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氷花姉妹[短編]


❄︎月子の告白


夫には好きな人がおりました。
無口で朴訥と言われる夫でしたが、気の優しい真面目な人です。
歳の離れた夫婦ではありましたが、大変な時代もお互い助けあって乗り越えてきました。
私たちには子どもがおりません。
結婚以来、私は夫と子どもを設けるいとなみをしたことがないのです。
私は長く女学校の教師をしておりました。さまざまな生徒を教えましたが、どの子も自分の子のように思えます。
先日、病の床にある夫の世話のために教師の職を辞しました。
私の生きがいでしたから、続けるようにと夫にも勧められましたが。
夫はもう長くはないのです。
わけあって夫は自分の家の墓に入る事ができません。
お骨は私が死んだら、私の生家である若松家の墓に一緒に入れてもらうよう頼んであります。
実は夫はそうなることを、永く心待ちにしていたのではないかと思います。
やっと好きな人と一緒になれるのですから。



❄︎夏


紅子と月子がその山深い土地へ来たのは、母親の一周忌を終えたばかりの頃でした。
生まれつき心臓に重い病いを抱えた紅子の転地療養という名目だったのですが、
「じゃあなんで月子も付けて寄越したの?あの芸者が厄介払いしたに決まってるわ」
というのが紅子の言い分で、それはあながち間違ってはいないのでした。

紅子と月子の母が亡くなると、かねてより深い仲だった芸者を父は家に入れました。母の死から十月とつきも経たない頃です。
その年の夏は暑く、紅子は床に臥す日が増えていました。
「暑気にやられておりますなぁ。今年の関東は暑いですからなぁ、どこかで避暑でもなさったらお嬢様も持ち直しますよ」
という医者の能天気な言葉を受けた父は、姉妹の母の生家へと二人を預けたのでした。
「月子は紅子姉さんが好きだろう。紅子もひとりでは退屈だから、二人で行きなさい」と。

倖田家という母の生家は、徳川の頃から続く醤油の蔵元でした。
山間にあるむかしむかしの城下町は、鉄道が通り近頃は材木産業で活気づいていました。
家を継いだ母の兄はその機に乗じて商売を広げました。
家には住み込みの女中から奉公人、書生から商人までさまざまな人が出入りしておりました。
一体何人の人間が住んでいるのかと、姉妹は数えてみましたが分からず仕舞いです。

蔵がいくつも立ち並ぶ広い屋敷の中で、姉妹はひと夏を過ごしました。
「ここらは日暮れが早いし虫ばかり。まるで流刑しまながしじゃないの」
と紅子は不平を口にしますが、月子はここでの暮らしもまた楽しいのでした。
天保の頃に建てられたという母家の廊下は黒光りしており、裸足で歩けばこれが木だろうかと疑うような感触があります。
漆の肌を足の裏で撫でたらこんなではないかと月子は思いました。
翻って伯父夫婦のためにこしらえた離れの廊下は、同じ杉でも柔らかく足の裏に吸い付くようです。
奥座敷から応接間、使ってない部屋や果ては女中部屋まで、縦横無尽に探索しても誰にも咎められません。
うっかり来客中の部屋を開けてしまっても、
「あらあらお雛様がござったよ」
と伯母は優しく目を細めるばかり。
ひと夏ばかりの預かり子なので、伯母にも伯父にも厳しく躾ける気はさらさらないのですがそればかりではありません。
伯父夫婦には三人の子がおりましたがみな男の子でしたので、女の子がいってみれば珍しかったのです。
それに紅子と月子は、そんじゃそこらにはいないような美しい顔立ちをしていました。特に数えで13になる紅子は、ほころびかけた薔薇の蕾のような人をはっとさせる美しさを持っていました。

紅子は少女らしい傲慢さで、世界が自分中心に廻っていると信じてるような節がありました。
庭遊びの後、内へ上がる時は手伝いの八重がたらいに手水と手拭いを持ってやってきます。
手を洗い、脚を洗わせている最中にわざと水飛沫をかけたりするのです。それは八重の顔やら着物やらにかかって変な顔をするのですが、紅子はときたら、
「あら。くすぐったかったのよ」
と言うばかりです。
八重は紅子より3つ上の太肉ふとりじしで胸の厚い娘で、姉妹の身辺の世話を任されていました。よく気のつく娘で、月子は懐いていたのですが紅子はからっきしです。
むしろあれこれ用事を言いつけては、八重がその通りにすると、そうではないと文句をつけたり気が変わっただのと振り回してばかり。
さすがの八重もその我儘ぶりには根を上げそうです。

それでも女中たちも、いっ時は悪しき様に言い立ててもそれは直ぐに鎮火します。
紅子が長くても20まで生きられないことを屋敷の者は知っていましたから。
「あんなに美しくても儚いのだから」
「あの子は今しかないのだから」
と、東京から来た娘の我儘ぶりも美しさを鼻にかけるのも人をへんに見下した態度も、人より寿命が短いのだと思えばこそ菩薩心が現れるのでした。

紅子が横柄に振る舞うのは使用人にだけではありませんでした。
優しい伯母のこともお国訛りが汚いと言って鼻で笑うのです。そんな時伯母は八の字眉をさらに寄せて、
「そうは言ってもわっすはこの土地の生まれ育ちだものねぇ」
と悲しく呟くのでした。

そんな有様でしたが、朝の光が差し込む長い渡り廊下を姉妹が歩く姿を見れば誰もがほうっと感嘆します。西洋の公女のような白い大きなリボンの付いた妹と揃いのワンピースを着た紅子は、今にも光の中に溶けてしまいそうです。
人々が散りゆく花を見送るように紅子の美しさを見送るうちに、山の短い夏は過ぎていきました。


❄︎秋


紅子にあてがわれたのは、改築した母家の2階にある三方向にガラスの窓を配した部屋でした。
右手の窓からはずらりと並んだ蔵が、正面は離れの屋根が、左手には庭と回廊が見下ろせました。
なんと多くの人がこの屋敷の中で動き回っていることでしょう。そこからは皆の動きが手に取るように窺えました。
けれどどんなに活気付いているように見えても、人のいない場所には心細いまでの静けさが漂っていました。

「田舎の日暮れは、都会の日暮れよりずっと寂びしい」
と言う紅子に月子はまったく同感でした。
夜は真っ暗で山の影が空にぴたりと張りついて迫ってくるようです。風の強い夜はガラスがカタカタ鳴るのを嫌って、紅子は必ず一階の月子の部屋へ布団をひかせるのでした。
「夏が終われば迎えを寄越すと言ったきり………」
紅子は並べた布団の中で、天井を睨んで言いました。
「……うん、もうお庭はすっかり秋の色なのに。お父様忙しいのかしら」
と月子は答えました。
「私たちのことなんて忘れてしまったに違いないわ」
憤然とした様子で紅子は言い放ちました。
「そんなこと………」
情け無い声を漏らした月子に、紅子は諭すように言い渡します。
「みんなあの後妻の企みよ。私たちが邪魔なの」
「……そうね。そうに違いないわ」
と月子もさも怒っているかのように同調しました。二つ上の紅子はいつだって月子のお手本でしたから。
父親に忘れられるという悲しみに対抗できるものは怒りしかなかったのです。
ふたりは継母のことを実はよく知らなかったのですが、空想の中では大変な悪女に仕立て上げていました。しばらく継母の悪口に花を咲かせた後、すとんと静けさが落ちてきました。

中庭の槇の木を風がざーっと揺すって吹きすぎます。
「どうして人はいちばんいい時を留めおくことができないのかしら」
暗闇の中で姉の呟きが耳に忍び込みました。
それは紅子が朝に晩に口にする文言でしたが、暗闇の中ではいっそう呪禁じゅごんめいています。
「………私はずっと今のままがいいわ」
「月子だって……」
「月子もお婆さんになるのはいや? 」
「もちろんいやよ」
「でも、きっとなるのよ。生きていたら大人になってお嫁さんになって子どもでも産んだら後はお婆さんになるだけよ」
「いやよ。それにお母様は美しかったわ」
「お母様はね。私、よかったと思っているのよ………」
紅子は背を向けたのか、声が少しこもって聞こえます。
「何が」
「お母様がお婆さんになる前にお亡くなりになったこと」
「………」
月子は姉の次の言葉を待ちましたが、暗闇を伝うのは風が屋敷を揺する音ばかりでした。


継母を悪女にしたように、またふたりの中では手伝いの八重は大変な醜女ということになっていました。
帯の上にのるような乳房を見て笑ったり、ふとしたはずみで見えた腋窩の黒いものを大層怖がってみせたりしました。
八重とてそんな所を見せるつもりも、また意識したこともほとんどなかったのですが、夏祭りへふたりを連れて行ってくれと伯母に頼まれ、一帳羅いっちょうらの洋装をした際に露わになってしまったのでした。

ただでさえ紅子に閉口していた八重は、そのような経緯があり姉妹の世話から外されました。
代わりに年長の女中が世話係になりましたが、何かにつけ用事も多く、病いのことから細やかな世話のいる紅子のためにもうひとりが選ばれました。
それは雹衛ひょうえという青年でした。
雹衛ひょうえはひょろりとした物静かな男でした。屋敷には蔵の職人から商売の手伝いの者まで、たくさんの男衆がいましたが雹衛はそのどこにも入っていません。薪割りやら馬や鶏の世話をするいちばんの下っ端でした。
女中たちから頼まれる雑用をするのが彼の仕事で、それ以上は誰からも何も望まれてはいません。

それからもうひとり、姉妹の元に男が現れました。伯父夫婦の末の息子の友人であり、倖田家に書生として世話になっている若者で名を凍皓いてるといいます。
夏が過ぎても、東京からようよう迎えがないことに思案した伯父夫婦が、勉学の指導を頼んだのが凍皓いてるでした。
夫婦には琴でも花でも習わせる準備がありましたが、紅子が月子に他人を寄せ付けないのです。
村の子はもちろん、女中と親しく口を聞くことも紅子は禁じて、まるっきり自分の教えだけを守らせていました。
「月子の方は健康だし家の中に留め置くばかりはよくない」
というのが伯父の考えでした。
凍皓をふたりにあてがったのは考えあってのことです。書生といえども先生という立場なら、二人の固い結晶の中へ入っていけるかも知れません。それに凍皓は見目良い若者でした。
薄い唇やきめの細かい肌は、青年期特有の生臭さを見事に消していました。それでいて快活さも備えた彼なら、紅子も気にいると思ってのことです。

伯父の目論見は当たり、凍皓は苦も無く姉妹の家庭教師におさまりました。
自身の学業の合間を縫っての数時間でしたが、先生としては申し分なく働きました。

座学のみでなく、凍皓は山や野へも姉妹を連れて出かけました。そんな時、十歩も後から影のようについてくるのが雹衛です。
「自然にあるものは色々なことを教えてくれます。僕は将来、地質学を学んで国の発展に尽くしたいのですよ」
そう言って凍皓は、石ころを姉妹の足元に並べて見せます。
「ほらこれは流紋岩という石ですが」
と帯に差してたハンマーで石を割りました。
「見てご覧。この部分は蛋白石オパールなんですよ」
そこには粗野な石に埋もれるように爪の先ほどの虹がありました。
姉妹はしげしげと見つめます。やがて紅子が、
「宝石だったらお母様の首飾りの方が、余程大きくて見栄えがするわ」
と言ったので凍皓は苦笑いしました。
「そうですね。でもその宝石もこんな風にして生まれてくるのですよ」
「ふうん、石はいいわね。生まれてからずっと変わらないもの」
と紅子はつぶやきました。
凍皓は少し困ったように微笑むと、視線を上げました。
すると石に釘付けになっている姉妹の姿を凝視する雹衛と目があってしまいました。
それは見守るというより、いつもの雹衛からはかけ離れた観察者のような鋭い視線でした。
凍皓は何も見なかったふりをして、また姉妹に話かけたのでした。


その後も、雹衛の視線はいつも姉妹の周囲を浮塵子ウンカのようにちらつきました。
紅子も月子もその片時も離れないような視線に、
「あいつまた見てるわよ」
と囁き交わします。
その美しさから小さな頃から見られることには、変に慣れっこな所があるふたりは、だから何ということもないのでしたが。
雹衛は姉妹に話しかけることも、呼ばれなければ近寄ることさえしません。
痩せた犬を憐れむように、雹衛のもの欲しげな哀しい視線を笑いものにするでした。

しかしある時、紅子をどきりとさせるような事が起こりました。

「紅子さんも月子さんもとても優秀ですよ。まず月子さんの方はとても意欲的だ。それに紅子さんは独逸語も読めるのですよ。ははは、僕の方が生徒にならなきゃな」
そんな報告が凍皓から伯父の耳へ入った事がありました。
しかし紅子に独逸語ができるというのは随分な誇張なのです。
東京にいた頃、隣の家に独逸人夫婦が住んでいました。紅子は夫人から絵本を貰ったのですが、その際母国語で何度も読んで聞かせてくれたのを耳が覚えていたのです。挨拶程度はできても読み書きなどは及びません。
その絵本を凍皓の前で、なんでも読めるようなふりをして誦じてみただけなのです。それを凍皓が良いように解釈したのを紅子はたいへん満足しました。

東京から送らせたその絵本や外国製の人形などに囲まれ、紅子と月子はガラス越しの午後の光の中で物憂く遊戯に興じていました。
つーっと襖が開いて、雹衛がおやつを差し入れました。お盆には甘柿の切ったのと落雁とが載っていましたが、紅子はちらりと見たきりでした。
雹衛などそこにいないかのように背を向けています。
入り口でもぞもぞしたままの雹衛は、床に広がった絵本に目を留めました。
「………読めるわけがねぇ」
彼から漏れた声に紅子は思わず振り向きました。雹衛の視線の先にはあの絵本がありました。
紅子の独逸語の一件は雹衛の耳にも入っております。
本当のところ、雹衛にはその絵本の文字はただの外国語としか分からず、こんなもの誰が読めるものかという心内が口をついて出てしまっただけでした。
それでも紅子は自分の法螺を言い当てられた気がして、
「それいらない」
と部屋から追い出してしまいました。
「いやなやつ」
と憤慨します。
「なんで」
「だって………」
と言いかけて紅子は黙ってしまいました。

それからでした。
雹衛の蚊ほどにも感じなかった視線を、紅子は背に首にひかがみから脚首に受け止めるようになりました。妹も気づかなかったものを雹衛だけ見抜いているのかも知れない。ではそれはいつどのようになのでしょう。小さな不安は水紋のように広がりました。
見られることに注意深くなるほど、かえって雹衛の視線は目の細かい網のように紅子自身を覆っていくのでした。

❄︎初冬


「御山の山頂に雪が降ってひと月もしたらぁ里にも雪が舞うて」
と伯母が教えた通り、村の四方を囲む山のうちひときわ高い山が雪帽子を被ると吹きおろす風はぐんと冷たくなりました。その寒さは東京とは質の違う芯まで凍るような寒さでした。

寒暖の差にめっぽう弱い紅子は、部屋に籠もる日が増えました。
好奇心のおさまらない月子は、寒くなっても東京から取り寄せた鉱物図鑑と虫眼鏡を片手に、凍皓と共に野へ繰り出しておりました。
陽の照る日は紅子の部屋は温室のように温いのですが、そうでない日は雹衛ひょうえが火鉢を部屋に三つも持ち込んで、それでやっとの暖かさです。
屋敷に残された紅子は襖の向こうに雹衛の気配を始終感じながら過ごしていました。

ある日紅子は枕元に月子を呼びつけて尋ねました。
「私に相応しい方がいるとすれば、月子は誰だと思う? 」
「………相応しいってなあに? 」
「それは私を愛するに相分の男性ってことよ」
「まあ」
紅子はもったいぶったように、しかし自信を持って言います。
「私、そんな方がいるとすれば凍皓いてるさんだと思うの」
「先生が?でもあの方は大人だわ」
「あら、七つも八つも離れた夫婦なんて珍しくないわ」
「でも、お姉様にはずいぶん早い話ではなくて? 」
紅子はふーんと気の乗らない返事をします。
何時も今際いまわの際にあるような紅子の心内を、月子に察しろと言うのは無理な話なのです。

さて、月子には日課ありました。
それは月子がたまたま自分で見つけた遊びでしたが、それに氷花という名前があるのを教えたのは凍皓でした。
北の土間は日が入らず、夜ともなれば石臼さえも凍てつく冷え込みです。昼のうちに、庭の山茶花さざんかや客間の菊を失敬しては、月子は薄く水を張ったたらいにそれを沈むて土間に置きます。すると夜のうちに水が凍って氷花が出来ているのでした。

雹衛を呼んで盥から外した氷花をお盆に載せて紅子の枕元に飾ります。
きらきらしたした氷の中に花は気泡と一緒に閉じこめられて、そこだけ時間が止まったような静けさがあります。
紅子はそれをたいそう気に入りました。

庭の花だけでは飽き足らなくなって、自身の舶来もののブローチやリボンなど、なんでもかんでも凍らせてくれと言って月子に渡すのでした。
月子は台所から雹衛に拝借させた様々な形の器を使って、意匠を凝らした氷花を作りました。
それでも温かい部屋の中では、半日ほどで解けてしまいます。
「ずっと解けなければいいのに」
と残念がる紅子の子どもらしさに応えて、凍皓は氷室のことを教えました。

それは沢を登った山影にある洞窟のような窪みで、夏でも大変涼しく蚕の繭を保存しておくのに使われています。
そこなら年中通して温度が上がらないので、いつまでも凍ったままでいるというわけです。
夏でも氷が解けないと聞き、姉妹は目を輝やかせました。

「そうだ、気候が良くなったらふたりを氷室へ連れて行ってあげますよ」
凍皓はそう請け合うと、月子はきゃっと言って喜びましたが紅子は首をふりました。
「その頃まで私は生きていないと思うの」
悲しいようなふうでもなく口元には微かな笑みさえ浮かんでいました。
「何を言うんだい。紅子さんそんな気弱なことを言ってはいけないよ」
「知ってるのよ、私。20まで生きられないって皆が言っているの。お医者さまの見立てもそうだわ」
「ああ、紅子さん。これはきみの叔父さまから聞いたことだが、きみたちのお母様も同じように心臓が悪かったそうじゃないか。同じように長生きできないと言われて………。十分とは言えないかも知れないが、でもご立派に生きられたのだよ。20までなんてことはない。大きくなれば体もその分丈夫になるのだから」
凍皓の優しくなだめるような物言いに、
「紅子はもう大きくはならなくていいの」
と紅子は目を伏せました。
「お母様はとても美しい人だったけど、そんな時はすぐに過ぎたわ。そしたらお父様は呆気なく若い芸者のところへ行ってしまったわ」
「ああ」
と言って凍皓は黙り込みました。思案した後、
「紅子さんは大きくなればもっともっと美しくなれるよ」
と慰めるのでした。

すると紅子は、
「今ではだめ?」
と思い詰めた眼差しを向けて尋ねるのです。
「凍皓さんは紅子を美しいと言って下さるけど、お嫁さんにしたいほどのことを思ってらっしゃるの? 」
これには一瞬、凍皓の顔は困ったような同情混じりの変な顔になりましたが、それを誤魔化すようにくしゃくしゃと顔を寄せました。
「ああ、紅子さんが素敵な大人になったらお嫁に貰らえるように頼んでみようかな」
「まあ」
と言って月子は顔を赤らめましたが、紅子はぷいとそっぽ向いてしまいました。
「今日のところは僕はお暇するよ。紅子さんはおかしなことは考えずにね。きみはとっても可愛らしいお嬢さんなのだから」
そう言うと凍皓は部屋を後にしました。

❄︎厳冬


東京から紅子の診察にやってきた医師は、父からの預かり物だと言って着物を置いていきました。
正月の晴れ着としてあつらえたものだったのでしょう。鴇色ときいろの地に乳白色の大小の花を散らした振り袖です。それは姉妹には見覚えのあるものでした。
「お母様の! 」
と姉妹は声を揃えました。
母親が生前に紅子か月子のどちらかに譲ると言っていた着物でした。着物はたくさんありましたが、とりわけ母によく似合うそれが姉妹のお気に入りでした。
それが紅子に合うように仕立て直されて届けられたのです。

父親からの思いがけない贈り物に喜びが湧き上がる反面、そこに込められた意味は哀しいほど残酷でした。
父親は、そしておそらく医師も紅子の先は長くないと踏んでいるのでしょう。
母の着物がそっくりそのまま着られる歳まで、紅子が長らえることはないと。特に気に入りだった一着を今の娘に合うように直してまで与えるというのは、そういうことなのでしょう。

それを察しても紅子は臆する様子はありません。
鏡の前で羽織ってみせては満足気に微笑みます。
「ああ、やはり月子ではなくて私の方がよく似合うわ。だって私の方がお母様に似ているでしょう。そうよ、これだけはあの芸者にやるわけにはいかないんですもの。きっとそれをお父様も分かってらしてこうして寄越したんだわ」
月子にしてみればそれが手に入らなかったわけですが、継母のものになるより姉のものになった方がずっと納得がいくというものです。
それに月子はこの頃では、姉が何か美しさの切岸に追い立てられて行くように感じられて仕方ありませんでした。一層美しく、一層少女らしく透明になっていくような儚い様子に、触れること叶わないような一種の信仰じみた想いを抱くようになっていました。

衣装部屋の障子の向こうにはいつものように雹衛の気配があります。
鏡の前でポーズを変える紅子の一挙手一投足を、障子越しに窺っています。
何の気まぐれでしょうか。
「見たいの」
と紅子は雹衛に呼びかけました。
障子の向こうで、びくりと体を震わせる気配がした後しばらくしておずおずと障子が開きました。
「寒いわ。見たいのなら入って頂戴」
紅子に言われた雹衛はおっかなびっくり部屋の隅に正座しています。このようなことは今までになかったので月子も口をあんぐりさせています。雹衛は褒めるでもなく無表情でちらちらと目の端で紅子を掠め取っていきます。
紅子はそんな雹衛を顧みることなく、鏡の中の自分にうつつをぬかしているのでした。


奇妙な時間はその後も続きました。
いつもなら襖や障子一枚隔て向こうに控えていた雹衛を、同じ部屋に入れるのです。
紅子と月子がカルタ遊びをしている時も、琴を奏でる時も、食事の時でさえ雹衛を側に侍らせます。
初めは気詰まりだった月子もすぐに慣れました。雹衛は何をするでも言うでもなく、ただじっとふたりのすることを見詰めるだけなのです。
それも見ていないように見せかけて、実は見ているという具合なので、月子の方では気にするのもばかばかしくなっていたのでした。

それでも紅子が、
「私を愛する資格があるのはあの人だけ」
と言った時には月子は仰天してしまいました。
もちろん雹衛への態度は何も変わりません。優しい言葉はおろか、目線のひとつもくれてやることはありません。
凍皓なら歳は離れていても見た目もよく博識です。それにその場限りのこととは言え、お嫁に貰おうかなどと口にしたのですから。
しかし紅子は凍皓の授業には身が入らず、突き放しこそしないもののまるで関心の外なのでした。

わけが分からぬ月子は姉に尋ねると、
「今の私を一等に想っている人でなくてはだめなの」
と返されました。
いつか大人になる自分ではなく、少女のままの自分を愛してくれる者をこそ必要としていたのです。
今だけが紅子の永久とこしえでしたから。

雪が降った日の方が暖かく感じられるほど、底冷えする寒さが続きます。地形のせいで雪がさほど積もらない代わりにとても気温が下がるのです。
月子はせっせと氷花をこしらえます。
紅子はうっとりとした様子で妹にある頼み事をしました。横にはいつものように雹衛がいましたが、それを聞いても顔色ひとつ変えませんでした。
月子はしばらく思案した様子でしたが、
「そうしたらいつでもお姉様に会いに行けるのね」
と小さく微笑みました。


それから数日後でした。
紅子は晴れ着に袖を通すことなく天へ召されました。
大慌てで東京から駆けつけた父親は、ガラス窓の二階に寝かされた紅子に駆け寄りました。その顔をみるとほっとしたように言いました。
「なんだ。よく眠っているじゃないか」
長い睫毛が影を落とす白い頬はふっくらとし、つんととがらせた小さな唇は少しもの言いたげに開いていました。
伯母が悲痛な顔をして首を振っても父親は断固として認めません。
「駄々をこねてまるで大きな子どもだよ」
帳場に戻った伯母は、夫にそう訴えました。
「紅子は俺の妹にそっくりだったからね。同じ病で弱っていくのを見たくないと、俺らに押し付けたわけさ。こうなって騒ぐぐらいなら、手元に置いて看取ってやればよかったのさ」
と伯父はため息をつきましたが、何も手につかなくなった父親の代わりに葬式の一切を仕切りました。

しかし通夜の前に、紅子は消えたのです。
屋敷はおろか村中が騒然となりました。
凍皓も雹衛も紅子探しに加わりましたが、数日経っても見つかりません。
消えたのは紅子だけでなく、鴇色の晴れ着も一緒になくなっていました。
月子はひとり、霜焼けと赤裂あかぎれのできた手を火鉢で温めております。姉を亡くした月子を気づかって八重が話しかけても、この騒ぎはいつになったら止むのかと聞くばかりでさほど辛いような素振りもありません。
水仕事でできたようなそのひどい赤裂に薬を塗り込んでやりながら、八重は都会の娘は情が薄いものだと感じるのでした。

雹衛が警察に捕まったのはそれからしばらく経ってからのことでした。
紅子は、晴れ着を纏った紅子は山の氷室で氷漬けになって発見されました。
山茶花や水仙、南天の実を散りばめた氷の棺に紅子は閉じこめられていました。髪に結んだバーミリオンのリボンの羽が広がって、紅子自身が花になったかのように光る気泡を纏って凍りついていました。
新聞はこの事件を書き立てました。
しかしそれは雹衛の猟奇的な犯行に始終し、共犯者がいたことには触れません。おそらく雹衛は妹の事は何一つ喋らなかったのでしょう。
月子は東京へ送り返され、その後山村へ行くことは生涯ありませんでした。


❄︎春


月子は獄中の雹衛に何度も手紙を書きました。
雹衛からの返事は短いものでしたが、そのうち絵が添えられるようになりました。
薄い墨絵で少女の姿が描かれているように見えました。
しばらくするうち腕をあげ、月子はそれが自分だと気がつきました。
父親が流行り病で亡くなり、番頭が家業を引き継ぎました。継母は程なく、他所に嫁いでいきました。残していく月子のことを随分気にかける様は、姉と自分が悪しき様に言っていたことが申し訳なくなるほどでした。
長じて月子は女学校の教師となりました。

出所した雹衛は家族親族から縁を切られておりましたので、迎えに行ったのは月子でした。
ふたりはそのまま籍を入れました。道行くふたりの頭上には桜の花が舞散っておりました。
雹衛は鉄工所の職を得て真面目に働きました。
帰ってくると絵を描きます。塀の中では墨一色でしたが、給金で顔料を買い求め大変熱心に描きました。めきめき上がる腕前には月子は感心しきりの程。
描くのは決まってうら若い乙女、それも歳のころ12、3の少女ばかりです。鴇色の着物を着てバーミリオンのリボンを結んだその少女を見た時、月子はふっと息を呑みました。それから全て解りました。
夫が描いているのは、紅子なのだと。刑務所にいた時から、雹衛は見つめ続けた紅子の姿を白い紙の上に追っていたのだと。

紅子によく似た月子は、雹衛の側で歳をとっていきました。
紅子は雹衛の中で冷たく時を止めたままでした。





おしまい



読んでくれてありがとうございます。