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『人生の建築家 - いま求められる教育- 』

~某授業内レポート感想~

講義を聴講する前の私たち20代がそうであったように、「政治的正しさ」を画一的な「最適解」であると、疑いなく信じている人が大多数です。

そしてそれは、歴史、文化の断絶と、成熟しすぎた社会構造に起因します。

外山滋比古は著書「思考の整理学」の中で、選択肢が一つしかないという、シンプルでわかりやすい反面、逃げ道がどこにもなく視野狭窄に陥りやすい状態を「見つめるナベは煮えない」「ひとつでは多すぎる」と言い、鋭く指摘しました。

これは、学問をする上でのアイデアのつくり方について言ったものですが、現代の「見方」にも適用できると思います。

「政治的正しさ」などという、いつの時代から、どの立場から言っているのかもわからない不確かな足場を是とするのは、不安定この上ない。
それは、メディアによる間違った常識の刷り込みと、本質的な「正しさ」を教わるところがないという不遇に依ります。

したがって、従来の記号が自然にほどけた教育という領域のチャンスにあって、学生だけでなく、小さい頃から、そういう、本質的な道徳を教える、松下村塾のような私塾が必要なのかもしれません。
ここで、教育者は考えの押し付けではなく、自らの思考体力を育む姿勢が必要です。

またこれらの事象は、現代の自殺志願者の増加という、センシティブな事象にもおそらく適用されます。

彼らの、そういう希死念慮の原因のひとつとして、(社会的、経済的な事情もあるでしょうが)単純に解法を「知らない」ということも言えるのではないでしょうか。

現代にそぐわない「正しい生き方」を、親や祖父母の世界から教えられ、それぞれが違うことを言っている。
時代の変化が早すぎて、たった3世代でも、正しさがそれぞれ違う。
そして、その通りに実行しようとすれば、時代の齟齬による、信じられないほどの軋轢に見舞われるが、

当人もそれがただ一つの「正しさ」と信じ、それに自分が合わなければ、人生からドロップアウトしてしまう。
大変不毛である。

記号が完全に破綻し、そのハシから人が落ちていく。
誰かがハシを「設計する術」を共有しないといけない。

誰もが本当の「正しさ」なんて分からないんだ、という時代である、
そして、正しさなど時代によって簡単に変わる、ということを、

歴史や思想を学び、多角的な考え方を学ぶうえで
「政治的な正しさ」が、単なる引き出しのひとつに過ぎないんだ、ということを
小さい頃からインプットさせる教育が求められていると考えます。

今後しばらくは世に正解などありません。
いま足りないのは、自らの内側にある、考え方というArchitectureの設計力です。
自らにとっての「正しさ」を見つけ、育む能力が必要です。

長くなりましたが、総括すれば、
個人が精神、そして思想のArchitectureを設計できる、その術を共有する、人生の建築家になりたい、と考えるに至りました。

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