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自分の中にある「怒りや攻撃性」と、どのように向き合っていけばいいのか?

こんにちは、いろさいです。

私達は物質主義に偏りすぎた結果、「外から見えることだけ」を、「社会的形式に沿うこと」を優先して生きてきました。この生き方は物質や肉体に縛られた生き方であり、肉体以上の存在の私達は、この生き方を続けることで息苦しさや生き辛さに出くわすのは当然のことです。

肉体に縛られるとは、見た目である「男らしさ」「女らしさ」「子供らしさ」「大人らしさ」「社会人らしさ」というカテゴライズされたものに、自分を沿わせるやり方です。これには「こうあるべき」という前提の大きな殻があり、その中に無理やり自分をはめ込むことです。「男らしさ」の殻に入るために、行きたくない風俗にいくことになったり、「女らしさ」の殻に入るために、やりたくもないメイクをすることになったり、「子供らしさ」の殻に入るために、見たくもない子供向けショーを見ることになったり、「大人らしさ」の殻に入るために、子供の頃に大事にしてきたお気に入りのぬいぐるみを捨てることになったり、私達はそういった「殻」にわざわざ入らざるを得ないという行為を繰り返してきました。あたかもその「殻」が自分の本質であるかのように、そうでいけないかのような生き方を選ばされてきたのかもしれません。しかし、当たり前ですがその「殻」が人間の本質ではないのです。この「殻」が自分の本質であるかのように生きる思想が「物質主義」「肉体主義」なのです。

過去の記事にも書いていますが、私達の本質はエネルギー体であり、この世界での生命の発祥は「創造の火」です。この創造の火は、私達の狭い重い肉体に納まりきれるものではなく、物質や肉体主義が度を過ぎるとこの火の力は体の内側に無理やり抑え込まれてしまいます。それがずっと続くと、この創造の火は本来の力を取り戻すべく、反動を起こし暴走します。つまり抑圧が強ければ強いほど、怒りや攻撃性といった自分では制御できないエネルギーとして、暴れた状態で表面化することになるのです。

本来の創造の火は、このような攻撃性や暴力性を伴っているものではありません。日頃から自分の創造の火を使えている人は、このような暴走状態に陥ることは無いのです。もっと言えば、創造の火を使えているということは、物質主義や肉体主義に偏った生き方から外れることができ、創造の火を使うことで人間として偏った生き方から脱出できるとも言えるのです。

物質や肉体を過度に重視すると、人間としての存在の在り方が重くなります。人間の肉体というのは、本来重いのです。なぜなら空を飛ぶことも出来なければ、大きくなったり小さくなったり形を変えることも出来ません。時空間を越えてテレポートも出来ません。しっかりとした形ある枠組みを作り、ある特定の場に存在を固定する。これが人間の肉体の作用です。この肉体のおかげで人間は「個」として存在が可能となるのですが、長いことこの世界では肉体を重視する生活が続くことで、どんどん人間は「物質」として重くなっていきました。肉体が重くなると内側にある「火」は抑え込まれ、また内側にある感情もどんどん重くなり、重い感情しか感じられなくなっていきます。重い感情とは「怒り」や「嫉妬」等、自分と他者を「殻」に閉じ込める信念の元に生じる感情です。この感情は他者をこき下ろす方向に向かいます。なぜなら自分が重い分、この重さを誰かと共有せざるを得なくなるからです。自分ひとりでは抱え込むのが重くてしんどいので、重い感情の共有者を無意識で求めるのです。一部で見られる、ネットやSNSでの重い感情や攻撃性の強いやり取りがなされているのはわかりやすい例です。

自分の内側に強い「怒り」や「攻撃性」を伴った感情がある場合、大抵は肉体に強い痛みを感じます。そして同時に重苦しさも感じるでしょう。これは肉体は感情の器だからです。流れとしては、【過度な肉体主義に偏る→人間としての存在が重くなる→感情もそれに伴い重くなる→肉体にその感情が張り付く→感じる感情が重くなる→重くなるから「感じない」ことを選ぶ→そのことでまたどんどん重くなる→ある時自分の感情が爆発を起こす】といった感じにループしていきます。重くなった肉体から、どうにか自分を解放しようともがくが、中々そのループから抜け出すことができなく、グルグルと堂々巡りするのです。怒りや攻撃性を抱えている人は、こういった自分が物質主義や肉体主義という「殻」に閉じ込められて生きていることへの怒りが根底にあります。ネットやSNSで沢山の人の負の感情が爆発しやすいのは、肉体を超えた感情のコミュニケーションが可能で、自分の肉体や殻を無視して吐き出しやすい場だからだと考えます。自分のつぶやいたことは肉体を越えて、海や山を超えて遠くの国にも伝わるのですから。

自分の怒りや攻撃性に自覚がある人は、自分をこういった物質主義から派生した「殻」に閉じ込められているが故に怒りが発生している、ということを理解すると良いです。「男だから~しなければならない」「女だから~しなければならない」「社会人だから~しなければならない」「親だから~しなければならない」「○○歳だから~しなければならない」、あなたはこういった殻から逃げたくてうんざりしているのかもしれません。でもなかなかその殻から出ることが出来ず、またどうやってその殻から打破すればいいのか分からず、悶々としたエネルギーだけが内側で鬱積してやり場を失っているのです。ならばその「殻」から出る以外に方法はありません。

「殻」から抜け出すには、その「殻」の象徴である「信念」を手放すことが必要です「~しなければならない」という呪縛を一つずつ外していくことです。本当はあなたが「~しなければならない」と思っているだけで、それをしなくてもいい方法はたくさん転がっているかもしれません。「~しなければならない」という信念を採用しているのはあなた自身であることを知っておいて下さい。もしかしたら自分の意志ではなく、誰かからの影響だったり持たされた信念の可能性もあります。ならばあなたがその信念を実行する必要はまったく無いのではないでしょうか。「親がこういっていうからやってきた」「社会がこう言っているから仕方なくやっている」と思っていることも、それを採用しているのは自分自身です。親がどう言ってこようと社会がどう言ってこようと、好きに生きている人は存在します。それはその人が「親や社会はこう言っているけど、自分は気がすすまないのでその生き方は採用しない」という信念で生きているからです。他人がなんと言おうと、自分はこうだと思いその生き方を表現するのが自分軸の生き方です。

他者や社会に向ける「怒り」や「攻撃性」は、同じく自分にも向かっているということを知っておいて下さい。「自分のやったことが受け取ること」というのはこの世界の原理です。言い換えれば、他者に感じる怒りは自分に感じる怒りでもあります。他者が「殻」に染まりきれないように、自分も「殻」に染まりきれない故の怒りです。しかし「殻」なんていうものは初めから無かったと気がつくと、その怒りは無効化されます。なぜなら私達は「殻」に納まりきれない以上の大きな存在だからです。地球に生きる以上はある程度の便宜としての「殻」は必要ですが、今まではその比重が重すぎたのです。これからの新しい世界を生きるために、そのバランスを調整する上でも、「殻」の脱皮方法に慣れていくことが大事だと思います。

「~しなければならない」という「殻」を選択しない、採用しない、と意図することで、その枠組から少しずつ離れていきます。そして自分軸への意向が働きます。外側に左右されやすい、中々自分の意志を突き通せない人は、「自分の内側の火」を取り戻すことも同時にしていきましょう。「怒り」や「攻撃性」は自分の内側の火が暴走している証拠ですので、それをもとに戻して本来の使い方をしてあげるといいです。「自分の内側の火」を取り戻す方法は過去に書いています。

よくこの世界はゲーム例えられます。参加するゲームがつまらなければ、その参加を止めたらいいだけです。そして自分が楽しいと思えるゲームに、新たに参加すればいいのです。スマホゲームも参加者がいなければサービスが終了するように、その「殻ゲーム」に参加する人が減ることで、その「殻ゲーム」も段々と廃れていきます。このように誰もが自分の生きる世界は選ぶことができるし、それが本来の「自分の人生を生きる」ということなのです。


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