女子と語学力(4)〜発音は 何がなんでも カタカナで! 英語っぽいと 恥ずかし過ぎる〜
私はあの英語らしきものとされる、何か別のものだった授業で、「クラスみんなで」声をあわせて、英語の教科書の文章を一文ずつ、声を出して読み上げる時間帯が、とにかくとても嫌いだった。教室の中で、生徒たちが大きな声で発声をする間、机と机の間のちょうど先生が一人だけ歩けるぐらいの細い通路を、教科書を広げて片手に持ち、練り歩く先生たちが、男尊女卑が色濃い地方都市では稀有な雇用を得た英語教師として「働くやりがい」を感じながら「一生食いっぱぐれない、国が認めた資格(教員免許)を生かし、輝ける仕事をしている自分」に酔いしれている(当時は流石にそこまで考えてはおらず、ただただ授業に疑問を感じていた)。
地元の学校での英語の授業においては、誰もが強固な意志でカタカナ発音を貫いていた。自分もそうだった。私は東京都内の屈指の名門校とされる女子大の英文科(!)を卒業していた母親の見栄の産物による幼少期からの「英才教育(笑)」を受けていたため、「ラボ」という英語教材を聞いて育ったのだが、父親の勧めにより、NHKのラジオ講座も小学校一年生から一生懸命聞いていたので(理由としては聞いていると「父が喜んだから」だった)、発音はそこそこ英語っぽく読めたのだが、授業中に当てられた時には強固な意志でカタカナを通した。英語っぽく読むと「イタい」と同級生に思われるような気がして、(特に中学校ではクラスで権力を持っている、イキった男女にイタいと思われるのは何よりも恐怖だった)英語っぽくは絶対に読めなかった。
地元で生まれ地元で育ち、教職免許を取った先生たちが読む英文の後をついて声を出すことに意味があるのだろうか。文科省監修の、日本の受験英語の頻出単語、頻出熟語に合わせた英文ばかりが練り込まれている故に、実は著しく不自然な日本人が日本人のために考えた英文を読んだところで、(当時はそのことにも気がついてはいなかったのだが)自分の英語の能力に何かプラスになっているとは、全く思えなかった。
日本の英語教育が批判されて長く、「あの授業は何だったんだろう…全然話せるようにならない…」という徒労感と共に学生時代の授業を思い返す人は多いと思う。日本の英語教育への不満はもはやネット上では「あるあるネタ」である。故に、思い切り批判する文章を書くことにためらいもあるが、自分は真剣に学校で配布される教科書にマーカーで線をひきながら受験勉強に取り組み、日本の英語教育で自分の英語力の基礎を培った。授業は爆睡していたとはいえ、高校時代にお世話になった先生は、英語を純粋に好きだったことも伝わってきた。当時としては珍しい、イギリスでの滞在経験もある先生で、イギリスでのエピソードは、ワクワクしながら聞いた記憶があるし、夏休みの課題としてエミリーブロンテの「嵐が丘」を、高校生向けに読みやすく編集した冊子を課題に出してくれたことなどは、今でも覚えている。自分が海外で英語、あるいは現地の言語を勉強してみたいと思った最初のきっかけを作ってくれたのは、間違いなく高校の英語の先生だった。
日本の英語教育に関して、携わっている全ての先生の思いを無意味だと言うのは酷だと思いつつも、英語教育に限らず、学校という守られた場所でのみ通用している独特の能力にばかり磨きをかけてしまって、社会に出たときに必要な知識や能力とは、まるで異なるところに能力測定の尺度があり、意味がまったくないように思えることを、あたかも意味のあることだと思い込まされながら、視野を狭めて狭量なヒエラルキー意識に満ち溢れあさっての方向に頑張ってしまっている、そんな事象はとても多いと感じるが、中学、高校の英語の授業はその中でも、とびっきり「無意味」な感じがしていた。
女子と語学力(5)へ続く…