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将来の夢をかくのがいやだった

「将来の夢」を書かされるのが苦手であった。

 幼稚園の時に初めて書かされた。

 幼稚園に入園する前は、母親の出かける先に付き合わされて、日が燦々と降り注ぐ、自転車の後ろにいつも乗っていた日々だった。UVケアなんていう言葉が存在しなかった昭和の時代。毎日、自転車の後ろに乗っていたので、日焼けしすぎる日々を送っていた。

幼稚園入園後から、場面緘黙があり、いつも、黙っていた。
日焼けして真っ黒で、黙っていたから、物質で言うと「炭」のような児童だった。

そんな炭に酷似した幼稚園の頃、将来の夢を書かされた。

画用紙に覚えたての平仮名で、「がっこうのせんせい」と書いた。
他の仕事を知らなかったから、そう書いた。

教職免許を持っているものの教師にはならずに主婦になった母親は、とても喜んだ。狂喜乱舞した。母親の喜ぶ姿が重かった。重いけれど、喜んでくれて嬉しかった。私の世界は母だったから。

小学生の時も、夢に「がっこうのせんせい」と書いた。親が喜ぶと思ったから。他の仕事を知らなかったから。

地獄のような思い出しかない中学生の時も、夢を書かされた。

その時は「本訳家」と書いた。

正しくは「翻訳家」であった。
まごうかたなき誤字である。

誤字のまま、訂正されずに教室の後ろに貼られていたことを、
授業参観にやってきた母親は恥ずかしく思ったらしい。

いつまでもグチグチとグチグチと「字が間違っていた」と文句を言われてしまった。

私の夢。

字が間違っていた。

娘の誤字が訂正されずに貼られたことを恥ずかしく思う母の目は、何人か、人を殺めたかのような目だった。濃密な怒りが目に集中する。他のものが何も見えていないかのような目になる。その目が、とにかく、怖かった。

地元の国立大学を卒業して先生になったと思われる、ちょっと小太りの女性の担任の先生は、どうして私の夢の誤字に気づいてくれなかったんだろう。先生のことを責めたくなった。

母親は、ちょっと小太りの女性の担任の先生のことが、好きではなかった。
日常的に、先生の文句を言っていた。

小太りの先生は、おとなしい子、暗い子があまり好きじゃなさそうだった。
勉強ばかりしている子ではなく、目がぱっちりとして、明るくて、快活で、運動が得意で、元気な男の子や女の子が、好きなのだ。

中学生の頃はそんなに日焼けをしていなくて、私は炭のようではなかったけれど、それでも誰とでも話ができるわけではなかった。

担任の先生から、なんとなくぞんざいに扱われているのが、何気ないやりとりからも感じ取れた。翻訳家、の誤字に先生が気づいたかどうかはわからない。暗い女の子が書いたものは、どうでもよかったのかもしれない。そこまで考えていなかったかもしれない。

勉強ばかりしている、暗い女の子には、教室の中に居場所がなかった。

そんな居場所のない教室の、永遠とも思えるほど長い日常の向こう側に「夢」がかなう余地があるとは思えなかった。「夢」を見るどころの話じゃなかった。

野球やサッカーが得意で、足が早くてガタイのいい男女が威張る、地方都市の公立の小学校や中学校の教室の日常が、「夢」と繋がっている気配は、なかった。

20年以上の時が過ぎ、今、私は「ホンヤクカ」になる瞬間がある。
ちょっとした簡単な翻訳をする。
高性能だが中国語は簡体字のみ(台湾版の中国語は訳せない)のDeepLというツールを使う。コントロール+Aで文章全体を範囲指定して、コントロール+Cでコピーして、コントロール+Vを押して、貼り付ける。

DeepLの翻訳の精度はすごい。
一瞬で終わる。

中国語が分かる人は周囲にほとんどいないので
それなりに重宝されることがある。コピペに頼っているので、翻訳家、ではなく、ホンヤクカ、くらいのものだ。

誤字が恥ずかしかった「本訳家」の夢は、2023年の今、かなった。

「翻訳家」と「夢」に書いた頃、本当になりたいと思って書いたわけではなかった。
英語ができるようになって欲しそうな母の様子を見て「英語に関連することを書けば母親が喜ぶだろう」と、母親の感情を先回りしてそう書いたのだった。

そもそも、小さな街の学校の先生たちは、小さな街の学校以外の世界を知らなさそうだった。
北関東の小さな街で一生を過ごしていて、駅前の駅ビルが世界で一番栄えていると思っていて(私はそう思っていた)、
県外に出ることがあるとしたらそれはディズニーランドに行く時だけで、ディズニーランド以外の県外の世界を見たこともなさそうだった。夢はテレビの中にしかなかった。

夢の誤字が母親の逆鱗に触れて、私は夢を語ることをやめた。

上京して大学に進学した。英語ができるようになりたい、そんな夢を持って入学した。

大学では、自分の英語力の無さに毎日絶望した。授業は面白かったけれど、2年生になって履修する授業は、英語での授業が普通に理解できることを前提としているものだった。最低限しか取らなかったが、全て英語で開講される授業は、さっぱり、わからなかった。担当のアメリカ人の先生はいつも目が笑わない、笑顔の練習をするために大量の鏡を持ち歩いている先生だった。真偽のほどはわからないが、軍隊出身だという噂があった。私は時々彼から、いじりのターゲットにされた。当時はメンタルの調子が悪く、英語力もなく、授業も理解できず、オドオドしていたせいだと思う。

授業の内容がわからないのだから、課題の意味もわからないが、単位を取るために必死に徹夜して書いた英語のレポートに、コメントを書かれた。

Sorry, I didn’t understand.

ソーリー、アイ・ディドゥント・アンダースタンド。

授業は年間120万円。このコメントはいくらだったのか。

周囲には海外経験のある人だらけ。

「ねすぎ、英語の教員免許取ろうとしてるんだって?」

「ねすぎがどうやって英語教えるの?あははは。」

イギリスで生活をしていた友人に、あからさまに馬鹿にされた。

英語ができる人が多すぎる大学では、将来、翻訳を仕事にしたいと思ったことがあるなんて、誰にも言えなかった。格差を目の当たりにして、私の夢は汚染された。育ちが違う。親の職業のスペックが違う。過ごしてきたこれまでの世界が違う。高校3年生までの間に受けてきた授業の教育のレベルが違う。違いすぎる。

英語ができるようになりたかった。
翻訳をしたかった。
それが私の夢だった。

母親に、誤字に文句を言われた夢は、圧倒的な経済、教育格差によって汚染されて、なかったことにされ、広い海に流された。都内の公園の土になった。人体に影響はない。

人間関係のストレスで体調を崩して仕事を休んでいた頃、夢のことなどすべて忘れて東京MXの「5時に夢中!」に番組のタイトル通りに夢中になった。下ネタと悪口とウィットに満ちた最高の番組だった。木曜日の、作家、岩井志麻子と新潮社出版部の中瀬ゆかりの回が大好きで、毎週録画して見ていた。5時に夢中のコアな視聴者は、無職の人ばかり。「5時に夢中!」の略称はゴジム。誤字の夢もゴジム。

メンタルの調子が悪すぎて、藁にもすがる思いで聴くようになった自己啓発の音声、amazonで中古で買った自己啓発本には、手帳に書けば夢は叶う、言葉にすれば叶う。よくそんなことが書いてある。

親が喜ぶように忖度した夢。漢字が間違っていても、画用紙に書けば、叶うのかな。言えば、叶うのかな。
自動翻訳が当たり前になって、内向きの世の中になって、海外の映画を観る人も翻訳された本を読む人が激減しても、日本の経済力が凋落しても、世界中の日本語がわかるオタクの人々がボランティアで外国語から日本語にすぐさま訳すという今の時代、日本語が母語の日本人による翻訳に、今でも価値はあるのかな。「ホンヤクカ」という夢。お金になるのかな。一部の人しか、生きていけないのではないかな。今から学んでも、生活はできないかも。
でも夢は夢。

夢のカタチにもいろいろある。

地獄のような思い出しかない公立の中学校から、自分と同じ女子高に進学した同級生が、高校卒業後、整形手術をして、瞼を二重にしたと同級生から聞いた。

自動車教習所で、彼女を見かけた時、刑事ドラマとみまごうような、巨大な黒い黒いサングラスをかけていたという。

どこに行っても知り合いがいる小さな町で、技術力の怪しい整形手術を受けたとは。

教習所で偶然、彼女に会った友人曰く、彼女が巨大な黒いサングラスを外した時、「あちゃー」と言いたくなるような、明らかなる”失敗二重瞼”を見たそうだ。

地元の高校を卒業後、実家から徒歩3分の場所で保育士になった、小学生の頃に同じ団地に住んでいた友人は、二重瞼失敗のエピソードに大爆笑していた。たまの休みに原宿に行ってジャニーズのプロマイドを大量に買うのが趣味の同級生。面白くて仕方がない。そんな様子だった。私も友人の話を聞いて、ファミレスのドリンクバーの薄くて風味のないコーヒーを飲みながら、ゲラゲラと大笑いをした。目のことをそんなに気にしていたなんて!誰かのコンプレックスや不幸は小さな世界の最高の娯楽である。

二重瞼を手術する前の、中学生の頃の彼女のことを思い出した。彼女も同じ団地に住んでいた。男の子の友達がたくさんいる子だった。私には割と優しかった。勉強が得意だっていうことを、彼女は素直に褒めてくれた。

ねすぎ、すごいじゃん。頭いいじゃん。がんばりなよ。

活発で足が速くて男の子の友達がたくさんいる女の子に勉強のことを褒められて、私は嬉しかった。

そんなに目のことを気にしていたなんて。確かに目は細かったけど。

そのままでよかったのに。

たくさんの男の子に囲まれていたけど、目の大きな子ばかりが贔屓されていることに、彼女も心を痛めていたのかな。

二重瞼にして、素敵な自分になりたいと、彼女は夢を描いたのかもしれない。ちょうど20歳になった頃。
きっと高額な手術だったはずだ。彼女の夢は失敗に終わり、ドリンクバーのつまみの噂話になった。

二重瞼失敗の話を、大笑いして聞いていた頃、自分も20歳くらいで、独身だった。自分が将来、子供を持つことがあるなんて想像してもいなかった。

あれから20年以上経ち、自分が母親になった今、彼女の苦悩を想像すると、泣けてくる。芸能人でもないのに、二重瞼の手術なんて、絶対にしないほうがよかった。しかも地方の怪しいクリニックで。高額だったろうに。お金はどうにかなるとしても、まぶたは一生元には戻らない。親からもらった体。陳腐な言葉だと思っていたけれど、親からもらった、まぶたなのに。世界に一つだけ。彼女のまぶたは一つだけ。ナンバー・ワンにならなくていいのに。ピアノが得意だった彼女。

そのままでよかったのに。

地元で夢など見ても、叶い先がない。
巨大なイオンで買った服を着て、また巨大なイオンに行く。お金に余裕があれば、異様に広い家を買う。時には高い車を買う。その高い車に乗って、また巨大なイオンに行って、買ったものを広い戸建てに収納する。買ったものが溢れる。巨大なブックオフで買ったこんまりの本を参考にして買ったものを捨てる。こんまりに、ときめくか、ときめかないかで決めろと言われる。イオンでは、昔の知り合いにばったり会う。

子供の頃、日本はアジアの中の唯一の経済大国として名を馳せていた。ジャパン・アズ・ナンバーワン。日本の企業の車がアメリカの市場を席巻し、アメリカの自動車会社の売り上げを奪った。怒りで日本車を壊す人々の映像がニュースになった。

日本の企業の影が薄くなったいま、日本が誇るものは、こんまりだ。物にあふれた家を片付けてまわる巫女のようなミステリアスな女性。過去を捨てる。あんなに買わされたのに。読書が大事だと言われたのに。でたらめで極端な報道を妄信して、国は滅びかけた。デマにだまされて火を放った。そんな時代が嫌だったから、読書や芸術が大事だと、ずっと信じてきたのに。

ときめかないから捨てろと言われる。私もこんまりの著書を持っている。二冊持っている。心身の調子が悪かった頃、ときめかないと判断して捨てた学生時代の思い出の冊子やTシャツ。今、捨てたことを心から後悔している。

「ときめき」は気分によって変わるのに。

こんまりが活躍する今、誰に何を奪われたのかははっきりとは見えない。何かを奪われたと多くのひとが感じているが、燃え上がるような怒りはいつも、ほんとうに怒るべき大きなものには向かなくて、そんなに悪いことをしていなさそうな、でも怒りを向けやすい人たちにばかり向けられる。

日本の経済成長が永遠につづくかのように思われた時代に、団地での日々を小学校、中学校と一緒に過ごした、ピアノが得意な旧友のまぶたは、崩壊した。

そんな「夢」にまつわる思い出である。

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