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人と鬼とを分かつもの──蝉谷めぐ実「化け者心中」を読んで

※この文章には作品の重要なネタバレが多々含まれます。

<序>
私の趣味のひとつに読書があり、その一環としてKADOKAWAが今年1月までサービスを提供していた「読んでつながる読書会~ブックラブ」というコミュニティに参加していた。月額料金を払えば月1冊オススメの本が自宅に送られてきて、後にその本に関するオンライン読書会などが開催されるという、まさに読書好きのためのサービスである。
残念ながらすでにサービスは終了してしまったが、そのブックラブの最後の配本が蝉谷めぐ実「化け者心中」(角川書店)であった。
ネット上などですでに評判は知っていたうえに、私の大好きなミステリ要素がある、ということで早速読了、のちに行われたオンライン読書会にも参加した。
いつもならそれでわりと十分満足するのだが、今回は、読書会が終わった後も、なにやらあれこれとこの物語について考えてしまい、モヤモヤとしていたので、一回、あらためて考察し、自己満足ながらここに記しておく。


<考察>人と鬼とを分かつもの──蝉谷めぐ実「化け者心中」を読んで

この小説は形式としてはミステリである。
探偵役は足を失った元人気女形・魚之助(ととのすけ)。助手役は鳥屋の息子で純朴な若者・藤九郎(ふじくろう)。
ふたりは芝居小屋の座元から、役者の中に紛れ込んだ鬼を見つけ出してほしい、と依頼を受ける。
とある夜、芝居のために集められた役者連中が車座で前読みをしている最中、暗闇の中で鬼が役者のひとりを喰らい、その者に成り代わったようだ、というのだ。
最初は信じず、魚之助を置いて帰ろうとした藤九郎だが、依頼を受けた魚之助を放っておくことができず、藤九郎もまた、魚之助とともに調査に乗り出す──というあらすじである。
一般にミステリの世界では、探偵役は論理や科学といった理想の世界に生きていて、現実の日常生活は身になじまない、という設定であることが多い。
いっぽう、そんな探偵役の助手は、好意から、あるいは仕方なく、探偵役と現実の生活をつなぎ留め、探偵役が現実世界を生きる手助けをする役割を課せられる。
魚之助と藤九郎の関係は、こうした点から見れば、非常にスタンダードな探偵役と助手の関係である。
しかし、ミステリという体裁をとりつつも、この物語は一般的なミステリを超えた物語を展開している。
物語の中で、探偵役=魚之助の生き方が大きな変化をしているのだ。

そこには、それまでのような自分の生き方ができなくなった時、人はどうやって生き延びていくのか、という問いの答えが含まれているように思える。

生き延びるために、生まれ変わるということ

魚之助はかつて、歌舞伎役者として当代一と謳われた女形であったが、足を失くしたことで檜舞台を下り、現在は隠居のように生活している。
長崎の出島で遊女の父なし子として生まれ、現在では蘭方医見習のメルヒオール馬吉(うまきち)、通称・めるが生活全般の世話をしているが、藤九郎が母と営む鳥屋から金糸雀を一匹購ったのをきっかけに、魚之助は藤九郎と親交を深めていく。
めるは、魚之助の世話はすべて自分が行いたい、と考えているようだが、なぜか魚之助は、しばしば藤九郎を呼びつけては、自分を背負わせてあちこちに連れて行かせる。
おかげで藤九郎はめるから嫌われており、奇妙な三角関係が成立しているのだが、それはさておき。
どうして魚之助は、藤九郎に執着しているのであろうか。
藤九郎には、自分が魚之助を背負って移動し、彼の足となることを、積極的に行なっている記述はない。
魚之助が一方的に呼びつけて、彼の弱みというか人の良さを利用して言うことを聞かせているだけで、藤九郎は迷惑というほどではないにしろ、明らかに面倒くさがっている。
自分ではなく、めるにやらせればいいではないか、と思いつつ、生来のお人好しで魚之助を手助けしてしまうのである。
つまり、魚之助と藤九郎の関係は、当初、魚之助の一方的な働きかけで成立していたのだ。
では、魚之助が藤九郎にそこまでしてこだわっていた理由は何か。
私は、藤九郎が、魚之助を知らなかったからだ、と考える。
藤九郎は歌舞伎に関心がなく、魚之助の名前は知っていても、魚之助が金糸雀を購うまで、彼の顔も知らなかった。
ふたりの初対面は、藤九郎が、魚之助が購った金糸雀の様子を彼の住まいへ見に行き、その金糸雀が瀕死の状態で放置されているのを見つけた時である。
明らかに人為的に傷つけられた金糸雀を見て藤九郎は激昂したが、魚之助が金糸雀を殺したほうがいいのではないか、と言うと、藤九郎は否定する。
「この子の人生は、これで終いじゃありません。飛べやしなくても、この子には歌う喉がある。跳べる足がある。この子はこれから始まるんだ」
私は藤九郎がこの台詞を言った時、魚之助の心に光が差した、魚之助は新しい生き方を見つける希望を見たのではないか、と感じる。
足を失い、舞台を下りた魚之助は人生に絶望していた。それまで当代一の女形として生きてきたが、足を失った今、どのように生きていけばいいのか、彼は道を見失っていたのではないか。
めるをはじめとする周囲の者は、舞台に復帰すればよい、義足をつければまた元通りに芝居ができる、と慰める。
しかし足を失った魚之助が元通りに舞台に立っても、客が見に来るのは魚之助ではない。足を失った珍しい人間である。
以前のような当代一の女形ではいられない、ということは、誰より魚之助がいちばんわかっていることだろう。
めるの言うような、“以前と同じに”、“元通りに”、という魚之助への期待は、魚之助にとって重荷以外の何物でもなかったのではないだろうか。
魚之助にとって、女形としての魚之助は死んでしまったも同然なのだ。
しかし、それでも、残酷なことに人生は続いていく。
魚之助は苦しんだはずだ。
“それまでの魚之助”が死んでしまった後の人生を、“魚之助”はどうやって生き延びていけばいいのか。
この頃の魚之助の自暴自棄な心情は、購った金糸雀を傷つける、といった攻撃的な行動からも明らかだ。
しかし、藤九郎の台詞で、魚之助は視点を変えた。
できないことに注目するのではなく、できることに意識を向けること。
失ったものを嘆くのではなく、これからどのような状態になれるかを考えること。
魚之助は藤九郎に会って初めて、それまでの生き方以外の方法で、生きていく道があるということに気づいたのではないだろうか。
私は、魚之助は生き延びるために、それまでの魚之助ではない、まったく新しい魚之助に生まれ変わる必要があったのだ、と思う。
そうしなければ、生き続けることができないから。
けれどまったく新しい魚之助とは、いったいどんな魚之助だろうか。いったいどう生きれば、新しい魚之助になれるのだろうか。
魚之助はその指針を、藤九郎に求めたのだろう。
女形であった頃の魚之助を全く知らない藤九郎から見た自分、“足を失くした歌舞伎役者”ではなく、“はじめから足のない、ただの魚之助としての自分”はどういう人間なのか、藤九郎の目を通して知ろうとしたのではないか。
自分ひとりでは気づかなかった、自分の新しい側面を、人は他人を通して知ることができる。これは言い換えれば、見知らぬ他人に出会って初めて、人は新しい自分に出会える、変われるということだと思う。
ここで、藤九郎という人物の独特の在り方が、重要となってくる。

人の“今”を受け入れるということ

藤九郎は鳥屋を生業とする、徹底的に“今”を生きる若者である。
鳥の健康を気にかけ、客に渡してもなお家まで様子を見に行くほど世話焼きな性分だから、鳥の変化に関する彼の観察力は一級品である。
そして、彼は鳥の世話をするときと同じように、人を、ありのままに、見る。
相手がどういう立場で生きてきた人間かなどという“過去”をいっさい見ようとしない。
物語中、藤九郎は一貫して、魚之助の“今”しか見ていない。自分の“見た” 魚之助でしか魚之助を判断しないのだ。
だから、物語の後半で藤九郎は自分が魚之助を見誤っていたことに気づいて深く後悔する。
しかし、だからといって、魚之助への接し方を、藤九郎は自分勝手に変えない。
魚之助とともに鬼を見つけ出そうとしてきた過程で知った魚之助の誇り、勘気、意気地の悪さ、情熱、弱さ、そうしたものの一切合切を集めて自分の中に“魚之助”の像を描いているが、そこに、舞台上で燦然と輝いている女形姿の魚之助はいないのである。

どうして魚之助は依頼を受けたのか

隠居同然の生活を送っていた魚之助が、座主の依頼を受けたのはなぜか、疑問だった。
舞台への未練は当然あるだろうが、舞台へ戻れないことを誰より知っているのは魚之助自身である。
依頼を受け、歌舞伎役者たちとやり取りすることは、魚之助にとって苦痛ですらあるはずだ。
しかし、魚之助は依頼を受けた。
私は、依頼を受けて藤九郎と調査を進めることで、魚之助は藤九郎に自分のことを知ってもらいたかったのではないか、と思う。
調査に入るまで、藤九郎は魚之助との関係を面倒くさいくらいに思っていた。
しかし、歌舞伎役者たちと接し、上演される舞台を何度も間近で見、役者たちの恐ろしいまでの芝居への情熱を知るにつれ、彼は魚之助への理解を深めていく。
藤九郎の内に、女形としての矜持を失わない魚之助、舞台へ未練がある魚之助、その未練を封じて、男として生きようとする魚之助など、“今”の魚之助のあらゆる姿が観察され、“今”の、まったく新しい魚之助の像を形成してゆく。
魚之助が欲しかったのは、その像だ。
だから最後に、魚之助は藤九郎に尋ねたのではないだろうか。
「白魚屋田村魚之助とは、いったい何者だい」
“今”“ここ”で、藤九郎が決めた通りの魚之助として生きていく。
魚之助はそう藤九郎に伝えた。
そこまで自分を放り投げて、全存在を藤九郎にさらけ出して、自分は何者か、これからどう生き延びればいいか、生きる道を、藤九郎に委ねたのだ。
鬼を見つけ出すことは、魚之助にとって、新しい自分を見つけ出すことだったのだろう。
そして藤九郎は答えたのだ。
「魚之助は、魚之助です」
こうして魚之助は、魚之助に生まれ変わったのだ。

生かして殺して変えるもの

物語に登場する歌舞伎役者の中には、芝居への情熱のあまり、「鬼になりたい」とまで吐露する者がいる。
しかし、人と鬼との間には、決定的な違いがある。
人は舞台役者が吐露したように“鬼”にもなれる、女形のように男が“女”にもなれる、自分以外の何者にも変わることができる。
しかし、鬼は鬼でしかありえない。鬼にしかなれない。鬼は変われない。
人は変わることに耐えられるが、鬼は変わることに耐えられない。
だから、物語の“犯人”である鬼は、役者のひとりを喰らった。その役者が自分の実力を思い知って失望すること=変わることに耐えられなかったから。
しかし、その“喰らう”という行為こそが、鬼がその役者を愛した証でもあった。
だから、物語の終盤で、鬼は消えていったのだ。
鬼は鬼である資格を失った。人を愛したから、鬼でいられなくなったのだ。

人が変わることに耐えられるのは、そこに愛があるからだ。
愛があるから生まれ変わることができる。
愛を知ると消えてしまう鬼よりも、愛の力で生まれ変われる人間のほうが、鬼よりもよっぽど強くて、そして、怖い存在であるかもしれない。

勝手な想像だが、もし魚之助が再び舞台に立つとしたら、それは足が義足に変わっただけの、以前のような魚之太夫ではないだろう。
魚之太夫は義足をつけただけではなく、以前とは全く異なる魅力を放つ、新しい芝居で、観客の心を魅了するはずだ。

おわり


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