過去の自己否定を分析した結果、全て妄想でした。

授業で海外版の人狼をすることになったが、人狼を知らない俺はネイティブスピーカーの流暢な英語の説明を全く理解出来ずゲームが始まった。俺の人生を暗示するかのように俺の手札は狼だった。何をどうすればいいのか分からず、そんな自分がどう見られてるのかばかり気になり恥ずかしくて死にたかった。徐々にルールはわかってきたが最後までルールが分からない故に困惑しているフリをしていた。なぜならゲームに熱中し楽しむ素振りをするのが恥ずかしいからだ。そんな24歳がいていいのか。何もかも斜視に構えて本気で取り組まず、冷めたフリしてる。自分を変えるために色々試しても根本にあるこの過剰な自意識と膨張し続ける自己愛とクソダサい客観視からは逃れられない。それは影のように生涯付きまとう。もっとマシな人間になりたい。

過去の自分より

過去の自分がどこかで覚えた借り物の言葉を駆使して、自分を否定することに必死だ。今すぐやめろ。斜視に構えることも、冷めたふりすることも、過剰な自意識がある事も、自己愛が強いことも、全て主観的な自己診断で、素人の妄想だ。

もっと踏み込めば、自分はこういう面倒な気質だからこれ以上変われないと思いこみたいだけとも言える。そりゃ普段付き合わない種類の人たちと交流する中で自分の社交性や対話能力について溜息をつきたくなることはあるだろう。だが、そもそもそういった気付きや刺激を得るためにわざわざ借金をしてまで自分から飛び込んだんだろう。だとしたら、上記のようなことが起こったのは大成功だ。それでいいんだ。

もう挑戦したくない、なぜなら恥ずかしいから。自分はそもそもああいう場にいていいような人間じゃない。浮いてる。向き不向きがある。黙れ。勝手に自分を定義するな。どんな場所であれ状況であれ存在するのに資格など要らない。どれだけ恥辱に塗れようとも、自己嫌悪に走ろうとも、自己閉塞に陥ろうとも、最期には自分を肯定しなければならない。自己否定していい、その後に自己否定を否定しよう。冷静に眺めればただの妄想だから。

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