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アンドロイドとは何か SFで考察

 アンドロイドは人間のパートナーか奴隷か。映画や小説で描かれる姿は両方ともある。
 AIブームの今、人間を模写しようとする技術はますます進化し身近な存在になりつつある。
 だがアンドロイドは、古典的なテーマであるのにも関わらず、まだ身近ではない。
 この記事ではそんなアンドロイドについてお話と考察をSFの世界を交えて話していきたいと思う。

 アンドロイドという言葉の定義の仕方は様々だが、ここでは「人間の姿と感情を模写した人工的なロボット」と定義しておく。

SFのアンドロイド達 RUR

 アンドロイドのイメージを掴むために、まず初めにSFのアンドロイドを紹介する。
 アンドロイド=人造人間は古典的な概念で、ギリシャ神話時代から存在する。最も、一番現代的なロボットの概念で描かれているのはカレル=チャペックの劇曲「R.U.R」だろう。1920年の作品だが、アンドロイドを作る「大企業」の存在や主人への反乱はまさに未来を見ているかもしれない。

RUR、ロッサムの万能ロボット

この作品はどちらかというとアンドロイドではなく、人間の充実な僕としての「ロボット」の概念が生んだ。ロシア語で労働を意味する「ラボタ」から彼は「ロボット」という造語を作り、人間に従順であったはずのロボットが反乱を起こし、人類を滅ぼす様を描いている。 一番最初に描かれたロボットは人類を滅ぼすロボットだった。チャペックは人造人間、つまり人間が人間を作るという行為が、クローンを作るような神への冒涜として捉えていたのかもしれない。


ブレードランナー(1982)

次に紹介するのはSFファンお馴染みの映画「ブレードランナー」とその原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」だ。
2019年、核戦争後の社会では火星への植民地化が行われ、人間に似たアンドロイドがパートナーとなってそれをサポートしていた。一方アンドロイドが主人から逃げ出してしまうこともあり、地球に逃げてきた凶悪のアンドロイドを“処理”する賞金稼ぎ(映画では「ブレードランナー」と呼ばれる人間)の話である。人間とは何か、フィリップKディックの独特な世界観でそういった問題が問われる。
 この作品で描かれるアンドロイドは実に人間的だ。歯車で動くというよりかは有機的なアンドロイドであり、特殊な知能テストでしかアンドロイドと人間を区別することしかできない。人間が完全にコントロールしているとは言い難く、主人に対して牙を向けたり、嘘をついたりもする。人間同様な感情を持ち、主人公は処理していく中で人間とアンドロイドの違いがわからなくなってくる。
チャペックは無機的な精神をもつロボットをイメージしていたが、ディックの作品では人間とほぼ大差のない人工的に作り出した奴隷だが、人間とは異なった存在としてイメージしている。

アンドロイドに商業的な価値は低い


 アンドロイドを作ることは非常に高価である。現代でも石黒浩のようなアンドロイドの研究を専門としている科学者はいるが、人間のように歩き、話すアンドロイドを作ることは技術的にもコスト的にも難しい。ましてアンドロイドを作業員として世の中に売り出すことはコスパ的に合わない。それならその業務専用のロボットを作ればいいし、汎用性を求めるなら肌のない骨組みだけのヒューマノイドを頑張って作ればいい。アンドロイドは、SF界隈でお馴染みの「魔法のポリマー」が発明されて実用化されない限り、非常に繊細で高価な精密機械として扱われることになるだろう。
 では商業的な意味を持たない“おもちゃ“としてのアンドロイドとはどのようなものであるべきか。“おもちゃ”として表現したのは、労働する以外のアンドロイドは娯楽目的であるからだ。人間の姿をした人形を、自分の思い通りになるおままごとのような“支配的立場を楽しむ娯楽”で使うこと以外に何があるのだろうか? 高価だが、自分の思い通りにできるアンドロイドは嗜好品として市場に出るのではないか。
 “完全なアンドロイド“の肌を人間の肌に近づけるためにシリコンで再現するのはもちろん、動きや話し方も人間らしくあるべきである。技術的には難しいが、不可能ではない。ハードウェアは作れたとしてソフトウェアはどうするべきか?

アンドロイドの感情

 極限まで人間らしく見せるために、アンドロイドには人間のような感情を作らなければならない。なぜか? その答えは単純である。人間の個々の動作には感情が入っているからである。それは「表情」を表すときにも感情が入るし、(果たして感情のない表情を表情と言えるのだろうか)歩き方や仕草、落ち着くためにコーヒーを飲むという動作にも感情は関係している。感情が現れないアンドロイド、それこそ「不気味の谷」現象に陥ったものではないか。感情を表現できないアンドロイドに人は拒絶反応を起こすだけだろう。
 つまり、アンドロイドには高度な感情をシミュレートするプログラムがなければいけない。感情をシミュレートするだけであって、自己を持っているわけではない。
 ここで一つ疑問が出るのは「どこまでリアルな感情を求めるか」だ。もちろん誰も高い金を払って人形がボットのように意味もなく「あなたと会えてとても嬉しいです」「あなたの話はとても興味深いです」と機械的に答えてくれるものは求めていない。しかし、だからと言ってアンドロイドに人間が感じるような怒りや憎しみといった感情を表現して欲しいのか。
 どこまで憎しみや怒りという感情を表現するか。最悪な表現は「殺人」である。SFの話であるような、主人にいじめられていたアンドロイドが主人を殺す、または弱者を助けるために主人を殺害するといったプロットも、極限まで人間に近づけるために感情をそこまでシミュレートできるようにする程なら現実味が出てくるかもしれない。
 それに人間の感情は非常に複雑である。その“複雑さ“を表現するためにも、憎しみや怒りといった感情をシミュレートする必要性もあるかもしれない。

【まとめ】アンドロイドはただの人形である

 現実的な話、アンドロイドは金持ちのおもちゃの人形になるだけではないか。人間を精神的または肉体的にサポートするなら精密機械であるアンドロイドではなく可愛いアザラシロボットや、パワードスーツを使うことの方が現実的である。
 もし仮に、そう遠くない将来アンドロイドが社会で人間のパートナーとして登場した時、私たちは支配者になることを望むのだろうか。アンドロイドだけではなく、人の価値観も大きく変わるだろう。

最後まで読んでいただきありがとうございます。お話がお気に召したら是非ともご意見・ご感想をお残しください。


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