見出し画像

璦憑姫渦蛇辜 12章「徒神(あだがみ)」⑤(第2部完)

 タマヨリには何もかもが思いがけないことばかりだった。思いがけない、望まない、とんでもないことが起きたが、自分ではまるでどうしようもないことばかりだった。
賽果座サイハザにいた時、巫女が告げる予言に、王も臣下もみなこうべを垂れた。予言はただの占いではなく、来し方から行く末までをなぞった真実だった。それを違えようなど人の身には大それたことだった。

亜呼はうらないの際、良い事と悪い事を告げた。決められた道に逆らうことはできなくても、選ぶことはできる。最善を尽くして後は委ねるのだ。神の依代となり、神と人とを繋いだ代々の巫女がしてきたことだ。

『母なるものを殺し、父なるものと交わり、その者、真海の最期の王とならん』

彼女に下された予言は驚天動地の沙汰。さらに姉と慕う者と睦みあっていたはずの男が、手の平を返したように母の夫となる。
屋敷は三日三晩祝宴に沸いたが、タマヨリは当然のように蚊帳の外であり、また当人とてどんな顔をしておればいいのか分からなかった。

宴席の後の片付けをしながら、物思いにかられていると、思いがけない声に呼び止められた。
「タマヨリ」
まだ酒が抜けていないのか、普段なら蒼白とみえる肌にも赤みがさした乙姫が立っていた。
「母上!」
タマヨリの目がさっと全身にはしる。母の機嫌がすこぶる良いのがみてとれた。
「『波濤』をのう、取って参れと命じたが使いも果たせぬ役立たずじゃなぁ」
「……それは」
そこにくりやから桶を提げて凪女が戻ってきた。
「乙様、いかがされましたか」
「凪女か。これが『波濤』よりも気の利いたものを持ち帰ったのでのう、労ってやろうかと思うて」
乙姫は鷹揚に笑みを浮かべた。
「それはそれは!姫さま、ようございましたね」
凪女は桶を落さんばかりの朗らかさを見せた。
「えっ、おれ、いや私に?」
乙姫の背後から泳ぎ出たウツボが残り物に食らいつくのを、しばらく目で追っていた乙姫は辺りをうかがうような素振りを見せた。

「おまえも、ワダツミも、しょせんは徒神あだがみ。人ならば分不相応な力といってよいが、海境うなさかすら見つけられぬ無能の神。半端ものなのじゃ。竜宮お里が恋しいと不貞るあの男も、妾の巫術ふじゅつがあってようやく一人前として振舞える。妾があやつを上手く使ってやろうぞ、よく連れてきた」
「母上はワダツミのこと、好いとるわけではないのか?」
タマヨリが尋ねても、答えるのも無駄だとばかりに口を閉じた。
「ワダツミ様は姫さまの御父上になられたのですから、縁も幾重になるというものです。大切になさって下さいまし」
「いや、凪、それがすごく変な感じがするのじゃが」
飽食したウツボが戻って来ると、幾分興味を失いつつも、
「して、褒美は何を望む? 」
と乙姫はぞんざいに云った。
「うっわあ、本当にいいのだな。おれ、おれは……、あ、私は」

タマヨリは考えた。彼女にとっていちばんの褒美は着物でも装飾品でも、食べ物でもない。
「私は、母上が喜んでくれたのなら、それがいちばんの褒美です」
タマヨリは今一度、考えてこう云った。
「しかし、もし、望めるのならどうぞ、凪を人間の姿に戻してあげて下さい」
膝を折って深々と頭を下げた。
「お願いです、母上」
「はん。ましな寝床でも乞うのかと思えば……。おまえに情けをかけるのはこれきりじゃぞ」
もの言いたげな凪女を制してタマヨリはもう一度頭を下げた。
「それが私のお願いです」
「良かろう」
「ありがとうございます母上!」

その場で乙姫は何事か諳んじた。
屋敷の中を風が駆け抜けた。いつの間にか屋敷は陸にあり、岬に建っている。並ぶ柱の連なりの向こうに朱に染まる夕空が見えた。かと思うと驚くほど暗い場所へ屋敷は戻っている。
その刹那に何かが転じたのだ。
凪女の恐る恐るはだけた衣の裾から、白いすべらかな脚がのぞいた。
「まあ」
と思わず声を上げた凪女に、タマヨリは駆け寄った。
「姫さま、凪は嬉しゅうございます。この様なことをしていただけるのも、そのお気持ちも……」
「ああ!凪」
タマヨリは凪女の手を取った。
しかし握った手には幾筋も皺が寄っている。見れば目の前の凪女の顔には老いの陰が落ちていた。
「凪?」
「はい」
と目元に優しい皺を幾筋も寄せて凪女が見つめ返してくる。
「凪……髪が真っ白だ……」
振り返って乙姫を見れば、小ばかにしたように笑んでいる。

「お前が望んだ通り、人に戻したのじゃぞ。百年生きた人になぁ」
「え、違う!そうじゃない」
目の前で凪女はみるみる老いていく。腰は曲がりは歯は抜け、立つこともままならなくなりタマヨリの握った手に縋り付いてくる。それを支えながら叫んだ。
「母上、止めて!凪が!凪が!」
しかし乙姫は聞く耳など持たない。カタンと音を立て、瘦せて縮んだ凪女の袂から、礁玉に貰った短刀が落ちた。
「凪、これ、おれの」
「お返しせねばと思ってましたが、ひめさまのだと思うとなんとも手放しがたい気がして、今日まで返せず仕舞いでした……」
いたずらが見つかった童のような顔になった凪女に、タマヨリは抱き着いた。
「いいよ、そんなの。凪!ごめん!こんな……ごめん」
「ひぃめ、さま……」
凪女が頭を撫でてくる。
「なぎは……タマヨリひめさまがだいすきですよ……。わたくしのような、つみぶかいものが、ひととして死んでいけるのはありがたいことです」
「嫌だ、凪……」
「ずっとずっと、うまれたときからこのさきもずっと、だいすきですよ」
「凪、待って……」
服の内側で肉の感触が消えていく。
「どうぞ、しあわせになって…………………………」
骨になった凪女はそのまま塵になって消えた。黄檗色の衣が、腕の間をすり抜けておちた。
空蝉を抱く感触と共に、凪女の声だけが耳の奥に残った。

「なんでこんなことするんだ!」
喉を絞るように乙姫に訴えた。
「怖や怖や」
乙姫はおどけてみせた。
「なんで!母上にだって大切な人だったでしょ、なんでこんな酷いこと……」
「決まっておろう。お前の味方をするものなど目障りでしかない」
「私が憎いなら私に返せばいい、それを」
「全て、お前が招いたことじゃぞまだ分らぬか」
「分らんよ」
「お前がいるから不仕合せは起こる。お前がいるから人死にが出る。のう、その都合のいい頭で思い出してみい。お前が生まれたから妾は不幸になった。お前がワダツミを呼んだからお前の故郷に病は蔓延り、兄は焼け死んだ。お前が『いさら』を解いたから巫女は発狂した。お前に関わったから使いの小僧は目を抉られた。そして凪女はお前に味方したから骨になった。そうであろう。母を殺し父と交わる。そんな預言を受けた者が、仕合せになどなれるはずなかろう。なってよい道理もない」
そう言い捨てると乙姫は部屋を後にした。


靴音が遠ざかるのを待って、涙をこぼした。
母の前で泣けば殴打された。泣くことさえ許されなかった屋敷での日々は、凪女がいたから耐えられたのだ。
タマヨリは短刀を拾った。
「欲しいものは必ず手に入れる。それが海賊の生き様だ」
礁玉の言葉が不意に思い出されたが、今の今までそれを覚えていたことを不思議に思った。
ーおれは海賊でもねえのに。
だからといって、もう人々の営みに溶け込むには人とかけ離れてしまったように感じた。
ー礁姐、おれの欲しいものは絶対に手に入らないものだ。

短刀と凪女の衣を持ってタマヨリは屋敷を出た。
岬にでると、頭上は満天の星空だった。時折西の空を星が流れ海へ落ちた。星を飲んだ波は宙の子を孕み、漂う無数の珊瑚の子どもがそれをみる、貝はその内側に黙し、魚は眠ったまま泳ぎ、イルカは夢の奥つ方を目指す、タマヨリは無言のままおらびいていた。

ーお前がいるから不仕合せは起こる。お前がいるから人死にが出る。
母親の言葉が海鳴りのように響いて止まない。
夜の海の暗い渕が誘った。
タマヨリは短刀を喉元にあてがった。
星明りに波が白く砕けた。岬の下には岩礁が広がっている。引き潮の今夜はそれが剝きだしだ。
そこを目がけそのまま真っ逆さまに飛び降りた。
鯨の目がそれを見ている。


終わり





しあわせになる​


第3部へ続く


読んでくれてありがとうございます。