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人違い、しかし嬉々

平日の昼時。テレワークや休日の増加もあり、自宅近くでお昼を済ますことが多くなった。「今日は何を食べようか。」軽い気持ちで始めたご近所ランチ調査だったが、予想外の充実ぶりに習慣と化し、今となっては、どこのお店が何曜日に日替わりで唐揚げ定食を出すか、といったランチ情報が身体に染み込んでいる。

さて、水曜日。「今日はあそこが、麻婆豆腐だったな。」脳内リストを参照し、いそいそいと外へ出る。今日は、たまに行くようになった、居酒屋のような、スナックのような、昭和の香りが色濃く残った、小汚いお店へ向かう。ぼくは、小汚いお店が大好きだ。

配膳を担当するおばあちゃん。料理を担当するおじいちゃん。おそらくご夫婦で何十年も変わらずここで営業をされてきたのであろう。店の壁に、机に、お二人の顔に、その歴史が深く刻まれている。ドアを開くと、おばあちゃんのやさしい声が聞こえる。

「いらっしゃいませ。寒いのにありがとう。」なんて事のないセリフかもしれないが、ぼくはこういった、ちょっとした、些細な、時には不要な、やさしい人ならではの気の遣い方が好きだ。本当に寒い日だったから、本当に心に染みた。

完璧な入店だった。けれど、すこし流れが変わった。


「いつもの席空いてるよー!」おばあちゃんは元気よくぼくに言った。いつもの席?8席ほどの狭い店内を見渡すと、7席が空いている。どこだろう?いつもって言われるほど来てもないし、座る席も毎回違ったはずだ。立ち止まっているわけにもいかないので、なんとなくぶつぶつ言いながら(ここがテレビ見やすいな)一番奥の広い席に腰を下ろした。おばあちゃんが黙ってお茶を持ってきた。どうやら正解だったらしい。でも、誰かと間違えてる?

「大盛りいっちょおー!」おばあちゃんはぼくと喋ることなく、さらに元気な声でおじいちゃんに注文した。あれ、いつもはご飯の量を聞いてくれるのに、どうしたんだろう。しかも、いつもぼくは普通でお願いしているよ。まあ普段なら大盛りでもいいのだけど、今日は10時頃にシリアル食べたからそんなにお腹空いてないんだよな。あれ、やっぱり誰かと間違えてる?

おばあちゃんがスポニチを黙ってぼくの席に持ってきた。良かったら読む?でもなく、黙って、いつものように、ポンっと。おばあちゃん、ぼくはスポニチ読んだりしないよ。割と新聞は読む方だけど、スポニチだけは読まないよ。プロ野球に全く興味がないんだよ。これでようやく分かった。おばあちゃんは、ぼくを誰かと間違えている。

麻婆豆腐定食が運ばれてきた。興味のないスポニチを読みながら、量の多いご飯をかきこんだ。実際、読んでみるとスポニチは、なかなか読み応えもあるし、(お色気のページがいまだにある(!))大盛りは、麻婆豆腐と混ぜればなんら問題はなかった。おばあちゃん、おじいちゃん、ありがとう。

「ごちそうさまでした。」600円を100円玉で払う。おばあちゃんの小さい掌に6枚乗せると、おばあちゃんは全く数えることなくそのまま豪快にレジへ放り込んだ。「数えてくださいね。笑」「いいのいいの、だいたい600円!」微笑みながらおばあちゃんは言った。

いいなあこの感じ。入店したら、いつもの席に案内され、黙って定食は大盛りになり、ランチを待つ間は、スポニチが出される。間違いなく人違いだっただろう。常連のサラリーマンと間違えたのだろう。だとしてもぼくは、平日の昼にあまり感じた事ない種類の嬉しさを噛み締めながら、店を後にした。

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