見出し画像

【創作短編】ゆるり夢語り(肆)


ー肆ー


方法さえ知っていれば、「時間の調緒[トキノシラベ]」を見つけるのは至って簡単だ。

身の周りを注意深く観察して、今現在の自分と過去との繋ぎ目を探せば良い。コツは視覚に頼らない事。指先の感覚に集中しながら、あちこちを撫でたり、摘んだり、していると、

1箇所、ささくれというか、ちょっとしたとっかかり的な部分が見つかるだろう。魚肉ソーセージのあの赤いシールみたいに異質な箇所がね。

ぴったり貼り付いているかもしれないから慎重に剥して、そこからは少し力が必要だ。ぐーーっと引っ張り、手繰り寄せると、やがて、干渉不可の境界を越え、時間が手に取れるようになる。

ところで、つるんと剥けてすぐさま食べられるソーセージのように、時間はお手軽には出来ていない。過去はたいがい不定形で、厳重に、幾重にも梱包された状態で仕舞われているものだ。そうしてそれらすべてに時間の調緒が結び付いている。

先述の鼠の行為はまずこうして、偏在する不可視の時間を、調緒を頼りにまとめあげ、目で見て、触れる場所にまで引きずり寄せて来た段階に過ぎない。



地引網が、徐々に海中から浜に揚がって来るように、ずるり、ずるり、と夢の画中に引き込まれて来た物は――

夢のカメラワークというものを思い出して欲しい。

それはやはり映画にも似ていて、同じ空間に存在する筈の物も、カメラの枠内に入らない内は見えないし、焦点が合うまでは正体が知れない。また、同じ場面が続いたと思ったら唐突にぱん、と次の場面へ転じている事だってある。

こう考えると、夢と映画の異なる点とは、それが1個の意図をもった台本に沿って進行するかどうか、そして、観ている側に視聴を続行するか否かの選択肢が与えられるかどうか、という程度なのかも知れないな。


引きずり出されたのは巨大な、何だかよくわからない塊だった。

つまりそれが鼠の「時間」というわけだが・・・・・・この時点では、僕にもその全貌はよく見えなかったんだ。と言うのも、時間の外見は持ち主によっても違うし、見え方とて一定ではない。その上、今、陸揚げされたばかりの時間には調緒がぐるぐる巻き付いていて、一杯に詰まった中身は、無数の、色とりどりの塊の集積物としか見えない。


各々の過去というものは、他の誰とも共有されない、ひとりにひとつの絶対物ではあるが、その中には本来、様々な区分がある筈だ。

自覚している思い出や記憶の中にも、いちいち当人にとっての重要度の違い等あるだろうし、その他に、ただ単純な時間の消化によって生まれ、刻々と放出され続ける、当人にとって無為なだけの作物もやはり過去には違いない。

が、ここに現れた「時間」の中身は、閲覧者にとって便利なように、親切に仕分けなどされていない。

先にも述べたがこの世界では時間が秩序だった「流れ」でない以上、時系列さえもが混然一体、何もかも一緒くたになって引き寄せられてくるから、膨大なのは当然さ。しかも、見えていない場所で、それはさらに濃く・大きくなっているんだ。何せ当人の時間は、今も、今も、続いているわけだからね。


「時間の調緒[トキノシラベ]」を手放すと、疲労した鼠は大きく息を吐いた。


始めより少し締め付けは緩んだように見える、それでも中身がこぼれ落ちてしまう事はなかった。時間の結びつきは、調緒のお蔭もあるが、意外なほどに強固なんだ。

鼠は巨大な塊を調べ始めた。鼠にとっては、身の丈の何倍もある岩山に等しいそれに登り・・・今度は四つ脚で、いかにも鼠っぽく・・・足場はいくらでもある様子だが、疲れも感じさせずすいすい動くのは流石だね。


そうして、ある1箇所に辿り着くと、その部分の「時間の調緒」を掴んで引っ張り出し、それに鋭利な前歯を当てて、鼠の腕程度には太いと見える調緒を、さくっと容易く噛み切ってしまった。

これはやはり何と言っても、焦らず、正しいポイントを探す事が最重要だ。無理やり引っ張ったり、力ずくで解こうとしたって駄目だし、万一、判断を誤って、動脈のように重要な調緒を切ってしまったら・・・・・・

・・・なんて、少々、鼠の心境を代弁してみた。そういう得意気な表情を浮かべていたのでね。え?切ってしまうとどうなるかって、それは想像に任せるよ。

実際、僕はこのたったひとつの成功例しか見ていないんだ。だから今は見事、第一段階をクリアした鼠のその次を見守ろう。



切られた「時間の調緒[トキノシラベ]」は自ずから、触手を引っ込めるかのように、のったりと退行していき、それとともに保持されていた内容物も緩慢に崩れて散らばった。鼠は雪崩を避けつつ、中身を踏まないよう、軽快に立ち回り、そうしてやがて動きの止まった・・・・・・散乱した、時間の中心に立っていた・・・・・・(つづく)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?