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ポスト・トゥルースは日本で定着するのか?(前編)

ポスト・トゥルースは日本で定着するのか?(前編)
(今回の記事は前編・後編として投稿致します)

ポスト・トゥルース(Post truth)とは・・・


「世論の形成において、客観的事実の影響力が、感情や個人の信念に対する訴えかけに劣る状況を意味する、またはこのような状況に関する形容詞」と定義されている。

メディアと真実について

もうみなさんわかってきた人も少なくはないのではないか?
メディアが報道している全ての情報が決して正しいことだけではないと言うことが。

メディアを通じて情報が流れることによって、純度100%の『正しい情報』だったはずのモノが形を変えてお茶の間に届いている可能性があるのではないか?・・
こう考えている人は今現在どのくらいいるのだろうか??
(これは取材した記者やアナウンサーを否定しているわけではなく、メディアという媒体を通すことによってバイアスや着色は生じるのではないか?と考えている)

過去にもメディアが先走ってしまったがゆえに誤った情報が独りよがりしているケースは幾度となくあった。

神戸連続児童殺傷事件での誤情報のケース


犯人が逮捕されるまでは、「犯人は30~40代の男性で、中肉、ガッシリした体型である」とメディアが報道していたが、捕まった犯人は、当時14歳の中学生だった。

何かあった際は、加熱報道などという言葉で片付けることも多いが、当事者からすればたまったものではない。

日本とアメリカのメディアの立ち位置について


日本のメディアは既に為政者の為の情報発信者程度の主体に留まっている為に曖昧だが、米国などは顕著にメディアが政治的立場を持っている。つまり、右翼、左翼、中道にしても何かしらの明瞭な出来事を語るポジションがあり、それが各メディア企業の主体に大きな影響を与えている。
そのメディア主体のメタ主体として、記者、編集者、キャスターが居る。だから彼らは個人の政治的立場によって労働先のメディアを選定すれば良いし、それによってメディア主体は強固になり、肥大化することができる。
一方、今日の日本のメディアにこの様な性格はない。
 
この様な政治的立場がない中で、真実と虚偽を必死に拡散している姿は滑稽とも言えるだろう。
真実にせよ虚偽にせよ、論じる以上は主体がどこに立脚しているのかを明白にするのが受け手に対する義務である。それを追求しないまま、何の論拠もなしに真実だ虚偽だと喧伝したところで、実際には議論していることにはならない。日本のメディアは空砲を撃ち続けて戦争だと騒いでいるようにも見えてしまう。

ノンフィクションという名のフィクション


残念なことに、メディア主体を通すことで全てがフィクション化され、偽造化されるという残酷な現実と向き合うことから全ては始まる。

米国のトランプ前大統領は、巨大化するマスメディアの動向と並走し、熟知していた。
そのため、彼はメディアが本質的に真実を語ることが出来ないということを理解しており、そこに真実も虚偽もなく、あるのはメディア主体としての政治的立場だけであるという像化を見抜いていた。
それは彼自身がリアリティ番組を通じて著名になったことからも理解できる。
しかしメディアを大衆娯楽として受動的に享受するだけの民衆に、この事実は理解されることがなかった。それがあろうことか、今日の日本ではメディアに属する人々さえも理解していないという皮肉なコメディーと化している。

メディアは最初からフィクションなのだ。
この共通了解があった上で、かつてのメディアはノンフィクションに見せる為の仕掛けを意図的に行なってきたわけだ。
いわば、ノンフィクションのフィクションのノンフィクション化である。

・・・

本日はここまでとして次回は『ポスト・トゥルースは日本で定着するのか?(後編)』を6/3にアップしたいと思う。

ここまで拝見いただき、本日も有難うございました。


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