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5月の窓11月の椅子◇5◇

<5>お客さん/アヲ

薬を変えてもらったのは正解だった。
調子がいい。週4日の勤務も問題なくこなせている。
来週、病院に行ったら減薬についても聞いてみよう。アヲは錠剤を飲み下し、余った水をシンクに捨てた。

影の中に潜んでいて、気づかないうちに背後から侵食してくる闇のようなもの。それがアヲの鬱のイメージ。
診断名がつくまでは、それを「ヤミヤミ」と呼んでいた。ヤミヤミが顔をのぞかせてるとか、ヤミヤミにつかまってる、とか。たいていは、自分ではどうこうしようもなくなってからヤミヤミに気がつく。
さらに、調子がいい時を見計らってヤミヤミは足元をすくってくる。人生がヤミヤミに乗っ取られてしまう底なしの恐怖。

でも、そこからこうしてひとつひとつ手繰り寄せることはできた。
海辺の小さな家、大好きな人たちが帰ってくる場所、穏やかな巣。



玄関先でクルマの音がした。
アヲはもう一度鏡で身なりを確かめてから玄関を開けた。
真っ赤なアウディから理玖が先に降りて、トランクから荷物を降ろしている。運転席から出てきた女性はあっさりしたシャツにグレーのパンツ姿、グリーンのカーディガンがお洒落だった。
自分があまりにも部屋着っぽい格好の気がしたがもう遅い。ダボダボのロンTの袖を捲り直した。

クルマのわきで理玖と女性が話している。理玖は段ボール箱を、女性は小ぶりなエコバックを持って近づいてきた。

「お帰り」

と言いながら理玖の後ろの女性に会釈した。

「僕のパートナーです。こちらは鴻池さん、スイミングの生徒さん」

鴻池さんはそのまま時でも止まってしまったようにアヲを見ていた。
アヲも突如生まれた真空状態の中で彼女を見つめ返すことしかできない。理玖も言葉が出せない。
長い数秒の沈黙の終わりは風船が爆ぜるように、きた。

「コーチ」

そう言って、止まっていた呼吸を回復させるように鴻池さんは腹の底から笑った。

「ご結婚なさってたんですね。私なんで独身だと思ってたんだろう。ああ笑っちゃてごめんなさい。自分がおかしくて」

鴻池さんは目を細くしてほほ笑んで、プールでお世話になっていますと挨拶した。ようやくアヲも挨拶を返し、家の中へ招き入れた。


キッチンで理玖とアヲがコーヒー豆について相談している。

「インスタントじゃなくて、冷蔵庫にある豆で」「どこ?」「え、ない?」「使っちゃったと思う」

来客に心なし気分が高揚しているのがお互いに伝わる。それは鴻池さんにも伝わっていて、そのおもてなしの気配は彼女をリラックスさせるには充分だった。

鴻池さんはソファに浅く腰かけて、室内に視線を巡らせた。
古い家屋をフレームだけ残して大胆に改装してある。剥き出しのべニア板はあえてだろうか、作りかけなんだろうか、値の張りそうな家具はないがシンプルで整っている。
カーテンレールでなくバーにクリップ留めされた布がミナペルホネンの生地で、若い人らしいと思った。歳なら若くはないが、新婚さんっぽさがある、これから生活を作っていく人の若々しさだ。

結局インスタントコーヒーを出されたが、自宅のエスプレッソマシーンで自分のためだけに入れたものより、嬉しく感じる。
彼女はどこに行ったってお湯で溶いたコーヒーなんて飲まないのに、この時はミルクと砂糖をたくさん入れて飲んだ。嬉しいけど美味しくはない。

「甘いのがお好きなんて、意外だな」

と理玖が言うので、

「これがいちばん美味しい飲み方なのよ」

と笑った。

鴻池さんにとってお付き合いは予定帳を埋めるためのもの、コロナのあれこれでサロン的な集まりも減りそれはそれでちっとも残念じゃなかったのに、家にいる時間が長いほど夫の不在を感じた。
しかも夫には他に好きな女がいるのだ。
どうってことないと思っても、どうってことなくはないのは自分に隠せない。
そこで理玖だ。
あの穏やかな低い声の青年くささの消えない太田コーチなら、自分の相手になってくれそうな気がした。
マッチングアプリなんかではだめだ。いかにも本腰入れて浮気をするみたいじゃないか。

そう思っていた数分前の自分が、気恥ずかしく滑稽だった。



アヲが豆皿にピノを二粒のせてすすめてきた。

「柿のタネ買ってきたからそっち出したら」

理玖がエコバックをかき回したが、

「結構ですよコーチ、いただきます」

と鴻池さんは添えられたプラスチックのピックでピノを口に運んだ。

「コーヒーに合うのね」

それを聞いてアヲは笑みを浮かべた。
くしゅっとした顔からはどこか冷たいような感じが抜けて、茶色の瞳が柔らかだった。

理玖は台所で夕食の支度に取り掛かったので、アヲは自分が話相手になるべきか考えた。とりあえずピノはお好きなようだから追加しようと思いついた時、砂利道をタイヤがかき乱す音がした。
ダイナミックな運転をする人だと鴻池さんが思っていると、

「りーくー、”ポストマン”がアウディになってるんだけどどうしたのー」

玄関が開くと同時に景都の声が廊下に響いた。

「あれ、誰か来てるの?珍しいね!」

声は足音と共に大きくなりリビングに仕事帰りの恵都が顔を覗かせた。

「おかえり」「先に手洗いしてきなよ」「スイミングの生徒さんなんだ。バイク、調子悪くて送ってもらったんだ」

アヲの言葉は無視して、恵都はリビングに入ってくるとこう言った。

「それはすみません。夫がいつも世話になっております」

鴻池さんはまた先ほどと同じように、時間が止まったようにポカンとしてしまった。


続く









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