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白旗にくるまって眠る

 午後八時半、ノートの罫線に恨みを覚える。それが思考を断裂するためにあるように思え、それこそ踏切の遮断機のように見えた。使い慣れた0.38ミリが悪いわけではないはずで、それなのに珈琲は冷める前に飲み終えてしまう。
 落ち着こう。私の脳みそが賞味期限切れってわけじゃない。でも、「つまらない」という言葉だけが、さっき教わったばかりの言葉のように鮮明に、枷のように威圧的に。まるで物理的にここに存在しているかのように、手首の上にのしかかっている。

 これを書くのにあと何日かかる? 期日の迫る新人賞へのプロットはいつあがる? 今日の夕飯は? いま何時? 週末まではあと何日? 手持ちの現金はあといくらで、次の給料日までは……。

「結局なにがしたいの?」
 そんな他人の問いにはうんざりする。毎分毎秒、自分からの同じ問いに耳を塞いでいる。愚門だとたしなめたい気持ちを抑えつつ、回答としてでもなく、台詞としてでもない、そんな言葉を、タイプし続ける(もしくはノートに、変なぐにゃぐにゃを書きつつ、溜息をつき)。

 だって、書きたいに決まってる。言われた通り馬鹿正直になって、何度考えなおしたところでそれは変わらない。そもそも書きたくなければ、こんなこと考えていないはずで、もう書けなくなったのでは? などと不安になる必要はない。
 もし私が、本心では、もう一字も書きたくないのなら、書くことに囚われているような、そんな一文字も書けない時間から逃げまどうような気持ちに(空想の中のトンネルを走って逃げつつ)、陥る必要もない。

 書くことから離れて約半年。生活はまるっきり変わってしまった。それは悪いことじゃない。全然悪いことじゃないし、良い事すらある。人生いろいろ。もしも本当の意味で俯瞰することができたなら、単にそれだけのことなのかもしれない。ほんと人生いろいろ。

 でも、書きたいことがある。
 中断しているものから新しいもの、ひらめきから井戸の奥そこから引き揚げてきたもの。人生があと何回あっても足りない。書き足りない。ほんとうに、足りない。
 運よく書き続けることができても、ついに最後まで納得できないかもしれない。それだけのものがある。それだけのものを抱えながらも、なんとか正気を保っていられる。多分。破綻せず、破壊せず、自害せず。なんとか生き延びていける。書きたい事すら、手元にあれば。

 そのことを信じて、自分を信じて約半年間、別のことに集中した。価値ある時間だった。それはもちろん。でも書くという作業を前にして、私は半年前とまるっきり変わってしまった。これをスランプと呼ぶのか、よく分からない。ただ自分が、それに似たような状態であることに気付きはじめてからも認めたくなかった。認めてしまったら自分の中でなにかが暴れたり騒いだりして、余計騒ぎが大きくなりそうな気がした。でも人生いろいろで、結局はなにがしたい? そんな聞き飽きた問いを目の前にして、ああ、そうか。と。突然、すとんと。納得できたりするから楽しい。

 変に落ち着いている。休日の朝、目を覚ましたときのように、今日はまだたっぷりあって、手付かずで、なにをしてもいい。そんな穏やかな気持ち。

 私は押入れから、白旗を引っ張り出して、足元ばかり見て考えこんでいるだけじゃだめだと気づきはじめている。
 綺麗に畳む習慣がないから皺くちゃで、でも、よく古い記憶にこびりつくことの多いあの匂いがする。広げてみると、そこには綺麗に日光のみずたまりが浮かぶ。そこに浮き輪があるといい。温泉のアヒルも浮かんでいるといい。撫でた水面にそれらが浮かぶと、小さな波紋が日光と混ざりあって、不安定な形の影をつくる。こういうことがまだできる。自分にはまだこれができて、でもそれが上手く、物語に馴染んでいかないだけだ。
 だからいまのこれは全部自分のもの。自分に与えている物語なのだ。

 寝具は白が良い。
 空間が、部屋が広く澄んで見える。思考が、物語が遠くまで見渡せる。窓から光を目いっぱい部屋に入れ、肌にその温もりを溜めこむ。それから済々するほど薄っぺらい白旗にくるまり、目を閉じて。眠ろう。

 眠ろう、と心に決めたその瞬間、私はまた新な決意の裾をやんわりとつかんでいる。


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