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女子と語学力(1) ~TOEIC 満点 それって”食えんのけ”?(Ⓒドラゴンボールの悟空のどこかでの言葉)

英語力について、自分の冴えない経験から、思ったことを綴ろうと思う。

あまり好きな表現ではないが、「スクールカースト」問題、今では「親ガチャ」とカジュアルに呼ばれる生まれ育ちの格差、偏差値ヒエラルキーや「どっちが上?下?」という、不毛だが根強く存在する意識。いとしさと、切なさと、心強さを、英語力を身につけることで育み、「負けないで!もう少し最後まで!走り抜けて!」と少し高い声で歌われて走り抜ける決意をし、性格が悪すぎる林家こぶ平みたいな先生に教わっていた英語塾で、「桐原書店」の頻出英単語、英熟語を必死に覚えて頑張った受験英語技術。その受験英語技術が、どうやら現実の英語力とは全く違い、実際にはあまり役に立たないと知った時のショック、そしてかなりの時間や費用をかけても、やはり、自然に話される英語はまるで聞き取れないという苦しみ…。

狭い世界で、計測方法が変わる優劣比較の繰り返し。インチからセンチに、急にメートルに…なんなら尺?寸?立方メートル?その時々において、比較の尺度がコロコロ変わってしまう環境下において、肥大した自意識のせいであらゆる物事を常にネガティブにとらえていた自分は、毎回地べたを這うような立場におかれた。時には、やたらに褒められたり、思い切りけなされたり、自信をもって何かをすればバッシングされ、謙遜すれば思い切りつぶされる、というような安定しない環境。幼少期から、そんな日々に、戸惑いを重ね続けてきた。


結局、「今の自分を、どうとらえるかが大事」「今の自分が得ているものをみつめよう」というようなことがよく言われ、最近はnetflixでの瞑想とともに、それを実践しているが、経済的に困窮しながら、将来も何も見えない6畳間の中で、(主に自分の無駄遣いのせいで)更新料すら払えない危機を感じつつ、一人「自分がどう思うかが大事!」と思うことや、一日のほとんどを過ごす狭い職場内のヒエラルキーなどにおいて「使えない」という烙印を押されながら「それでも自分がどう考えるかが大事!」と確信することは、難しいと思う。

安定的な収入を得て、日々の生活に不安を抱えなくなって、落ち着いた気持ちで日々を過ごすことができて、自分自身の努力や能力を「ありのままで(!)」認めてくれる人が存在した上で、充実した生活が送れ、それだけの余裕があってはじめて「自分の心が決める」と思えるような気がする。しかし、そのような環境を得るまでには、相当な苦労があった。何度も精神的にも経済的にもギリギリな状態に置かれ、文字通り死にかけながら、奇跡的にいろんな苦しみを乗り越えて、40代に差し掛かった。ここ数年、はじめて幸せな気持ちを感じられるようになったのだが、こじらせていた頃の記憶は、しっかりと自分の視線を作りあげている。世界に一つだけの花、として咲き誇るにはまだまだ道のりは遠い…。(槇原敬之の曲を集めたSONY製のカセットテープはどこへいったのか!?親が捨てたのか!?)

そんなにいろいろぶつくさ言わないで、TOEICを満点とったりしていたら、今頃きっと素敵な自己実現に繋がったのだろうか?難関資格を得れば、給料が上がり、仕事でも評価されて充実していたのか?あの日、人事部長に好かれればよかったのか?それとも、駅近の、持ち家があればよかったのか?賃貸で家賃を無駄にしてきたのだろうか?(それは、ちょっと思わなくもないが…)

そもそもメンタルの調子が悪く、感覚としては脳の認知機能の半分が長年にわたり麻痺したような、記憶力や判断力が鈍りひたすらネガティブな感情や記憶が渦巻く、そんな状況下で日々を生きていた。自分を高めるために資格試験に挑戦するようなやる気も余力も、なく(まあ残念な職場では、資格では評価はされないが…)「アカルイミライ(Ⓒ黒沢清監督 2003年の映画!)」は、長年、のぞめなかった。そんな地べたを這うような目線を自分が培うに至ったうえで、切っても切れない存在、それが「学歴」と、さらに時にはビジネス界の「女子力(!)」とセットになっている、実態があるような、ないような、「英語力」問題だと思う。

女子と語学力(2)へ続く…

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