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表象された世界をすてろ 「ゆとり世代」の考察

2022/05/15・・・はじめに・・・
本日から世の中に対して感じる内容を発信していく中で、まずはゆとり世代とは何だったのか?について少しばかり書いていきたい。


石の上にも三年だった『ゆとり世代』

今では信じられないだろうが、十年前、新卒の社員が三年経たずに会社を辞めることに対して、激しい社会的攻撃が行われた。
石の上にも三年という諺通り、多くの年月を一つの会社、仕事に打ち込んで得られるものこそが社会人の素養であるという神話がまだ強固だった時代のことだ。
当方90, 91年生まれの世代だが、この頃盛んに「ゆとり世代」は会社、社会を舐めているという圧力を内外から受けたことを覚えている。

あの頃は、まだ堅牢な日本の大企業は文字通り大企業であったが、同時に多くの綻びが露わになり始めた時期でもあった。
十年後の今日、呆れるほど目の向けようがない東芝、鴻海の傘下に下ったシャープ、巨大展示場を立て続けに閉鎖したパナソニックの様な散々たる没落した大企業の末路を筆頭に、日本製の品質は凄いとあれほど喧伝したにも関わらず、蓋を開ければ不正の温床だったことが次々と露呈するなど例には事欠かない。

この転倒した十年における重要な発火点は、2011年の東日本大震災だった。
不思議なもので、当時の私を含めた若者たちが一つの堅牢な会社、社会に長年勤め続けることを放棄し、上司に詰められたら辞めるという行為は、別にゆとり世代という分かりやすい造語に全ての責任を押し付けて一緒くたに語って済ませられるものではなく、むしろ時代の変遷を感じたがゆえの行動だったと言える。
当時、職を転々とするのは社会的責任能力のない者、仕事ができない者、ないしは外資に勤める者という印象が強く持たれていたが、今では三年で一社なんてものではなく、平然と三、四社を渡り歩く者も多くなった。

一社に長く属さないということは、利害関係に埋没する強度が下がるということだ。しかも会社員にしても、面倒な利害関係が社内で生まれたら転職すれば良いという思考に向かう障碍が取っ払われたので、流動的な人流が日本企業を蝕んできた固体性を瓦解し始めている。

テクノロジーの恩恵を駆使する世代

これに相まるスマホの普及率は見過ごせない。2011年には国内普及率は9.5%で、所有している大半が二十代だったが2021年には92.2%と十倍近くとなり、しかも全ての年代に行き渡ったと言える状態に達した

スマホの普及が、単に盛んに吹聴される様な情報の民主化だけではなく、日本企業の瓦解に大きな力を果たしているのは個人による告発である。
情報の入発信、写真、動画、録音など様々なスマホが持つ機能が、旧態依存した企業や人々を告発することを容易にしてきた。パワハラなどが盛んに取り沙汰されたのもこの十年間だったが、それは個人が社会的に告発する手段をスマホによって得たこと、情報が民主化して対処法が誰でもすぐに調べられること、そして会社員の流動化によって利害関係が崩壊したことがある。

こうした旧態に依存した日本社会は、未だ強固に持続している様に見える。しかし以前と比較すれば、明らかに戦艦は沈没船の途上にあり、沈みゆく船内の座席争いを為政者、それに準ずる旧態に依存した者が繰り広げているのが今日である。
では一体、戦艦に亀裂を与えたのは何だったのか?
一見、それはテクノロジーであると言いたくなるものだが、実際にはテクノロジーの恩恵を駆使した「ゆとり世代」にあった。つまり、この意味で「ゆとり世代」が「ゆとり」という体たらくな実体なのではなく、ゆとりとは旧態に依存した上、そこにこびりついて離れようとしないむしろ上の世代に対する軽蔑的意味を持つ。

日本では九十年代のポケベルを始めとする女子高生が主導したカルチャーが、若年層と新たなるテクノロジーの親和性、先鋭性、革新的な利用を促進し、若者に上手く引き継がれながら変遷していった。その流れは我々が学生時代だった頃には間違いなくあった。
だからゆとり世代の本質は、メディアを中心に喧伝された馬鹿げた印象ではなく、実際には新たなテクノロジーを今までにない形で駆使して、旧態依存した旧世代の信じる「世界」が、実は空隙だらけであることを肌で理解していた世代なのだ。

旧世代が盲目的に信じた「世界」が、実は表象でべたべたと貼り付けられただけのものでしかなかったという事実が、あっさりとゆとり世代に見抜かれてしまったことに対する嫌悪感が、新たな表象としての「ゆとり世代」像を構築、徹底し、日本を駄目にしているのは「ゆとり世代」だという社会的空気を醸成し続けたのだ。

大人とは一体何を指すのか?

マルクス・ガブリエルの主張する「世界は存在しない」という言明は、既にゆとり世代によって開拓的に実践されてきたことである。
ゆとり世代は、世界という大人たちが信じているものが存在しないことを、日本の大人と呼ばれる人々に呈示する為に極めて穏健に動いてみせた。その穏健的にさらっとやってのけたことが、モダン・ポストモダンの渦中に埋もれて抜け出せなかった日本の大人たちにとって、あまりに屈辱的な経験だったのだ。
それゆえ、ゆとり世代は旧世代の典型的手法である断定的な表象化によって一括りにされ、際限のない理解し難い表象攻撃を浴びせることで、自身らの辱めに対する報復を極めて攻撃的に行なったのだ。

これが我々をして、「大人とは何であるのか?」という信頼性における強烈な嫌疑を抱かせた。
穏健に当時の最新テクノロジーを駆使して、旧態依存した社会から脱却へと向かっていた我々若者に対し、一方的かつ何でも一括りに表象化しなければ何も語れない大人とされた人々は、無知なまま様々な原理(民族主義、懐古主義など)を持ち出して、今まで通りに屈服させることだけを夢見ていた。

では一体、我々もまた敗れて屈服したのであろうか。この点は少々厄介である。というのも、テクノロジーを日本で最初に手懐けた我々世代は、あくまで破壊を目標に据えていたわけではなかった。これは激しい言動による闘争のあった七十年安保闘争を筆頭とする七十年代以降、日本に蔓延した虚無感に呼応して流れる通底した水流だった。

我々がテクノロジーが民主化される開闢期にあった時代の要請に呼応した結果、それは同時にソ連崩壊、ベルリンの壁崩壊後の米国民主主義、自由主義、資本主義、グローバリゼーションが相まって加速する時代と切っても切れない関係にあったが、我々は日本においても旧世代と新世代の丁度混淆した液体の様な存在である。つまり、「ゆとり世代」以前と以後によって日本は大きく語られるであろう最重要の分かれ目だったのだ。

あれほど日常的に耳にした「ゆとり批判」が、今日では一切耳にすることがなくなったのは、旧世代が存続する為の隠蔽と改ざん工作による。
お得意の御家主義が瓦解し始めた兆候を、相当な時間差で僅かに認識した旧世代は、自身らの存続に関わる事態だと見做し、遂に「ゆとり世代」をなかったことにしたのだ。御察しの通り、隠蔽、改ざん、がなかったことにするという手法は、旧世代の御家芸であることは言うまでもない。

まずは表象された世界をすてろ

私を含めて日本の失われた三十年に沿って人生を送ってきた我々は、旧世代の陰湿な攻撃によって自信を喪失している様に見える。バブル崩壊と共に生まれた我々は、良い時代も良い日本も良い日本人も知らない最初の日本人である。
しかし今こそ再考する時が来たのではないか?
一体果たして、それらは本当に良かったのだろうかと。その「良き〜」論法こそ、旧世代が新世代を屈服させる為に形成した表象なのではないかと。

神話で天地開闢後に生まれた伊弉諾尊伊弉冉尊は、高天原から降臨して国造りを行なった。
我々はまさに、その開闢の担い手なのであり、ここから国造りへ繋がる為に旧世代に植民された「世界像」から脱しなければならない。




まずは表象された世界をすてろ。
そこから我々は立ち上がることができる。

ゴールドラッシュ


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