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『とうもろこし倉の幽霊』 R.A.ラファティ 著(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

新歓期特別更新/ BLACK HOLE:新作小説レビュー

  前提として、すべての作品が冗談である。理論を突き詰めたハード SF や、異世界なりに精緻を極めたファンタジーのようなものをここに期待してはいけない。あるのは突飛なアイデアと戯画的な登場人物、そして現実性の不確かな展開だけだ。ボルヘスの幻想性とヴォネガットのユーモアに似ているが、そのどちらでもない。文体の軽さと重さも幅広い。
 かといって意味不明なごた混ぜを見せられるというのとはわけがちがう。真偽織り交ぜた引用、わざとらしい虚構の用語、抽象的な対立構造から立ち上がる意味の場は、飛躍した発想の中に現実との接続を手繰り寄せる。色眼鏡をかけて読めばお堅い意味を見出すことさえ可能だ。「下に隠れたあの人」は潜在意識、「サンペタナス断層崖の縁で」はダーウィニズムと科学、「さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう」は自由至上主義と宗教、「王様の靴ひも」はナチズム、「チョスキー・ボトム騒動」はルッキズムというふうに。
 そのような外挿めいた読みを抜きにしても、この短編群はなにか形而上学的な主題を描いているように感じられる。大嘘であるにもかかわらず、である。それはこの作品がラファティの言語以前の鋭利な認識を反映しているからだろう。現実性の束縛を絶ち、一方でお花畑的浮遊も避けて展開された空想は、たまたま別の体系と出会って昇華され、寓話めいた形で舞い戻る。それは単に現実が虚構にあてつけられるような俗な変換ではない。むしろ逆で、明らかなほら話、過剰な虚構のなかにかえって真実の一片を幻視してしまうような「わからせ」だ。ちょうど滑稽で理解不能な民俗伝承が、歴史の真実にまつわる重要な示唆を含むように。だから彼の作品は単に奇想、奇天烈というのでは足りない。これは真実を象った神話なのだ。もちろん散々暴れた末、最後にはたいてい愉快に落としてくるのだから、やはりどうしようもないほら話でもある。
 ところでこの作品群のなかで重要な意味を持つのが、世界の枠組みに対する執着だ。なかでも秩序への拘りは強く、「さあ、恐れなく……」「千と万の泉との情事」では構造と非構造、秩序と無秩序の対立が根本をなす。おもしろいのは、突飛な発想の王たるラファティ自身はこれらの作品の中で秩序側に立っているらしいということだ。特に宗教色の強い「さあ、恐れなく……」では、無秩序の拡大による破滅のあとで秩序の擁護者が舐める苦難が荘厳に語られる。一方「千と万の……」の中心は、自然物をこよなく愛する主人公が世界の被造という概念と向き合う際の葛藤だ。
 この一見作風と矛盾するような秩序への執着に、作者の宗教性(アイルランド系カトリック)を重ねることもできる。だがそればかりではなく、これは世界に向き合う発想者としての葛藤そのものであるようにも思える。既製の秩序なくして認識、思考できない人類が、いかにして世界を自由に解釈するのか。真実が存在したとして、それを説明する体系はひとつなのか? そう考えるとき、これらの幻想は単におもしろいおじさんのほら話ではなく、ひとりの預言者が認識の最前線で苦悩しつつも愉快に仕立てた、冗談の神話としての色合いを帯びてくる。

(haxibami)

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