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Jリーグ 発足してから30年!日本代表 世界レベルに・・・!スパルタや上位下達は世界で勝てぬ!

 2022年、カタールワールドカップでの日本代表の試合は、想像をはるかに上回る素晴らしい結果だった。世界の強豪、スペイン、ドイツに勝ったのだ。その上で臨んだ日本代表悲願のベスト8を目指す大一番。ワールドカップ準優勝経験すらあるクロアチアに対し、90分の死闘を繰り広げ同点。信じられないほどの快進撃。

もしかしたらこのまま勝利をおさめるのではないか…?次の日も、残念な仕事に行かねばならないoffice workerの私。そんな私も、睡眠不足などものともせずに、日本代表の奇跡の瞬間を見たいと思った。生放送で映し出される、カタールハリファ国際スタジアム(ドーハ)を見つめる誰もが、日本代表の奇跡の勝利を、予感した。

そんな奇跡の瞬間の、最後の最後。PK戦で全てが決まる。

私はうっかり、たまにテレビに映し出される観客席の女性がやるあの「手を組んで祈りを捧げる」ポーズをとってしまった。私は、クリスチャンではない。葬式仏教徒だ。何に対して祈ったのか。仏壇か。

祈りは、全く、通じなかった。

明らかな体格差、技術力の差をものともせず、世界の強豪チームに戦い勝ち続けた。その日本代表の、奇跡は、まさかの「PK戦」で終わった。

PK戦は、もはや「ジャンケン」に近い。私がこよなく愛する芸人である小籔千豊氏の言い方で言えば「ジャイケン」だ。最後の最後に、最初はグー!だと思ってグーを出したら、「最初はグー」ではなく既に勝負が始まっていて、うっかり「パー」に負けたような感じであった。

ジャンケンあるいはジャイケンは、「個」の戦いだが、PK戦に出る選手たちは、集団の勝利の結果を全面的に背負う。負けた原因を作った人、チームに「迷惑」をかけた人が、誰かが、驚異的な視聴率を誇る何万人もの無責任な視聴者にも、はっきりわかる。

日本のような集団主義の国におけるスポーツにおいて、こんな残酷なシステムが他の競技にあるだろうか。

スペインとドイツを破ってのベスト16。(ところで、なんでスペインに7−0で負けた、コスタリカに、スペインに勝った日本が負けたのか。子供の頃熱心に見たものまね番組で例えるならば、ビジーフォーがしのざき美知に大差で負けるようなものだ。M-1でいうならば、第1回目のM-1に出たおぎやはぎが、なぜかサンドウィッチマンに勝つようなものだ。その例えで良いのかは、まったく分からないけど。)
夜のニュース番組で特集されるたびに、どう考えてもクロアチアに勝てる可能性はないのでは…と、無責任な視聴者である私はうっすらと思ってしまった。しかし、悲観的な予測を見事に裏切り、ワールドカップ準優勝経験のあるクロアチアに、互角以上の戦いを見せた。90分の死闘。

想像をはるかに上回る日本代表の健闘ぶりには全国津々浦々、驚きと歓声がテレビの前を包んだであろう。まさかの、同点での迎えた延長戦を戦い切り、危ない場面をすべてくぐり抜けたのに、最後の最後は、PKで決まるのか。

一瞬、意識が遠のいた。

泣き崩れる選手たち。体格差、身長差、足の長さの差、そもそものキック力の差。基本的なサッカーカルチャーの差。それを同点で押さえたその功績はよ!PKかよ!私がこよなく愛するサイトであるRocket NewsのPKサンジュンさんかよ!

サッカーの熱心なファンの方は憤りを覚えるかもしれないが、私は日本代表のサッカーに、ずっと、ずっと、ZUTTO(by永井真理子)懐疑的だった。出る杭を打つ社会、上位下達で、監督の言うことを100%実行せねばならない多くのスポーツ。個人が目立つことをよしとせず、突出した才能がある人を時には引きずり下ろす、そんな日本人のメンタリティーと、個を重んじる国が強豪国であるサッカーは、あまりにも相性が悪いと感じていた。ワールドカップが近づくと、巨大なミエナイチカラによって、コンビニの店員さんが急に服装を変え始める。12月になるとサンタ帽をかぶり始めるのと同じシステムだ。今の日本代表サッカーのことをよく知らない、こちらの心の準備が追いつかない。

地方の公立中学校に通っていた30年前、日本中の注目を浴びて、Jリーグが発足した。私はジーコ監督を一目見たかった同級生に連れられて、鹿島アントラーズの試合を見に行った。赤字路線の電車に乗って、無人駅を越えて、荒れ地のようなところに作られた巨大なスタジアムで初めて見た試合は、今でも鮮烈に記憶に残っている。地獄のような中学時代の思い出の中では、鹿島アントラーズの試合観戦は、例外的にとても楽しい思い出だった。

公立中学校のサッカー部の男子たちは、恐ろしいほど強気で、肩で風を切って歩き、私の所属していた地味めな「卓球部」を見下していた。「ティモテ」のリンスを使っていたかもしれない、髪がサラサラのヴェルディ川崎(当時)の大ファンのサッカー部男子に「審判なの?」と笑われた紺のポロシャツを着た卓球部の私。部屋とワイシャツと紺のポロシャツと私。

サッカー部に所属しているというだけで、地方の中学校のヒエラルキーにおいて最上位にいると信じている、髪がサラサラの、実はあんまり面白くないのに自分のことを面白いと思っていて、本当に面白い、メガネをかけた地味目な男子が言った面白い発言を、みんなに聞こえるように大声で言って笑いをとっていた、そんなサッカー部男子が私は心底苦手であった。

私は「実は面白くもなんともないのに自分のことを面白いと思っているイキッた男子・女子」が、心の底から苦手である。面白い人ということになっている人を周りでかつぐ、神輿の持ち手たちも苦手だ。その神輿の取っ手が腐ってほしいとすら思う。腐って頭に当たってほしい、重い神輿が。神輿の長い部分は「取っ手」という名称でいいのかがよく分からない。

彼らは「面白い人」の本当の価値を全く、分かっていない。
(どういう立ち位置なのか、私!M-1の審査員の目線!)

Jリーグ全盛時代、カズはブラジル仕込みのダンスを躍った。武田は、おいしいところを持っていった。北澤の髪は、長かった。鹿島アントラーズ所属のアルシンドは、執拗に転がりファールを主張した。アデランスのCMに出た。

Jリーグ全盛期。日本が好景気に沸いていた頃。あの嘘のようなはしゃぎ感。

中学生の時に隣の席の男子に局部を触られることに悩んでいた友人は、ある日、「今は、こんなにキャーキャー言われてるけど、Jリーグなんてきっとそのうち廃れるよ」と、登校時に堤防を歩きながら、吐き捨てるように、言っていた。私はそうは思えなかった。こんなに大ブームのJリーグが、いつか注目されなくなる日が来るなんて。そのくらい、誰も彼もがJリーグに夢中だった。

彼女の予感は当たった。

Jリーグのチームは日本中にあり、地域振興には間違いなく大きな役割を果たしている。茨城県では、鹿島アントラーズが発足し、非行に走る人が減ったのだという。映画館もデパートもない地域に、暴走する以外の、日常的に楽しめる娯楽ができたのだ。

地域密着型のJリーグが果たした地域活性化の役割は大きかったものの、2022年の現在は、全盛期と比較すると、Jリーグは、注目されなくなってしまったと思う(ファンの人すみません!)。今、地元のチームのファンと、サッカー部に所属している人以外に、日常的にJリーグを見ている人はどのくらいいるのだろうか。

しかし、Jリーグへのお祭りのような注目はなくなったとはいえ、日本中に作られたプロのチームによって、サッカー選手が育成されるシステムは、盤石なものとなり(よく知らんけど)日本代表の選手たちのレベルは、30年前と比較してもはや別次元にまで向上していた。かつては夢物語だった、ヨーロッパの世界屈指のチームで、日常的に戦っている日本人選手たちがたくさんいるのだ。外国人に頼る必要もない。ファウルを主張してごろごろ転がる選手はいない。シュートの威力もすさまじい。彼らのプレーは、世界水準となっていた。

クロアチア戦の次の日、失意の中で読んだiphone第一世代の小さな画面、桜木花道と見まごうような赤い髪の長友選手のコメントに私は涙した。
「PK蹴った選手の勇気たたえて」…PKをやると名乗り出た、勇気のある選手たちを、どうかたたえてほしい、と言うような記事だった。

あれだけの重圧を背負ってPKを蹴ることに手を上げた人々を、嘲笑うような、責めるような、日本型メンタリティーには未来はない。いつも批判ばかりして何もしないタイプの人種であると自信を持っている私も、彼らの勇気をたたえたい。批判するなら対案を出せ、あなたが蹴れ、と言いたい。サッカー部男子のサラサラのティモテ髪に対して違和感があり嫌悪していた私ですら、2022年のサッカー日本代表に対しては、圧倒的な尊敬の念を覚える。

世界から、取り残され、自信を失っている日本人(私も)に対して、サッカー日本代表が残した功績はとてつもなく大きいと思う。

世界で戦える人々を育成するためには、一体、何をする必要があるのか。日本代表の取り組みを、映画業界、エンタメ業界、研究機関、旧態依然とした日本企業は、貪欲に、取り入れてほしい。サッカーの背後には世界規模の莫大なミエナイチカラが働いていてそう簡単には真似できそうもないけれど。

そこにはスパルタも、有能な若手や「個」を潰すことも、PKに失敗した選手を責めることも無い。チームに所属している人たちへの圧倒的な信頼感と長期間に渡る蓄積の結果が、そこにはある。

ワールドカップが始まるまで、今年ワールドカップがあることも知らず、森保監督の名前すら知らなかった私であるが、自信を失っている多くの日本人に対して、不可能はないのだと言うことを知らしめてくれた、サッカー日本代表の選手、関係者の皆様に、最大限の尊敬の念を示したい。

29年前、「ドーハの悲劇」を地方の団地で14インチのブラウン管のテレビで見ていた私だが、2022年、東芝製の(ちょっと古いモデルの)REGZAの画面を通して「ドーハの歓喜」を、サッカーを始めた息子と一緒に見られたことに、心から感謝している。

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