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『オルガ』ベルンハルト・シュリンク 著(新潮社)

毎月更新 / BLACK HOLE:新作小説レビュー 2020年5月

 ひとりの、地位も名誉もないひとりの人間が、たしかにそこに生きたという証。その人間の切実な思い。誰にも記憶されないその彷徨の生涯。そういったものが不意に、かたちを伴って現代を生きる読者の眼の前にまざまざと浮かび上がる。伝記形式の小説ならではの、そうした比類なき力強さを感じさせる一冊だ。

 物語は終始、静謐で落ち着いた文体によって綴られる。まだ発展途上だったころのドイツに生まれ、「オルガ」というスラヴ系の名前を背負って育ったひとりの女性。決して恵まれた生まれではなかったが、学問に励んで教師となり、また冒険家気質の幼馴染・ヘルベルトとの恋に落ちるオルガ。そんな彼女を襲う不幸と二つの戦禍。やがて聴力を失い、音のない世界で暮らすようになる彼女に寄り添うかのように、物語は淡々とした地の文と、そしていくつかの印象的な会話を中心に進む。

 もうひとつ印象的なのは、広大な大地への羨望から北極探検に乗り出すヘルベルトの生き様だ。オルガはヘルベルトを愛しつつも、彼の志向する広大な空間を「空虚」なだけのものと非難する。本作において「大きなもの」に対する男性的ロマンチシズムは、致命的に浅薄なものとして批判されることになる。

 そうしたヘルベルトの「空虚な大言壮語」とオルガの「沈黙」の対照。本書はあくまで「沈黙」の側に視点をおいて世界を著述していく。いわばオルガの視点で。激動の時代を彷徨った老女の視点で。

「沈黙は学べるのだ──沈黙に含まれる、待機の姿勢によって」

 本書の巧妙な構成についてはあえて触れないでおこう。ぜひとも先入観なしに読んで欲しいところだからだ。(やや親切すぎる帯文を丹念に読めばだいたい結末までわかってしまう気もするが……)。むしろここで紹介したいのは、やはり本書の見事なまでの「静かさ」なのだ。そしてその静かさが、最後に「声」を持つ瞬間の激しさ。そこにこの本の圧倒的な力強さが見て取れるのだ。

 20世紀初頭の世界。それは我々にとって歴史のヴェールの向こう側の、サイレントで白黒な世界だ。その時代に何が起こったのか、知識としては知っていても、それは当然ながら実際にそこに生きた人々の経験とは大きくずれたものになってしまっている。そうした「歴史の沈黙」。作者はオルガというひとりの女性の生涯をある種のミステリー的仕掛けによって「再演」し、その「歴史の沈黙」の帳を打破して見せる。

 無論、本書の「沈黙」の美しさは細部にも満ちている。一個人が眺める変わりゆくドイツという国の景色。人々の姿勢。そしてまた愛すべき人々との出会いと別れ。少女から老女へと年経るオルガの視点から描かれるその世界は、まさに手に取るような親近感と、そしてまた取り返しのつかないくらいの隔世の感を同時に感じさせる。そんな魔術的な読後感も、細部の小道具や心情描写まで丁寧に追いかけた作者の粋な計らいのなせるわざだ。

 今を生きる私たちがオルガというひとりのドイツ人の生涯を「読む」ことの意義。ベルンハルト・シュリンクはその意義に徹底してこだわっただろうと思う。だからこそ、今、読むべき一冊だ。

 文責:夜来風音

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