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【NEXUM CREATOR'S INTERVIEW】巨匠Hiromasa Sasaki氏と考えるクリエイティブの本質とは

クリエイター向けコミュニティサイトとして始まったNEXUM JAPANが、インタビュー企画の連載「CREATOR'S INTERVIEW」をスタート。業界で活躍する様々なクリエイターの人生を振り返るとともに、クリエイティブのあり方を考えていく。

記念すべき初回のインタビューは、フォトグラファーとしてパリとニューヨークで40年ほど活動し、数々の有名誌の表紙撮影を担当した、世界的フォトグラファーのHiromasa Sasaki氏。

元々ミュージシャンを志し渡米した彼だったが、90年代には様々なファッション誌のカバー契約を取る世界的フォトグラファーとなる。

そんなHiromasa氏が、当時まだ日本人が少ないニューヨークやパリでどのようにカメラマンとしてキャリアをスタートしたのか、そして当時のファッション業界と現在の違い、今後のクリエイティブの本質を探っていく。

記事全文はNEXUMにてご覧いただけます。





Hiromasa Sasaki

Hiromasa Sasaki

ニューヨーク・ファッション工科大学(FIT)で写真技術を学んだ後、Steven Meisel, Lothar Schmid, Marco Glavianoなどのテクニカル・アシスタントを経て、『ELLE』(仏版)でデビュー。90年代は『GLAMOUR US』や『Marie Claire UK』とカバー契約を結び、さらにはエレガントな作風が人気を集め『L’OFFICIEL /Paris』や『Vogue/Germany』『DutchBazaar』などでニューヨークとパリを中心にファッション,ビューティーの写真家として活躍。その後コロナ前に帰国し、日本の『VOGUE JAPAN』『GQ』『L’Officiel JAPON』にてエディトリアル・モードとセレブリティーを中心に再活動を始め、Web雑誌のADや宣材撮影を現在も続けている。


All Photos by Hiromasa Sasaki

◾️Hiromasaさんの現在の活動を教えてください

今は「マスタークラス」という写真養成機関の運営をメインに、山野美容専門学校で課外授業を行なったり、一般の方のポートレート撮影をしたりしてます。また、もちろん今までと変わらずファッション撮影をしたり、撮影のディレクションなどもしています。

◾️写真家を志す前は音楽の道を目指していたようですが、写真の道に進むことになったきっかけを教えていただけますか?

そうですね、元々大学でも音楽のサークルに入っていて、音楽が好きでした。20代の時に音楽がきっかけでニューヨークへ渡ったのですが、当時は本気で音楽をやっていたというよりも、毎日好きなミュージシャンの音楽を聴きに、お金が続く限り色々なクラブを回っていました。

でもそこで、自分が音楽をやるもんじゃないと気づいたんです。
当時のニューヨークは日本人がまだほとんどいない時代でしたので、日本人としてニューヨークで音楽業界に入るのは無理なんじゃないかなと思ったんですよね。でも、日本人でカメラマンだったらおかしくないんじゃないかと考えるようになって、カメラマンへの道に進みました。

ちょうどたまたま当時のガールフレンド(現在の妻)がFashion Institute of Technology(FIT)に通っていたので、彼女にその学校に通ったらどうかと勧められましたのが、始められたきっかけです。FITにはHarper's BAZAARの撮影をするカメラマンも数人授業をしていたので、自分にとってはそれが今自分のキャリアに大きく影響していると思います。現場の生の声の授業が受けられるのは、非常に良い体験でした。この経験は、今の自分のマスタークラスにもすごく通じるものがあります。

◾️アシスタント時代のお話や、その後どのようにキャリアを積み上げたのかも教えていただけますか?

ーアシスタント時代

僕はすごくラッキーでした。スティーヴン・マイゼル、ローター・シュミット、マルコ・グラヴィアーノなどのアシスタントをさせていただくことができ、その後も常に素晴らしい写真家の方々にお会いすることができました。

アシスタント時代の話をすると、例えばスティーヴン・マイゼル氏は実はカメラの知識が全くないんです。ですから、僕や他のアシスタントが彼をテクニカルな部分でサポートしていました。でも、彼は写真のセンスがすごく良く、ファッションセンスも素晴らしいと思います。

その頃に、当時の素晴らしいアーティストにもたくさん巡り会えました。ジャン=ミシェル・バスキア、キース・ヘリング、デュラン・デュラン、アンディ・ウォーホルなど。本当にたくさんのアーティストと素晴らしい出会いがありました。

ー独立
4,5年ほど彼らのアシスタント経験を積んで、僕は独立しました。独立した当時は暗黙のルールがあって、ニューヨークでアシスタントをしたカメラマンたちは一度海外に出ないといけなかったんです。ファッションフォトグラファーの選択肢は、パリかミラノの二択のうちどちらにするかでした。僕はパリに行くことにしたんですけど、当時パリで雑誌をやるならMarie ClaireかELLEかのどちらかと思っていて、僕は運良くELLEに入ることができ、そこからキャリアがスタートしました。

◾️パリでデビューする際、ELLEの仕事はどのように獲得されたのですか?


Photographed by Hiromasa Sasaki

当時は雑誌社に自分のポートフォリオを持って行って置いていくシステムでした。週に1回そういう曜日があって、その日にポートフォリオを持っていくことができました。

また、ここでも正直僕はすごく運が良かったんです。僕がポートフォリオを持って行って、置いたら、その場で背の高い男性に声をかけられました。その男性が、当時のELLEのディレクター、フーリ・エリア(Fouli Elia)だったんです。

今でも良く覚えています。「君のお母さんは君のことなんと呼ぶの?」と訊かれ、「Hiro」と答えると、「僕もHiroって呼んでいい?」と聞いてくれて、そこから全てがスタートしました。

その日、彼に翌日の朝9時に、アートディレクターに会わせるから会社に来なさいと言われました。朝9時に面接が始まるかと思いきや、彼にしごかれましたね(笑)。ドアのノックの仕方や挨拶の仕方から訓練させられました。そういった経験は海外で初めてでした。本当に有り難かったです。

その後、ELLEの当時のアートディレクターの、ピーター・ナップ、イヴ・グーヴなどからもたくさん教育を受けました。そしてカバー(表紙)を撮影させていただけるようになりました。

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