綾瀬はるか「戦争」を聞く 戦後75年「綾瀬はるか✕戦争✕高校生」
毎年、シリーズでお伝えしている
女優、綾瀬はるかさんの「戦争」を聞く。
綾瀬さんはこれまで10年にわたり
60人以上の戦争体験者の方から
貴重な話を聞いてきました。
戦後75年となる今年は
新たなかたちで広島の原爆について
そして、戦争について考えます。
(8月6日(木)news23より)
綾瀬「失礼します」
綾瀬「今回は、私よりも若い世代に
"原爆の現実” を見てもらいたいと思います。
高校生の皆さんは何を感じるのでしょうか?」
綾瀬「皆さんそもそも、
"なぜ広島に原爆が落とされたのか”
知っていますか?」
綾瀬「原爆が投下された瞬間、
“広島の街や人がどうなったのか”
知っている人はいますか?」
綾瀬「まずは、
“広島の原爆がどの様なものだったのか?”
私がこれまで聞いたお話が
VTRにまとまっているので
一緒に見ていきましょう」
75年前の8月6日。
広島の街は壊滅しました。
被爆間もない原爆ドームです。
これらの映像が象徴する "広島の原爆”
これは戦前の広島を映した貴重な映像です。
街は、活気にあふれ、
最盛期には、42万人が暮らす国内有数の都市でした。
街の中心に建つ『産業奨励館』。
これがあの原爆ドームと化すのです。
鉄村京子さんは、
当時の賑わいを知る数少ない一人です。
しかし、8月6日
たった一発の爆弾が全てを奪い去りました。
広島の人々にとっては、突然の惨劇。
でも、それは、
綿密な計画のもとに進められたものでした。
日本から南へおよそ2200キロ、テニアン島。
投下直前の7月末、
アメリカが占有するこの島に、
過去に類を見ない大量破壊兵器が持ち込まれます。
全長3メートル、直径71センチ。
細身な爆弾に付けられたつけられたコードネームは
『リトルボーイ』。
史上初めて
実戦で使われることになる原子爆弾でした。
戦後に行われた実験映像から、
その威力が感じ取れます。
検証用に建てられた建造物は、
一瞬にして崩れ去りました。
その原爆の投下目標は
新潟、広島、小倉、長崎に絞られます。
広島は陸軍の重要な拠点を有する
"軍都”であるため
第一目標になりました。
そして、アメリカ軍の中では、
目標4都市への
"空襲の禁止”が命じられます。
街を傷つけずに置いておき
原爆の威力を正確に把握したかったのです。
その頃、東京を始めとする
都市部への空襲が激しくなっていました。
しかし、当時の広島県知事は、
投下直前の様子を書簡にこう記しています。
高野源進 広島県知事(当時)
「昨今、当広島市のみは、
さしたる被害も蒙(こうむ)らず、
却(かえ)って気味悪き様感ぜられおり候(そうろう)」
8月5日、
テニアン島では、
『エノラゲイ』と名付けられた爆撃機に
リトルボーイが搭載されます。
深夜、エノラゲイは、日本に向け飛び立ちました。
途中、広島の天気が良好だと伝わり、
ここに、原爆の投下目標が決定するのです
午前8時15分。
広島上空、9600メートルから、
それは投下されました。
高度580メートルで炸裂した原爆は、
広島を一変させます。
空襲禁止によって無傷だった街・・・
爆心から2キロ圏内の建物は瓦礫(がれき)となりました。
死者は、この年の年末までだけで、
14万人といわれます。
綾瀬 「綾瀬と申します」
小方さん「テレビで見た」
これまで、何人もの被爆者の方にお会いし
〝戦争の記憶” を聞かせて貰いました。
綾瀬「失礼します」
名前と顔を明かさない約束で、
取材に応じてくれた女性は言います。
「生き地獄…」そう表現するしかない惨劇が
広島の街に広がっていました。
原爆投下の3時間後に撮られた写真。
ここに写る少女、河内光子さんは、
目の前で赤ちゃんを抱えていた女性の様子を
記憶していました。
河内さん「動かんのですから子どもは
死んでると思うんです」
河内さん「むごかったですね」
激しい熱線により
火傷を負った皮膚が異様に盛り上がる
ケロイドに苦しむ人。
放射能の影響で全身に斑点ができ、
のちに絶命する人・・・
さらに・・・
宮川造六校長「その悲惨なる状況は言語に絶した
たくさんの生徒は
眼球が飛び出しておりました」
強烈な爆風に伴う気圧の変化で、
眼球が飛び出すという現象も起きたのです。
小方澄子さんの場合・・・
綾瀬「体中が?」
当時17歳だった加藤義典さんは、
学童の救出にあたっていましたが
崩れた建物から抜け出せず、
死を覚悟した男の子から、
こんな言葉を掛けられます。
被爆者それぞれの胸に深く残る、
原爆の爪痕・・・
時間がたっても癒えることはありません。
その一方で、
原爆を落とした側の、”思い”・・・
原爆開発に携わった科学者が、
被爆者との対話で語った言葉とは・・・?
綾瀬「たった一発の原爆が、
広島の人と街を
焼き尽くしてしまったんですけども、
しかし、
生き残った人たちはこれからまた
さらに苦悩が続いています。
それを今からまた
一緒にVTRを見てみましょう」
広島は、
一発の爆弾で変り果てました。
そしてここから、
被爆者たちの長い苦しみが始まります。
助産師をしていた大久保ハルコさん。
被爆後のお産の現実を話してくれました。
大久保さん「目が片一方無かったり、
目がここ(眉間)にあったりね、
想像つかんでしょ」
綾瀬「頭が無い・・・」
大久保さん「上が無いの。上が無し。無いの」
どこまでが原爆の影響か、今もわかってはいません。
が、多くの助産師が同様の証言をしています。
被爆者を襲う苦しみは、
肉体的なものだけではありません。
神戸美和子さんは、
被爆の後、岡山の中学に転校しました。
そこでは・・・
神戸さん「で、私その子の手を
ギューっと掴んで」
原爆や放射線への十分な知識がなかったための
〝いわれなき差別” にさらされることもあったのです。
当時中学1年生だった大石のりこさんは、
校長の判断で、
勤労動員に行かなかったために
一命をとりとめました。
しかし、子供を亡くした他の親からは・・・
被爆者が生きた戦後は、壮絶なものでした。
最後に、2005年に行われた
ひとつの対話をご覧下さい。
ハロルド・アグニュー博士。
原爆開発に携わった科学者であり、
8月6日、広島の上空にいた一人です。
そして・・・
この、いわゆる "キノコ雲” を
撮影した人物でした。
一方、西野稔さんと
藤井照子さんは
キノコ雲の下で、大切な人たちを失い、
自らも被爆しました。
原爆の開発、投下に関わり、
撮影したアメリカ人と、
被爆者との対話は、
戦争の根深さを感じさせるものでした。
原爆投下の3年半前、
日本は、アメリカ軍の基地があった
ハワイ・真珠湾を奇襲攻撃します。
アメリカ側の死者は2400人にのぼりました。
アグニューさん「OK サンキュー
グッドラック」
3人も、今は亡く、
こういった対話が持たれることも、
もうありません。
被爆者たちのひと言ひと言、
改めて、胸に刻みます。
綾瀬「ありがとうございました」
動画はこちらのURLからご覧いただけます。
https://youtu.be/E-h16wnPggM