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天秤

 国籍の話や民族の話で、よく「血」について人はメンションする気がする。例えば「白人の血」とか「日本人の血」とか、要は血筋の話だ。筆者は特に、イギリス人の父と日本人の母の間で生まれ、両家がお互い違う文化や国の背景を持っているので、血がどうこうという話は頻繁に聞いていたと思う。特にそこまでこだわっていたわけでもないが、聞き慣れたからか、幼少期から長い間、自分の体の中で、「イギリスの血」と「日本の血」の二種類が混ざって流れていると考えていた。具体的には、赤血球とか白血球のように、イギリスの「球」と日本の「球」が血液中に無数存在している感覚だ。そしてその球の量を調節するための大きな天秤が自分の中にあると、我ながらずいぶん抽象的な考え方をしていた。
 球の数は基本的には平等にしたい。つまり、ダブルとしての自分の二つの国籍を尊重したくて、天秤はまっすぐ釣り合うようにしていた。だけどたまに、球を取ったり加えたりして天秤を傾けた。こうすることで、自分の「イギリス人らしさ」「日本人らしさ」の度合いを調節できると思っていたのだ。
 まさかそんな面倒くさいことをしていたはずはないだろう、と思われるかもしれないが、子供のころの筆者にとって、自分自身の「イギリス人らしさ」と「日本人らしさ」を計ることは、周りとの関係を維持するためにとても重要なことだった。例えば、日本の学校の友達に「ねえ、なんか英語でしゃべってよ」と言われたり「イギリス出身ってかっこいいね」と言われれば、その期待に応えるために、イギリスの球を増やして天秤を傾けた。反対に、「お前日本人っぽくないよ」とか「日本じゃそんなことしないよ」と指摘されれば、日本の球を増やして天秤を傾けた。
 周りの状況に合わせて自分の「イギリス人らしさ」と「日本人らしさ」をコントロールするために、自分の中の「国籍」というアイデンティティを天秤にかけて、その傾きを常に計っていた。今思うと、そんなこと幼いながらによくできたなと思うし、恥ずかしいほど惨めで情けない。(でもって9月30日生まれの天秤座なのが、何だか皮肉である。)


 「あなたってイギリス人みたいに振る舞ってる時もあれば、周りの日本人以上に日本人っぽい時があるわよね。」


いつの日か、母にそんなことを言われたことがある。

「もしかして使い分けてる?」
傍から見れば何でもない質問だが、この直球な質問を受けて、いやはや末恐ろしい母親だな、と思ってしまった。

とりあえず、いや別に、と曖昧に返した。特に悩んでいるわけでもなかったし、学校などでの人間関係も悪くなかったので、問題として捉えていなかったのもある。しかし母のあの言い方だと、自分が二つの国籍を使い分けているときがある事を、いち早く気づいていたのだろう。どんな心情でそんな自分を見ていたのか、それは今でもわからない。ただ、両親の前でどちらかの国籍を選んで尊重することは、なんとなく失礼な気がしてできなかったので、後ろめたさがあったし、天秤についても当然言えなかった。

「そっか、ならいいけど。」
特に何でもないようにそう言って軽く相槌を打ち、母は筆者にこう言ってくれた。

「イギリス人のあなたも、日本人のあなたも、ダブルのあなたも、どれも全部あなただから、正しいもないし、どれも大事にしたらいいと思う。でも、わざわざ意識しなくていいからね。直感に従って、自分らしく生きなさい。国籍は自分の個性を形成する要素の一つに過ぎないから。」

 マイペースな母らしい助言だな、と思った。うんわかった、と返事をして、この会話はすぐに終わったが、内心では「そんな簡単にうまくいくもんか。」と思っていた。自分のナショナリティを野放しにして生活することで、周りからどんな目で見られるか、浮いてしまわないか、それが怖かったから。やれやれ、「子供の世界」はそんなに甘くないんだぞ、と思っていたので、まだまだ自分のアイデンティティとしての国籍を天秤で計るのをやめる気はなかった。けれど、周りの目を気にしない母の自由奔放で開放的なところは、すごく憧れた。まあ母は周りと同じ「純粋な日本人」だもんな、と思いつつ、自身も自分らしさを守るために、天秤をいつか手放さなければ、と初めて自覚した。

 筆者が自分の国籍を意識するのをやめたのは、母とのこの会話から数年たってからだが、ずいぶんとシンプルで生きやすくなったと思う。
 ダブルでありつつ、たまに日本人になったりイギリス人になったりするから、まだ天秤はそこにあるけれど、常に動いているから宛にならないものだなと分かって、もう全く使っていない。
 今はアイデンティティを語るとき、「私は私」と簡潔に片づけて、その時の自分を見てもらえればいいやと、だいぶ投げやりだ。その時の自分が、「ダブルの私」なのか、それとも「イギリス人の私」「日本人の私」なのかはわからないが、どれも私なのでいいや、と思っている。それを相手が仮に気に入らなかったり、後になって「なんかこの前と違うね」と言われても、そっか、でいいと思う。来るもの拒まず去る者追わず。誰にでも理解してもらうなんて無理だから。それが出来たら戦争なんて起きない。

 親戚で集まるときに「お母さんに似てきたね。」と言われることが多くなったが、考え方やマイペースさも結構似てきたように思う。(その分几帳面な父には呆れられるが。)母はそんな自分を見て、どう思っているのだろう。あの時の会話はきっと忘れているだろう。
 ダブルの私と日本人の母、お互いに考える国籍の在り方、アイデンティティの在り方はきっと違う。けれど、自分らしく生きることの良さは共感できるのかなと思う。

 ミックスルーツに限らず、人間は誰でも、わざわざ自分を国籍という型にはめたり、周りと自分を比較したり、そのために道具を使う必要なんてないと思う。周りに気に入ってもらうのもいいことだが、そのために自分を抑えたり偽ったりする必要は全くない。自分を決めるのは自分なので、「○○人」でありたいと思うならそれでいいし、何かの宗教に属したいと思うなら存分に信仰して充実した日々を送ればいいと思う。ありのままのアイデンティティを堂々とさらせばいい。それを否定する人がいたら、It's their lossだ。


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