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アリ?ナシ?どっち!?・・・オーケストラ曲の「リピート(くりかえし)」

新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。指揮者の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は10月20日、21日に開催される「第18回すみだクラシックへの扉」で演奏される、ベートーヴェン「交響曲第6番《田園》」、シューベルト「交響曲第7番(旧・第8番)《未完成》」に関連した、交響曲の「リピート=繰り返し」についてのエッセイです。同じ曲でも繰り返しをするかしないかで、その表情や印象が変わるかも?というお話です。

オーケストラとの合奏初期に必ずと言っていいほどに聞かれること、言わなくてはならないことがある。

それは「リピート」つまり楽曲内の繰り返しの「あり」「なし」だ。

リピート記号

ある作品にリピートがあるとして「あり?なし?」とオケのインスペクターやステージマネージャー、ライブラリアンの他、コンサートマスターや各楽員に質問されることは多い。

曲のなかに複数のリピートがある場合は、全てリピートするときには「全アリ」、すべてのリピートをしないときには「全ナシ」と言う。ある場所はアリである場所がない場合は「アリナシで」とか「ナシアリで」と言うことになり、もっとたくさんある場合は「アリナシアリアリナシアリナシナシ」などと呪文かお経みたいになってしまう。余談だが全部のリピートをしないことを「最短で」と言うこともある。具体例としては…

奏者「ラデッキー行進曲の繰り返しはどうしますか?」

指揮者「最短で!」

みたいな用法が考えられる。

スコアやパート譜に「リピート記号」がある場合、基本的に繰り返しをするが、場合によっては繰り返しをしないこともある。それは「慣例」である場合や「時間(コンサート全体の時間、つまり「尺」)」による場合もある。主催者側の要望や事情もあるが、多くの楽曲の場合それは指揮者の判断に委ねられる。

ある指揮者は効率重視、コスパ重視のエコノミー気質で繰り返しはなしが通例の方もいれば、「楽譜に書いてある以上はやる!」という方もいる。

実は僕は「繰り返しをやる」派。余程のことがない限りは繰り返しをしてきた。それはまだ門前の小僧時代の師たちから受けた「楽譜に書いてある以上、繰り返しはやるべきだ!」という教えが大きく影響している。

それが不惑の四十代を超えてから、僕のなかに「変化」が。「リピートしない」ことが増えてきたのだ。これは「加齢」からくる疲れなのだろうか…曲によっては「リピートすると長すぎる感じがする」「このリピートはしなくて良いのではないだろうか」と思う、というか「感覚的にそう感じる」ことが増えて、これまでリピートしていた曲のリピートをしないことが以前より増えてきた。

最近だとドヴォルザーク「交響曲第6番」の第1楽章は繰り返しをした。反面、これまでは繰り返していたドヴォルザーク「新世界(交響曲第9番)」は繰り返しをしなかった。現在目下取り組み中のカリンニコフ「交響曲第1番」も以前大学オーケストラで取り上げたときは繰り返したが、今回は繰り返しをしないことにした。どことなく「クドイ」と感じだからだ。

ベートーヴェン

その他の有名作品の繰り返し、指揮者の好みもあると思うが、ベートーヴェンの「運命」の第1楽章のリピートはほとんどの演奏で「リピートあり」だ。往年の指揮者の演奏の中にはリピートしないものもあったが現在はほぼ全て繰り返される。同じ「運命」の第4楽章にもリピートがあるが、これはする人しない人が分かれる部分で、僕はする。理由は繰り返す直前のたった1小節、音符にして2つの和音がたまらなく好きだからである。理由はそれだけなので、やらなくても怒り狂うことはない。

ベートーヴェン「交響曲第5番」の冒頭部分

同じベートーヴェンの「英雄」の第1楽章にもリピートがある。これは基本的には僕はしない。かなりの長丁場を走り抜けた先にそのリピートがあり、また冒頭に返るのだが、これがなかなか長大。「またあれをやるの…?」と思うような部分だ。これをやるかやらないかで全体の演奏時間もかなり変わる。同じベートーヴェンの「交響曲第7番」の第1楽章は時間的制約がない限りは繰り返しをするようにしている。理由はもちろん「形式美」の観点からの判断はもちろんあるのだが、ここだけの話、繰り返される第1主題の部分が好きなので2回やりたい!という素朴な理由がないわけではない。

自身の交響曲第1番が「ベートーヴェンの第10交響曲」と評されたブラームスの交響曲の第1楽章においても「第1番」「第2番」「第3番」に繰返しがあるが、わずかな例外を除いて「第1」「第2」の繰り返しはしないのが慣例になっている。最近は繰り返しをする指揮者も増えてきた印象ではあるが、この繰り返しをすると「ここまできて、また最初に戻るのか・・・」という何とも言えない気分になる。一方「第3番」の第1楽章は繰り返しをするようにしている。この作品は全体の演奏時間が「第1」「第2」に比べて少し短いので繰り返しても「クドい」印象がないことも理由のひとつではある。

この「リピート」だが、ただ単に「演奏時間」とか「くどさ」だけが繰り返しの理由ではない。ちょっとだけ「音楽理論」の点からそれを紐解いてみる。

古典派以降、交響曲をはじめさまざまな楽曲の形式が確立する中で、ある形式が台頭してきた。その形式とは「ソナタ形式」、本来は「演奏されるもの」という意味であり、元々は「鳴り響く」という意味のイタリア語「ソナーレ」に由来する。「ピアノソナタ」「ヴァイオリンソナタ」など各楽器に「ソナタ」と呼ばれる楽曲があるが基本的には複数の楽章で構成されている。その「ソナタ」の第1楽章によく用いられている形式が「ソナタ形式」で形式的にとても均整が取れた形式だ。

ソナタ形式は「主題提示部」「展開部」「再現部」「結尾部(コーダ)」で構成されている。その中で「リピート」されるのは「主題提示部」になる。「主題提示部」とはその字の如く、その楽曲の「主題(テーマ)」を示す重要な部分で、性格の異なる「第1主題」と「第2主題」で構成されていることが多い。例えば「運命」のように有名な「ジャジャジャジャーン」が「第1主題」である。その主題は「短調」なのだが、その対比として「第2主題」は「長調」という相対する性格の音楽になっている。この部分が全体に与える影響は多大だ。その「主題」を印象付けるために「主題提示部」を繰り返すことで、その主題を聴き手や演奏者の耳や心に「深く刻む」という目的・理由があるのだ。「繰り返し」することに「理由」はある。しかし、楽曲においては繰り返しをしなくても、その「主題」を深く心に刻まれるものもある。例外もあるが「第1主題」と「第2主題」がそれぞれいくつかの部分によって構成されている結果、ものすごく長大な「主題提示部」となっている場合は、繰り返されることで逆に冗長に感じてしまう曲もある。代表的なものではブラームスの「第1」「第2」であるが、そのような楽曲はリピートしなくても十分印象づけがされるので、繰り返しをしなくても良いと判断されることもある。

ベートーヴェンの「交響曲第6番」は「交響曲第5番」いわゆる「運命」と同日に初演された交響曲で、「英雄」「運命」「第7」「第9」と並び人気の作品。この作品はベートーヴェン自身によって「田園」という副題が付けられている。

ベートーヴェン「交響曲第6番」冒頭部分

「田園」は各楽章にサブタイトルがつけられているのも大きな特徴。この作品以前の多くの作品、特に交響曲では特定のテーマや題材をもたない「絶対音楽」が主流だったが、このベートーヴェンの「田園」は後世に生まれる交響詩や狂詩曲、そしてベルリオーズの「幻想交響曲」に代表される「表題音楽」への扉を開いた作品と多くの音楽書に書かれている。

この「田園」の第1楽章には「田舎に到着したときの晴れやかな気分」という副題がついているが、作品としてはこれまで触れてきた「ソナタ形式」で書かれている。それゆえこの曲にも「リピート」がある。この作品は比較的たくさん指揮をしてきた。これまではすべて繰り返しをしてきたのだが、この副題とくり返しの関係についてある時ふと考えた。

楽曲冒頭から「田舎に到着したときの晴れやかな気分」を表現するような見事なオープニングになっている。普段都会に暮らしている人が田舎のリゾート地に静養に訪れ、彼の地に降り立ったときの感慨や喜びを感じる。特に冒頭にそれを強く感じるのだが、リゾート地に降り立った瞬間の喜ばしい感情は「ただ一度きり」なのではないか?北島三郎のヒット曲「函館の女(ひと)」の冒頭に朗々と歌われる「はるばる来たぜ函館へ」にしても、やはり最初に降り立った高揚や気持ちの昂りというものは「一度きり」だからこそ表現できるのではないかと僕は思う。

リピートして、その喜ばしい瞬間をもう一度再現するとき、1回目の新鮮な感動を同じように、またそれ以上に表現することは難しいと考えてしまった。まるで映画やドラマで何シーンも撮り直すようなことになる。ドラマや映画の名優たちならばそれを見事に再現はできるかもしれない。しかしそこに「新鮮な感動」をどれくらい込められるだろう。プロなのだからそれを見事に演奏で表現できるし、しなくてはいけないとも思うけど、逆にわざとらしい「芝居じみた」ものになるのではないか…そんな想いが僕の頭を駆け巡る。

やはり「その時の感動」は「一期一会」だ。2つとして同じものはない。やはり「田園」を指揮する時 はあのリピートをしないようにしよう…。これは僕個人の心境である。他の指揮者の先生、先輩、同輩、後輩が繰り返しをしても、それはその演奏家の「音楽的解釈」だ。正しいも間違いもない、「自分の心と直感に従った」判断なのだ。その違いを楽しむのもクラシック音楽の楽しみのひとつだと思う。実際にそれを耳にしてみて、聴き手一人ひとりがどのように感じるか?自分の心と直感に従ってみてほしい。

シューベルト

シューベルトの「未完成」の第1楽章もリピート記号がある。かなり進んでまた戻るので、その繰り返しをしない演奏も多い。実際繰り返してやると「ここまで来てまた戻るのか…」と思うこともあったが、最近はこちらはリピートするようにしている。その方が作品の重厚さが増すし、なによりあの素晴らしい第1主題と第2主題をもう一度やりたいという僕の「心と直感」に従った結論なのである。

シューベルト「未完成」第1楽章冒頭部分

果たして今度の演奏会で、この2曲の繰り返し「アリ」か「ナシ」か?その答えは当日の会場で明らかになる。答えをみなさんの目と耳で是非確かめて欲しい。僕も会場でその答え合わせをしようと思う。

(文・岡田友弘)

🎵演奏会情報🎵

鈴木秀美が描く「未完成」「田園」

【Program】

メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」 op. 26
シューベルト:交響曲第 7 番 ロ短調 D. 759 「未完成」
ベートーヴェン:交響曲第 6 番 ヘ長調 op. 68 「田園」

指揮:鈴木 秀美

<公演日・開演時間>

10月20日(金)
10月21日(土)

※両日とも13:15 開場/14:00 開演

一般S席:5,000円/A席:2,500円
シルバー(65歳以上)S席:3,500円
学生S席:2,000円/A席:1,000円
墨田区在住・勤および賛助会員※S席:3,000円/A席:1,500円
(全席指定・税込)

詳しくは新日本フィルWebサイトでチェック!

執筆者プロフィール

岡田友弘

1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻入学。その後色々あって(留年とか・・・)桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンも多くいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆や、指揮法教室の主宰としての活動も開始した。英国レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。現在、吹奏楽・ブラスバンド・管打楽器の総合情報ウェブメディア ''Wind Band Press" にて、高校・大学で学生指揮をすることになってしまったビギナーズのための誌上レッス&講義コラム「スーパー学指揮への道」も連載中。また5月より新日フィル定期演奏会の直前に開催される「オンラインレクチャー」のナビゲーターも努めるなど活動の幅を広げている。それらの活動に加え、指揮法や音楽理論、楽典などのレッスンを初心者から上級者まで、生徒のレベルや希望に合わせておこない、全国各地から受講生が集まっている。

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