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『たとえ天が堕ちようとも』アレン・エスケンス 著(東京創元社)

毎月更新 / BLACK HOLE:新作小説レビュー 2020年9月

 真実と事実は必ずしも同じものとは限らない。
 これは単に言葉遊び的な問題ではない。なにか争訟が起こるたびに裁判所はいちいち「事実認定」という作業を行って、「何が起こったのか」を法的に推定していくのだけれども、ここで認定される事実なるものがはたして本当に起こった出来事なのかどうかは究極的には確かめようがないのである。
 フェアプレイに重点を置く「本格ミステリ」の領域においては、この事実認定の限界が、すなわち物語の限界ということになってしまうだろう。しかし法廷を舞台にしたサスペンスであれば……そこにドラマが生まれる。

 2020年は国内外ともに優れた法廷サスペンス(リーガルミステリ)が多数発表された。私的にとりわけ強く印象に残ったのは『ザリガニの鳴くところ』(ディーリア・オーエンズ著)のじっくりと緊張感を高めていく判決場面と、『グッド・ドーター』(カリン・スローター著)における「罪状認否」手続の巧妙な演出、そして本書『たとえ天が堕ちようとも』の緻密な法廷ディティールだった。

 あらすじを見てみよう。主要登場人物は三人。一人目は不幸な事件で家族を失い、心に傷を追う刑事マックス。二人目はマックスの宿敵であり、妻殺しの容疑を掛けられたベン・プルイット弁護士。そして三人目はマックスとベンの共通の友人であり、とある事件での失敗を機に現場を離れていたボーディ弁護士。法曹関係者の三人が、ベンの妻の死をめぐる裁判で奇しくも向かい合うことになる。因縁と疑心の入り混じる裁判劇だ。

 著者は昨年『償いの雪が降る』で本邦初紹介となった作家。前作も巧みなキャラクター配置とウィットに富んだ文体、そして活劇の妙によってこれでもかというほどエンタメ精神に溢れる作品だった。その様相は本書でも変わらない。主要登場人物のみならず、かれらの周囲にも印象に残るキャラを配し、物語全体を華やかに彩りつつも、暗い過去との決着という重いテーマを静かに扱っていく。
 情報の出し方や謎の提示も見事だ。過去の因縁を少しずつ開示しつつ、現在の事件と過去の事件、それぞれの謎を深めていく。物語の背骨となるのはシンプルなアリバイ崩し(的なもの)だが、最後まで事件の全貌が掴めないまま法廷での化かし合いが進んでいくという構成も実に手が込んでいる。

 本書中で「裁判における戦況をガラリと変える局面」を「ペリー・メイスン的瞬間」と表現している箇所がある。そもそもそんな言葉がある自体驚きというか、さすがペリー・メイスンだなぁと思うわけだけれども、それはさておき本書は法廷サスペンスの王、E・S・ガードナーがペリー・メイスンシリーズを通じて確立した様式美を、さらにもう一段階高いところまで引き上げようという試みでもある。
 ガードナーの偉大だったところは裁判所で行われる、本来は退屈で無味乾燥としているはずの議論をテンポの良い会話劇に昇華させたところだ。ガードナーの手にかかると法廷での挨拶、自己紹介、事実の認定、議事の付け方など、なんのこともないちょっとした手続すら面白くなってしまう。本書の著者エスケンスも、実際に長年法廷での経験があるだけに、そうした細部の描写がほんとうにキレてる。緊張のあまり言葉に詰まって二度三度と咳払いを繰り返す場面、証言の間に口元に運んでいた水がいつのまにか飲み干されていることに気づく場面、被告の動揺を隠すため「ぜったいに傍聴席へ振り向くなよ」と弁護士が指示する場面……ひとつひとつのシーンに現場感があり、ドラマへ引き込んでいく引力がある。

 サスペンスドラマとして見たとき、本書の出来は抜群だ。エスケンスの作品が今後も続々と翻訳されることに期待したい。

文責:夜来風音


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