うまくならないのはアウトプットが足りないから。 下手でもやるのかそれともやめるのか、ただそれだけ。
何か取り組んでいることや練習していることがあるとして、もしそれがなかなかうまくならないなら、それは絶対的にアウトプットの量が足りていないのだと思う。
インプットの量と同じくらい、もしくはそれ以上アウトプットに当てないと、うまくなるのって難しいんじゃないかなと思う。
日本人が留学してもなかなか英語を話せるようにならないのはなぜか。
「日本人は日本人とばかりつるむからちっとも英語が上手くならない」とみんな言うけれど、まったくその通りだと思う。それってつまり、「アウトプット=英語を話すこと」が圧倒的に足りないということ。
だって彼らは英語を勉強していないわけではないし、海外にいるのだから日常で英語を聞く環境はある。
ただ「聞いたり勉強したり」というインプットに対して「書いたり喋ったり」というアウトプットがそれはもう、もんのすっごく足りない。
わたしたちはただ英語を聞くだけ、授業を受けるだけ、つまり「受け身」でいるだけでは、いつまでたっても話せるようにはならない。何度もアウトプットをしないと、自分のものにはできないのだ。
でもアウトプットをするのって怖い。下手くそなのを見られたくないし、間違っていたら恥ずかしい。失敗ばっかでカッコ悪くてもうやめたくなる。
簡単なことさえできない自分が情けなくなるし、周りと比べてできない自分に落ち込むことだってある。
でもそれでもアウトプットし続けるのか、あきらめるのか。
できるようになるかどうかは、結局のところその差でしかない。下手でも続けるのか、それともやめてしまうのか。それだけだ。
英語だけじゃない。
わたしが前職のライターになったとき、技術も知識も何もなかったので、つくった原稿を上司に提出するたびに大きなバツをくらっていた。原稿は直しで真っ赤っかになり、キャッチコピーは「意味わかんない」とバッサリ切られ、何度もやり直しをさせられた。
けれど下手なものは下手なんだからしょうがない。うまくなるために、何度も何度もやるしかないじゃないか。
書いては直され、書いては直され。そんなことを1年間も続けていたら、社内ではあるけれど賞をもらうまでにはなれた。
…
何かできないことがあって、それをできるようになりたいのなら、とにかくアウトプットの量を増やすこと。そしてそれを続けること。
たくさんかっこわるいところを見せて、たくさん恥をかこう。それでもアウトプットし続けよう。気が付いたら「あれ、なんかできるようになってる」というときがくる。その頃には、まわりから「すごいね」と言われるようになっている。
はじめは誰だってできない。はじめは誰だってかっこわるい。
でも思うんだけど、人間ってきっと、恥を重ねながら生きていく生き物なんじゃないかな。だからほんのちょっとの恥くらいどうってことないじゃないか。どうせもともと大したもんでもないんだから、たくさん笑われてたくさん傷ついて、そしてたくさん大きくなろう。それが人生だから。
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