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トンネルの向こうには① 〜交通事故で生死を彷徨い、青春を失った少年の物語〜

キキッー! ドカッ! ガーン! 

バタッ、、、、

ウーッ!! ウーッ!!

失われた3日間

それは高校1年生の秋の話。

目が覚めるとそこは病院だった。

そっか、俺は事故に遭ったんだっけ。

近くにいた看護婦さんに、今日は何月何日なのかを聞いた。

その日にちは、記憶がある日にちからもう3日も経っていた。

後で聞いた話によると、私は自転車で道路を飛び出し、車に跳ねられ、後頭部を電柱に強打したそうだ。

交番が目の前にある交差点で車に跳ねられたので、警察や周りの人が直ぐに駆けつけてくれたようなのだが、集団心理で周りも混乱していたらしく、最初は何故か消防車がきたらしい。

来たら来たでそのまま運んでくれればいいのに、何故か消防車は帰って行き、再び救急車が来たそう。

そのタイムラグがもし明暗を分けてたとしたら、私はもうここにはいないかもしれない。

事故の負傷内容は頭蓋骨骨折と脳挫傷。

骨折といっても後頭部にヒビが入っただけだ。脳挫傷はその衝撃で脳に傷が入ってしまっている状態である。

脳内出血がもっと酷かったら本当に危なかったかもしれない。

仮にその状態で生きていたとしても、植物人間になっていた可能性すらあったそうだ。

しかし、不幸中の幸い、一命を取り止めることができ、意識も戻ったのだ。

事故の直後、救急車で運ばれている際、友人から掛かって来た電話に出たくらい普通だったようだが、病院に運ばれてから意識を失ったようだ。

そこから昏睡状態が続いていた。

私には車に跳ねられる直前から、その3日までの記憶が一切ない。

未だに全く思い出せない。思い出す必要もないのかもしれない。

覚えていたのは、事故に遭ったという事実のみ。

事故のショックのせいなのか、精神的な要因なのかは分からないが、とにかく3日分の記憶が無いのだ。

集中治療室での苦悩

そんな経緯があり、私は集中治療室にいた。

頭はまだ痛み、体はあまり動かない。食事もできる状態では無いので、点滴をしている。

トイレにも当然行けないため、シビンや専用の容器で用を足す。

大便を誰かに手伝って貰うなんて、今まで経験した事はなかった。

恥ずかしくて仕方がない。

でも、そうする以外に方法はないのだ。

微かな記憶だが、ベテランらしき看護婦さんに、「退院したら沢山ディープキスしてあげるからね。」と言われた記憶がある。

どういった会話の流れかは思い出せないが、私を必死に励ましてくれたのだろう。

虚な記憶の中、それくらいしか思い出がないのは滑稽だ。

病院に運ばれた直後、両親が来てくれたが、何故か私は母に対し「来るなよ!」と言ったらしい。

気が立っていたのか、思春期特有の表現なのかは記憶がないので不明だが、母には本当に申し訳ない事をしたと思っている。

母はそれを聞いて号泣していたそうだ。なんて事をしてしまったのだと思った。叔父からその話を聞いた時は胸がすごく痛んだ。

集中治療室には約2週間ほどいた。
私の病院生活は、今後どれほど続いていくのだろうか。

慣れない一般病棟での生活

回復の兆しが見えた所で、一般病棟に移された。私にとって、これが人生で初の入院だった。

両親や親戚、友人達がお見舞いに来てくれる。

来てくれるのは嬉しかったが、とても情けない気持ちになった。

事故に遭ってからというものの、偏頭痛と耳鳴りが一向に解消されない。耳はずっと飛行機や高所にいる感覚で、耳抜きをしないと変な感じがした。

一日中そんな感じなものだから、夜の寝付きはとても悪かった。

院内は乾燥していて、喉の調子も悪かったので、咳をしていたら、隣の患者に怒られ、肩身が狭かった。

夜、トイレに行きたくなっても1人ではいけないので、ナースコールを押す。

頻度がやや多かったので、看護婦さんがめんどくせぇなという顔をしているのも、とても申し訳なかった。

今の私は人に迷惑をかけているだけで、存在価値がないのではないだろうか。そう思う瞬間もあった。

見舞いに来てくれた母親に事故の状況を詳しく教えて貰った。

私は信号を無視して道路に飛び出したそうだ。
その日は平日で、携帯を機種変更するために、父親と待ち合わせをしていたのだ。

ただ、文化祭の準備があったので、待ち合わせ時間を過ぎてしまっていたのだ。

当時は相当焦っていたのだろう。途中までの記憶で、必死に自転車を漕いでいた事を朧げに覚えている。

きっと信号が変わる直前の交差点を、斜め横断で無理やり渡ろうとして、車に跳ねられたのだろう。

皮肉にも激しく跳ねられたにも関わらず、自転車はほぼ無傷だったそうだ。

相手方と負担割合の話になっているそうで、相手と会うか?と聞かれたが、特に会いたいとは思わなかったので断った。

この時、母親には例の件を謝罪した。

お風呂にも入れないので、看護婦さんに体を拭いて貰う。まるで介護されているような気分だ。

暫く点滴生活だったが、漸く食事を取ることができるようなった。

久しぶりに口にする食事はとても美味しかった。きっと薄味だったのだろうが、身に染みる美味しさだった。

なんか、生きてるって感じがする

約2週間、一般病棟で過ごし、いよいよ退院という時に、私は医師から辛い言葉を告げられる。

続く

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