り返しを行い、最後まで落語と葛藤し続けた方です。
その残した至極の言葉はどれを拾っても申し分ないのですが
やはりかの有名な「落語は人間の業の肯定である」に関しては、今でもよく考えることがあります。
なんだか、少しだけ話す気がだいぶ進んでしまいましたので、中途半端ではありますが、次回に持ち越しさせていただきます!(笑)
読んでいただきありがとうございます!
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