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璦憑姫渦蛇辜 11章「母と娘」②

 タマヨリは血を拭った。痛みは痛みでなくなっていた。どこにも何も感じなかった。目の前の母と凪女のやり取りも遠くの出来事のようだった。
ー嘘ではなかったんだな。
と思った。
兄弟達が「母上殿はお前が嫌いだ」と云ったのは嘘ではなかった。何かが抜けおちた心内でそれだけ反芻し続けた。
ー嘘ではなかったんだな。嘘ではなかったんだな。嘘ではなかったんだな嘘では……なかったんだな、嘘ではなかったんだな。
自分の中で、何かが何かを置き去りにしたまま早足で過ぎていく。
ーああ何が嘘で何が嘘ではないんだったっけ?
タマヨリ中には像を結びそうで結ばない、想うだけの母親がいた。
会ったことのない母の面影。旅先で見た幾人幾百人の母親の声姿を重ねて作りあげた、幻の母の手が胸が声が眼差しが寄せて返す。
ーああ。あれは嘘だったんだ。
あんまり夢想し過ぎて、よほどそれが本物のように思えていた。
ーあっちが全部嘘だったんだな。こっちのお母さが嘘でなければ、そうだ、もう夢のお母さには会えねえんだ………。
鼻の奥がつんとして滴る涙を押しのけて、新しい涙が湧き上がった。

呆けたように座っているタマヨリを、乙姫は水鏡の前に引きずっていった。「見ろ」
と云われ覗き込むと、顔のひどく浮腫んだ血に汚れた自分が映っていた。
「ほうら化け物が映ってるだろ」
と云う乙姫の声はどこか勝ちほこっていた。
ーおれは………化け物………。
酷く歪んでいるがまだ人形ひとがたの内ではないのか、そう考えるタマヨリはただぼんやりしているように見える。
「ほら、よく見てごらん。本当のお前がどれほど醜いかを。……なんだい、恐ろしくて声も出ないのかい」
上から乙姫は鏡を覗きこんだ。二人の顔が並べば、そこに映ったのは娘と老婆だった。
鏡の中で乙姫が憤怒の形相に変わる。
「違うだろう!お前の正体は、お前の顔は! 」
激昂した乙姫の爪がタマヨリの頬を裂いて、血が水鏡に落ちた。
血の波紋が広がり、鏡の面に小波が駆けた。

タマヨリはこれと同じものを、賽果座サイハザの巫女と共に見たのを思い出した。水は渦巻き黒濁し、禍々しい気配で満ちた。
あの時、巫女の口を借りた鏡はここでは自らの姿を変えた。
水盆から水は溢れ出し、飛沫を上げて噴き出し、宙空に一つの像を結んだ。
魚だった。
紅い鱗には黒い不気味な紋様が浮き上がり、剥き出しの目はぎょろりと歯は牙のように口から突き出し、その口も獰猛な魚類の証に大きく裂けている。怪魚と云うに相応しい、複眼を並べた頭。
大きさは水鏡が見せるより遥かに大きいと思われた。鯱よりも鯨よりもはるかに大きいのだろう。骨が棘のように突出した尾鰭が、その大きな身体にどれほどの俊敏さを与えているか想像させる。
それが噴き上がる水の中に映り込み、鰭をかいてタマヨリを見下ろした。
鮫もふかも恐ろしいと思ったことがないが、これには震えた。怖れもあったが嫌悪だった。
タマヨリに生じた鱗と怪魚の鱗は、同じだったのだ。
そしてその体の紋様は、ワダツミの入れ墨によく似ていた。
「そう!これだよ、これ!」
乙姫は高らかに笑った。
「璦憑!見たかい、あの醜い紋様を。あれはね、竜宮の罪人の印だよ。
お前は、罪人の魂が憑いて生まれたタマヨリ姫だ!ははは、忘れたってそれは消えないよ。お前が生きている限り、ずーっとずーっとさ」

「……ワダツミのーーー」
刹那、あらゆるものを掻き分けて懐かしさが込み上げてきた。
ーだから……この魚がおれの本当の姿なんだな。
立ちすくむことしかできないタマヨリに乙姫はようやく満足げな笑みを浮かべた。
「妾は優しかろう。怪物のお前を身籠もってやり妾の全てを与えてやった。生まれてすぐに殺すこともできたが、こうして生かしてやった」
靴音高く乙姫は階を登ると、椅子に大義そうに身を預けた。
「ついでにどうしてお前が生きながらえたか教えてやろうか」
乙姫の背後から現れたウツボが宙を泳ぎ、タマヨリの回りを一周し視線をさらうと凪女の足元に這い寄った。
「まあ見てご覧。薄気味悪さはお前といい勝負だろう」
ウツボは凪女の衣の裾を咥えて跳ね上げた。
屈辱に眉を顰め小さく震える凪女の脚は、人間の脚ではなかった。
一塊の肉柱はもはや肌が見えないほどフジツボとカメノテに覆われ、膝の下辺りでようやく二つに分かれたその先には、海脚類の鰭のような不恰好な大きな足がついていた。
ウツボは何度も裾を咥え上げ晒し者にした。

「ああ、なんと哀れなことよのう凪女。お前は大変器量の良い娘であったのに、二目と見られぬ身になったものよ。どれもこれもタマヨリのせいじゃなあ」
乙姫は目を細めてタマヨリの顔色をうかがい、呆然とするしかない娘にこう続けた。
「凪女は大陸から嫁入りの航海中、難破した船から妾が助けてやったのじゃ。教養高く品の良い娘だったのでのう、人の身ながら妾に仕えることを許したのじゃ。かれこれ100年は経つかのう、幾つになっても若いまま、妾の術のおかげでな。そんな従順な側付きが逆らいおった。どこか遠くへ流して殺してこいと云った赤子を、生かした。それが妾に見抜かれるや、這いつくばって命乞いじゃ。自分のではないぞ、化け物の命をだ。呆れたわ。だが嘆願は聞き入れられ、凪女は代償として人ではなくなったのじゃ。ああ、酷い話であるなあ、お前さえいなければ、妾の可愛い側付きはこのような惨めな姿にならずに済んだものを」

タマヨリのもう涙尽きるほど泣いた両の目から、二筋の涙が伝った。
乱れた裾をただすと凪女はタマヨリに向かいあった。
「姫さま、凪は何一つも後悔しておりませんよ」
「ふん、よく云うわ。妾の子どもらに揶揄われベソをかいておるくせに、まこと見栄の張りようは人間の時から変わらぬな」
捨て台詞と共に乙姫は立ち上がり、ウツボを従え御簾の奥へ去っていった。



 タマヨリは浅い眠りを何日か繰り返した。
岬のいわやまで兄弟たちがわざわざ様子を見にきては、茫然自失の様を嗤った。言い返す元気もないタマヨリを揶揄い責め立てたが、何をどう云われても彼女の心は深い場所に嵌まり込んで、何にも聞こえてはきやしない。
 凪女は傷が早く癒えるようにと、薬草を摘んでは窟を訪ねた。
すり潰した野草を一際深く切れた額へ当てがう。どこまで行って手に入れたのか、白樺の樹液をタマヨリの口へ運んだ。
 彼女が口にできるものはそれだけだったのだ。
「すまないなあ……」
タマヨリの声は消え入りそうなほど小さかった。
「ちっとも」
と凪女は微笑んだ。
ゆっくりゆっくり樹液を飲み下しながら、タマヨリは云った。
「兄ぃさが見たんだよ。霧の浜辺に……美しい女の人を。おれは……それを、自分のお母さだと、信じてた……」
「そう、ですか」
「凪……だったんだな」
「あの時は南へとくだりました。小さいけれど美しい島を見つけたので、ここだったら姫さまもお仕合わせに暮らせるのではと」
「仕合わせだったさあ」
タマヨリは遠くを見つめて微笑んだ。それがあまりに儚い笑みだったので、凪女は胸騒ぎを覚えるほどだった。
「でもさあ、もう無くなってしまった。誰か、生き残った者はおるかな」
凪女は答えることが出来なかった。何故なら南の島は海底火山の噴火で跡形もなく消えたと知っていたからだ。乙姫の水鏡が映したその消えゆく島と共に、タマヨリの命も尽きたものだと思われていた。
波と共に潰えるはずの命をながらえた凪女だったが、帰ることのできないやるせなさをどれほど味わっただろう。島がもう無いとはとても云えなかった。

「すまなかったな」
と今度は幾分生気のある声で云った。
「おれを助けてくれたから、そんな脚になってしまった。母上に見限られた、化け物のおれを」
「何度も申し上げますが、凪は一つの後悔もございません。それに姫は化け物ではなく、活発でお優しい姫君にございます」
「これでも化け物ではないか?」
タマヨリは袖を捲り上げ、鱗に覆われた腕を見せた。
「腹に腿にも生えている」
すると凪女は自分の裾をはだけて、鰭のある脚を見せた。
「姫さまは凪を化け物だとお思いですか」
「えっ、いんや」
タマヨリは口篭って下を向いた。
「それは、おれを庇った……あれだし」
「はい。私が姫をお救いしたくてした末のことです」
「あああ!凪、すまん」
「いいえ、姫さまもそうだったのではありませんか?巫女殿のお社で、『下海』の領域で、大切な方を守ろうとしたのでしょう。二度めは、そうなると知っていて、あえて『いさら』を抜いたのでしょう。そんなあなたのどこが化け物なのでしょう。勇敢でお優しい方なのです」
タマヨリは恥ずかしそうに首を振ったが、そのまま凪女の膝の上に頭を載せた。
フジツボの生えた脚をゆっくり撫でた。それには彼女も驚き、裾を戻そうとした。
「そのまま」
と云ってゴロリと上を向き、下から凪女を見上げた。
「おれ、凪がお母さならよかった」
凪女は何もいわずタマヨリの額の薬草を取り替えた。その目からは音もなく涙がこぼれた。
「姫さまのお母上は、乙殿ひとりにございます」
「分かっとるよ。……でも、おれの願いは叶わないんだ」
タマヨリの喉から熱い息が漏れた。
「一度でいいから、本当のお母さんに抱きしめて欲しかった」
それはタマヨリの生涯で、一度も消えることのない願いだった。






11章おわり

12章「徒神-あだがみ-」へ続く


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