見出し画像

舞台『インヘリタンス-継承-』を観た


先月、東京芸術劇場プレイハウスで『インヘリタンス-継承-』を観劇してきた。


前後篇合わせて6時間超えの大作。
私は前後篇をそれぞれ別日に観劇したが、一日に通す日もあり、役者、スタッフ、観客、劇場にいる全員が真剣に演劇に向き合わなければ成立しない作品だとおもう。まだ九州公演が残っているが、記憶が薄れないうちに感想(ほぼ散文)を残しておく。

内容にもがっつり触れるつもりなのでネタバレを踏みたくない方は注意してほしい。また、前後篇を一度観ただけであるため、記憶違いだったり間違ったりしているところもあるかと思うが、どうかご容赦いただきたい。


ちなみに、北九州芸術劇場での公演チケットはこちらから。ユース、ティーンズのチケットもあるようなので、気になる方は是非。


〈あらすじ〉


舞台は2015年のニューヨークから始まる。
エリック(福士誠治)とトビー(田中俊介)は高級住宅に暮らすゲイのカップル。ゲイ・コミュニティに属する友人たちとの交流を軸に物語は進んでいく。若く美しい青年アダム(新原泰佑)の出現、初老の不動産王ヘンリー(山路和弘)とそのパートナーであるウォルター(篠井英介)との関わりを通して、エリックとトビーの人生は大きく変わっていく…


※以下、ネタバレを含みます。


〈戯曲・演出に関して〉


-前篇-

エリックとトビーのカップルの歪さ

エリックとトビーの雰囲気・関係性には、初めのうちからどこか違和感があった。タイプの違う二人、ということもそうだし、お互いが恋愛に求めているものが一致していないように思えた。エリックはトビーに熱情を求め、トビーはエリックに安心を求める。もちろんそこに差異があっても恋愛は上手くいくだろうが、二人の前提には「家」があったが故に、その「家」が失われることで関係性は一気にバランスを崩す。安心できる「家」を失うことで、トビーとの関係性が変わってしまうかもしれない…。エリックはそんな予感がしていたから、立ち退きが決まった夜にトビーに話を切り出せなかったのではないだろうか。


愛、の描き方

本作は愛、特に性愛に関してすごくオープンに描いている。表現はとても具体的かつ情熱的だ。愛がテーマの一つなのだから当たり前のことではある。ただ、私は普段、性愛を過剰に演出しがちな演劇には違和感を覚えることが多く、やや忌避しているのだが、今回は嫌らしさのないストレートな描写であったためかすんなりと受け止めることができた。これは、性愛をタブーとしないこと、目をそらさないことが重要だというメッセージにも取れる。ヘンリーがエイズで愛する人を失うことを恐れ、自分の感情、そして、ウォルターやエリックへの愛に蓋をしたように、タブー視して目を逸らすことは誤解を生む可能性がある。ただ真っ直ぐ、彼らにとっての「愛」の形を描くことで同じ過ちが繰り返されないように祈りを込めたのかもしれない。


ウォルターによって語られる、
「田舎の家」とエイズの流行について


エイズ流行初期、ゲイ男性がゲイであることを隠さずに生きること、また、本能に従い恋愛をすることがどれほど困難であったかを知る。クィアに対する差別や偏見という意識の問題だけでは無い、彼らの恋愛には常に死の恐怖が伴っていた。
その時代の中で、友愛を大切にし続けたウォルターも、ゲイとしての生き方を拒絶したヘンリーの判断も、どちらが正しいと言い切ることはできない。ヘンリーは愛を拒絶したからこそ、富と名声を手に入れたのだろうと思うし。ただ、ヘンリーが最後まで(もしかしたら最後に少し変化していたかも)「田舎の家」に対して理解を示さなかったこと、ヘンリーの息子たちに理解する気がなかったことにも疑問は残る。

2015年のゲイコミュニティは、ゲイバーの衰退を悲しむことができるほどに、ゲイの存在が社会に受け入れられている。彼らは、ゲイの文化がゲイコミュニティを通して継承されていかないことに疑問を呈す。ゲイコミュニティでの継承の場が無くなりつつある中、エイズについての継承はどうなる?
この答えは後篇にある。ウォルター(マーガレット)からエリック、そしてヘンリーへ。語り継ぐことで忘れずにいる、それが答えなのかもしれない。

-後篇-

ヘンリーが共和党支持者であること

エリックが旧知の友人たちにヘンリーを紹介した日、ひょんなことから会話は政治の話になる。ヘンリーが共和党の支持者であると分かった途端、友人たちは彼に強い拒絶を示す。日本社会においては、支持政党の違いだけで、ここまではっきりと拒否感を示すことはまずないので感覚の違いに驚く。この分断を生む根幹には、人種の坩堝(サラダボウル)であるアメリカならではの問題があるのだろう。また、日本で上演するにあたっては役者に人種や訛り、出身地域などの差異がないため、登場人物のルーツの違い、直面してきたであろう偏見や差別といった背景が分かりにくかった。移民国家とは縁遠い日本という国で、こうした物語をそのまま上演することの難しさを感じた。だからどうすればよかったという解決策を思いつくわけではないが。

演劇で政治を語るということについても考えざるを得なかった。表現や言論の自由が存分に発揮されている作品だからだ。奇しくもアメリカ大統領選を控えた今年、日本で上演されたのも何かの因果かもしれない。

ヘンリーを見ていると、自身がゲイ男性=マイノリティ(社会的に弱い立場にある?)という意識が欠落しているのかもしれないと感じた。自分の暮らしに満足しているのであれば、豊かなアメリカ、強いアメリカを達成しようとするトランプの主張に共感を覚えるのは納得できる。であるとするならば、理想としてはゲイ男性も民主党支持に偏らなくなってからが本当の平等な社会なのかもしれないと思った。また、ジャスパーがヘンリーに求めた行動は、ノブレス・オブリージュ的な思想に基づいているのだろうか。ジャスパーには金を配り歩くような真似はできない。資産のある白人男性であるヘンリーに動いてほしい、希望の押し付けのようにも感じてしまった。


レオとエリックの関係

アダムがレオをエリックの家に連れてくるシーン、レオの「ごめんなさい」という叫びに胸を締め付けられた。身体はもうボロボロなのに、行く当てもなく、世話をしてくれる人もいない。最後に頼ったのは客ではなく、ただ二度きり会っただけのエリックであったこと。それは何故か?トビーがエリックに向けた信頼を、同じ男を愛した者同士として感じ取っていたのだろう。


トビーとエリックが話すシーン

他の役者が縦一列に並び、トビーとエリックの間に物理的な壁がつくられる。彼らはその壁を越えて交わることは無い。二人の人生にやり直しが効かないことが示されているように感じた(ここ、エリックとアダムのシーンかも。記憶があやふやです)。


愛とは何か

本作の大きなテーマである、「愛」。エリックの愛と、ヘンリーの愛は異なっていた。トビーはエリックの愛を失ってから、後悔と共に彼の愛の大きさ、本当の幸せに気が付いた。ウォルターのパートナー・家族・友人、全てを包み込むような大きな愛。それぞれ形は違えど、どれも相手を大切に思う気持ちには変わりない。自分自身の愛を見つめ続けながら生きること、その大切さを教えられた。

〈役者や舞台セットに関して〉


役者について

印象的だった役者は、まず、アダム/レオの二役を演じた新原泰佑さんを挙げたい。弱冠23歳にして、ベテランの俳優たちに引けを取らない堂々たる演技。アダム/レオという、境遇も性格も全く異なる二人の人間を非常に良く演じていた。特に印象に残っているのが、後編で「最愛の人」のブロードウェイ稽古シーンに入った時のことだ。ついさっきまでレオであった人が、カーテンの裏に隠れ、次に隙間から顔を覗かせた瞬間には、才能に溢れる美しい俳優、アダムになっていた。彼の演じ分けには鳥肌が立った。

また、ウォルター役の篠井英介さんも良かった。彼はストーリーテラーの役割も担っていた。ウォルターには、遺した人々の行く先を導き照らす存在として幾度も心を救われた。篠井さんが登場するだけで、場の空気がふっと柔らかいものになる。言葉を発していなくても存在感があった…。

前後篇合わせて6時間半の大ボリュームに相応しく、台詞量は半端じゃない。その上、前衛的なのだろうか、動きも意表を突かれるようなものばかりで、これを演じている役者の皆さんは本当に凄いと思った。

ポスター撮影時と皆さん結構ビジュアルが変わっているので、受ける印象もかなり違ってきて面白い。俳優さんってすごいなあ……(小並感)。

舞台セットについて

舞台上は、四角い空間が生まれるような形で白い紐に囲われている。奥には、舞台上の舞台とでもいうべきスペースが存在する。側面と背面を白い壁で囲み、ツラ側から腰掛けられる高さの床がある。このハコは、前にカーテンを引けるようになっており、舞台上の空間を区切る役割も持っていた。

下手側には一脚の椅子が置かれている。ここにはウォルターが座ることが多い。椅子の後ろにある机?には本が大量に積み重ねられ、その上に電球が吊るしてある。18日のアフタートークでたしか山路さんが触れていたが、この舞台には「隠れる場所」が無い。セットというほどの舞台セットがないため、役者はほぼずっと観客の視線の中にある。舞台に立ち続ける間、その一挙一動を見られているのはどんなプレッシャーなんだろう…と想像してしまう。

また、役者が舞台の役割を果たしているとも感じた。前篇、アダムの回想シーンにて積み重なる男たちの姿や、後篇終盤、全員が靴を脱ぎ横になる場面など。人間の身体が放つオーラなのだろうか、恐ろしさや鋭さを強く感じた。ほぼ何もない舞台であるが故に活きた演出であろう。

映像、照明について

本作は映像を用いた演出が多いが、照明と映像のハマり具合が良かった。先に触れた舞台上のハコの空間を用いて、窓の外の風景をよく投影していた印象だ。

「最愛の人」のブロードウェイ公演のシーンで、レオを演じる役者自身は客席にいる。しかし、映像の中のアダムも、たしかにそこで強く美しく生きている。映像の荘厳さが相まって、二役の演出がうまく効いていると感じた。大きなスクリーンに負けない役者さんの美しさもすごい。

また、トビーが最後の脚本を書き上げた後、用紙をぶちまけるところに当たるスポットライトが印象的だった。トビーが死ぬとき、エリックからトビーへの呼びかけがスクリーンいっぱいに映るのもよかった。ただ事故シーンの効果音演出はもう少し派手にあってもよかったのではないか…と思ったり。

〈ポスト・パフォーマンス・トークを聞いて〉

2月12日13:00公演 作家マシューロペス氏のポスト・パフォーマンス・トーク

マシューロペス氏の話で印象的だった言葉をここに記しておく。

「物語から自分たちを見出してほしい」「お互いの物語の中にお互いの真実を見つけること」「ストレートのコミュニティとクィアのコミュニティが繋がる」「性的なものが恐怖、後悔と結びつかなくなったことは素晴らしい」

ポスト・パフォーマンス・トークにて

本編とポスト・パフォーマンス・トークを通して、エイズ流行初期においてはゲイ男性の恋愛が死と隣り合わせだったことに気付かされた。恋愛が死の恐怖と近接していたという事実はとても悲しいことだ。また、劇中でアダムやトリスタンがHIV予防として用いていたPEP/PrEPは、まだ日本で薬事承認されていなかったことを知る。これは、日本社会がクィアの理解に未だ不寛容であることを明らかにしている。マイノリティを異質なものとして排除し、無知・無理解を維持し続けるつもりなのか?本作を通して、ストレートとクィアの間の線引きが揺らぎ、混ざり合い、お互いを知り合うことへのハードルが下がると良いなと思った。

おわりに

思ったことをつらつら書いていたら、5000字近くになってしまった。とりとめのない文章ではありますが、書きながら色々思い出したり考え直したりできてよかった。正直な話、一度ずつの観劇では物語を咀嚼しきれなかった部分が大きいです。戯曲を読んでから改めて観てみたいな〜。余韻を噛み締めたいので、いっそのこと、『モーリス』と『ハワーズ・エンド』を読むところから始めよう。なんてね。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?