璦憑姫と渦蛇辜 5章「いさら」②
卜いに使う宮中の奥の間は巫女とごくわずかな許されたものしか入れない。タマヨリはそこに入るのは初めてで、阿呼についてこいと云われるまま来たのはいいが、だれかに見られたら大目玉だなと内心びくびくが止まらなかった。
丸太造りの重い扉が閉まると、ひとつきりの天窓からこぼれる光が薄明るく内部を照らした。奥の壁には森と山とが簡素な線で描かれ、その真ん中に部族の祖である人のように立ち上がった鹿の姿があった。手前の台には立派な牡鹿の角が据えられている。
タマヨリが絵に見入っている間、阿呼は平たく大きな器を水で満たし儀式の準備をしていた。初夏の熱がこもっていたが彼女の所作は流れるように涼やかだった。振り返ってその様子を見るタマヨリには、阿呼がふだんとあまりにも違うのでかしこまってしまうのだった。
「来て」
と云われ、神妙な面持ちでずるずると移動し示された場所に座った。
「巫女は自分のことをうらなってはいけないの。だけど私の近くにいるあなたのことを視れば、私のことも少しは想像がつく」
阿呼がいつもの笑顔を浮かべたので緊張のとけたタマヨリは、
「浪のことか?」と聞いてみる。
阿呼のまなこが少しだけぱちりとしたので、タマヨリはなるほどと思ったが彼女は、
「タマが危ない目に合うのは避けたいの。身代わりなんて……。でもそれは、視ることができる。視てわかっていれば、最善を選べるの、わかる?」
と続けた。
「わかるよ。なあ阿呼は何でも視られるんか?」
「それは水鏡が教えてくれることだけよ。全ては分からない」
「じゃあ、もし、もしもだけどよ、おれのお父さとお母さのこともなんか分かったら教えてくれよ」
「いいわ」
阿呼はタマヨリの髪を一房切り落とさせると、それを鹿の絵の前に供え火をつけた。髪の焦げるにおいが鼻をさす中、阿呼はさきほどの水を張った器の前に座り祈りはじめた。器は水鏡となって巫女はそこに吉兆を視るのだ。
髪が燃え尽き、匂いがかき消えた後も阿呼は静かに水鏡を見つめていた。どれほど待てばいいのかわからないタマヨリは静かすぎて眠たくなるのをこらえながら、じっとしていた。鹿の絵が動いた気がした。眠気で目がぼんやりしたのかと居住まいを正したが、何か人ならぬものの気配が部屋に満ちている。口にたまった唾を呑めず、タマヨリは眼玉だけで辺りを探った。
水鏡の表面が激しく波立つのをタマヨリは見たが、阿呼は驚くこともなく同じ姿勢のままだ。しかし突然全身を震わせたかと思うと倒れ込んでしまった。
「阿呼?大丈夫か?」
そっと近づいたが躰はだらりとのびている。名を呼びながら仰向かせると、亜呼の目は半開きのままどこも見ていない。気を失ったようにみえるが呼吸は浅く、苦しげな巫女の喉から声がもれた。
「…………ノ ムスメ」
それは阿呼の声ではなかった。タマヨリは息を呑んだ。
声は地の底、水の底から聞こえてくるような、言葉というより禍々しい音だった。阿呼の躰を通して阿呼ではないものが語りだした。いずこかのただれた裂傷からひりだされる韻律は、水鏡と響きあって虚空を揺らした。
「……チチ ナル モノ ト マジワリ ……ハハ ナル モノ ヲ コロシ…… シン カイ ノ……サイ ゴ ………オ オ…ン…………」
タマヨリは耳を塞いでしまいたかったが、かわりに何か恐ろしいものに捉われたような阿呼の肩を強く抱いた。
声はそこで途切れ、水鏡の波がゆっくりとひいていった。それに合わせ阿呼の目はすーっと閉じしばらくして呼吸も深くなった。
呆然としていたがタマヨリは人を呼ぼうと立ち上がった。
一昨日からハトがきて、居室の前で寝こけている。彼に手伝ってもらって阿呼を部屋に運ぼう。
そう思い、奥の間を出てタマヨリは驚いた。宮中に火の手があがっていたのだ。
「ハト!ハト!」
駆けまわったが煙のせいで視界は悪く、そこここで怒声が上がってタマヨリの声は届かない。火からのがれ駆けてくる女を捕まえ、「お前ハトを知らんか?」とたずねたが女は怯えて真っ青だ。
「厨番のチガヤじゃな。火事か?火元はどこじゃ?」
聞き直すとチガヤはかぶりをふって、
「違う、違う。賊がきた。ああ、あんたは阿呼さまの」
とタマヨリの手を握った。
「早く阿呼さまをお連れして逃げなさい」
「それが奥で倒れちまって」
「わかりました。あたしも行きましょう。護衛は?」
「今、探しにきたとこだ。阿呼のところへ行ってくれ、おれはハトを探す」
「いいえ、男衆はあっちで戦ってますから」
女は火煙のたつ方を指さした。
「肚竭穢土が打ち入ってきたのです」
「えっ!?」
「白昼堂々、突然に」
「そりゃ阿呼が……」
タマヨリは女と共に来た道を戻った。
賽果座の現王のいる屋敷ではなく、巫女のいる社を襲ったとなれば狙いは阿呼だ。すぐに代わりの用意がある三族の王と違い巫女は一人。彼女の存在があってこそ一つの国としてまとまっているのだ。いなくなれば混乱が起きることは必然。
來倉を皮きりに近隣の部族を従え、勢いをます賽果座に肚竭穢土は危機感を抱いた。兵士は浪に率いられ国境まで出払っており常より少ない。礁玉やワダツミは遠征で北の海にいる。それを見計らっての奇襲だった。
「大勢か?」
「わかりません。でもそう多くはないでしょう。入ってくるまで気がつきませんでしたから」
「くそ、夷去火だけでもいてくれたら。あっ!!!」
建物のかげから引っ張られ、タマヨリは倒れた。
「ハトだよ!大変なんだよタマ、お前どこにいたんだ?」
「分かってるよ。急にひっぱるな。それより探してたんだ」
「ハトもだよ、あちこち探してた」
ハトの額からは滝のような汗が流れていた。屋敷中駆けまわっていたのだろう。
「ここのジジイどもが、タマを連れて来いって」
「いや、今、阿呼が奥で気を失ってるんだ。連れて逃げよう」
「お前だけ逃げろ!」
ハトの云わんとすることがタマヨリには分からなかった。
「ジジィども、タマを連れてこいとハトに命令した。わからんがあまりいいことじゃない。ハトそんな気がする」
「身代わりじゃな」
「それ、よくない!」
ハトが首をぶんぶん振った。
「ここに来た時、浪とコトウに云われたんだ。何かあったら、阿呼の身代わりになれって」
「いいえ、逃げましょう」
とチガヤが云った。
「私、抜け道がわかります。阿呼さまをお連れして、みなで逃げましょう」
「阿呼もいっしょじゃ。な、ハト」
「わかたよ」
しかし奥の間まで戻った時には、数十人の肚竭穢土の兵士が先についていた。
「ダメだあ」
扉の前で正面からにらみ合う形となりハトが頭を抱えた。まだ奥の間には誰も入っていないことだけが救いだった。
「あんただけでも逃げな」
チガヤが囁いたが無理なことは明らかだった。
兵士は三人をじろじろ見ると、頷きあった。
「その娘は、賽果座の巫女だな」
違うと云いかけたハトを制して、「大丈夫じゃ」とタマヨリは云った。指先が震えている。
兵士が弓を構えた。
「まってくれ。おれたちは、なんもしねえから。待ってくれ」
タマヨリはハトとチガヤの前に出た。
「なんもしねえから、なんもせんで欲しいんじゃ。な」
娘の言葉使いの粗野さに兵士たちは一瞬顔を見合わせた。しかし着物や装身具、濡れた黒髪や真珠の肌は明らかに他の者と違っている。まだ子どもだが双眸は深い海のような惹きこまれるほどの深みをたたえていた。
「我々は肚竭穢土より西の蛮族を成敗しに来た。巫女はこちらへ来てもらおう」
タマヨリは小刻みに頷くと、震える脚で兵士のほうへ歩いていった。
「来たぞ。あいつらも、別に、なんもせんから弓をおろして」
兵士は弓を降ろしたが、中の一人が叫んだ。
「こっちの男は海賊だ」
集まった視線にハトはきょとんとした。
「入れ墨を見ろ間違いない。こいつは礁玉の一味だ。おい、俺はこいつをやるぞ!」
若い兵士が一人進み出てくると、制する仲間を振り切って大声で叫んだ。
「俺の村は海賊に襲われ、兄貴は生きたまま鯱に喰われた!恨みを晴らさせろ!」
切りかかってきた兵士の一太刀をぎりぎりで避けたハトは、腰にさした剣を抜いた。
しかし相手は一人きりではなかった。すぐに囲まれ人垣の向こうから甲高い悲鳴が上がった。
「お願いだ。やめてくれ!」
タマヨリの云うことに耳をかたむけるものはいない。左右から抱え上げられ抵抗できないハトに若い兵士は云った。
「両腕を落としてその火で炙り殺してやろう」
「待てよ!」
「タマ!逃げるんじゃ!」
ハトが叫んであらんかぎりの力で暴れた。海賊仕込みの力で相手を押しのけ兵士の剣を取ってぶん回した。
タマヨリの目はあの日を映して、その場から逃げることが出来なかった。
火の粉をあげて迫ってくる炎。ハトを取り囲む男たち。その顔はぬらぬらと炎を照り返して気味悪い影を落とした。
―兄ィさ。
タマヨリの中で、村で焼かれた家と兄にハトが重なる。目の前で焼かれていく兄をどんなに懇願しても誰も助けてくれなかった。
―兄ィさ、兄ィさ。おれの兄ィさを焼かないで。
何か稲光のようなものがタマヨリの背から全身へ駆けて、震えと共に膝をついた。チガヤは駆け寄ろうとして、彼女を包む異様な気配に足止めされた。
目の前に見えているものが、ハトなのか兄なのかタマヨリには分からなくなっていた。
腹の奥で何かが脈を打った。
血潮が駆け巡って、それを連れてくる。
こみ上げてくるのが苦しさなのか怒りなのか定かではなくなり、腹を抑えてえずいた。手に何か触れた。両手でそれを握って引き出せば、腹からずるずるとそれは伸びた。
近くにいた兵士が目にしたのは異様な光景だった。
タマヨリの臍の下から柄と鍔が現れ、剥き身の刃がえずく娘の手によって引き出されていた。それは服を割くことも身を傷つけることもなく、ずるずると引き出された。姿をあらわしたのは、冷たく輝く一振りの儀仗だった。
彼女はそれを地面に突き立て、身の丈を超える儀仗にすがるようにして立ち上がった。
周囲の兵士は一斉に彼女を振り返った。聞こえるはずのない海鳴りが聞こえた。
……チチ ナル モノ ト マジワリ ハハ ナル モノ ヲ コロシ シン カイ ノ ……
阿呼の喉から響いたあの声が、彼女の耳の奥で弾けた。
「ソノ ツルギ ノ ナ ヲ イサラ」
その声はタマヨリの口から出たが、聞いた者は血の海に倒れた。
出した剣を杖代わりによろよろと立つタマヨリの、意志ひとつで矢のような雨が降った。
「アメ」
と力なくつぶやくだけで、虚空に現れた潮は鋭いつぶてとなって兵士たちに降り注いだ。
その隙にチガヤは奥の間へ駆けこんだ。その場にいたら人を選ばす矢の雨が降っただろう。ハトも雨に頬を切られて、きょとんとしている。
「タマ?」
「兄ィさ」
タマヨリはハトを虚ろな目で見つめ返すと微笑んだ。
「巫女だ。巫女から剣を取り上げろ」
兵士が叫び飛びかかろうとするが、
「ナミ」
という一声で地面に逆巻く大波が現れ兵士たちを流しさった。
「人を集めろ!」
傷は負っても致命傷とはならない。畏れる気持ちを奮い立たせ兵士たちは向かってくる。盾があれば雨の矢は防げる。波に押されても水は長くはとどまっていない。
「まやかしだ。蛮族の奇術だ。とらえろ!」
兵士の手はタマヨリのみならず傷ついたハトにも迫ってくる。目を閉じて大きく息を吸ったタマヨリは儀仗を持ち上げた。重みはなかった。
ああ、ずっとこれは自分の躰の中にあったのだと彼女は想った。兄ィさが命がけで取ってきたあの貝殻片はずっと自分の中にあって、今姿を変えて助けてくれる。だからそれを揮うことに躊躇いは生まれなかった。
「ゲカイ」
彼女の一言でその場の動ける兵士が全て水球の中に吸い込まれた。水の玉に閉じ込められて、出ることかなわずもがく兵士。助けようと外にいる者が押そうが蹴ろうが剣をさそうが、水球は形を変えることさえしなかった。水の中で兵士たちはもがき苦しみついには息絶えた。
王宮から知らせをうけた兵士たちが社に駆けつけた時には、肚竭穢土の兵士の大半はかわり果てた姿となって横たわっていた。
騒ぎが止む頃、チガヤに支えられ奥の間から蒼白な面持ちで阿呼が出てきた。水鏡の悪夢がこびりついたまなこには、夢と現の境はなく、覚め切らぬ彼女が見たものは、返り血を浴び無数の屍の中に立つタマヨリの姿だった。
*儀仗…儀礼用の武具。ここでは舞の奉納などに使われる飾り太刀。
続く
読んでくれてありがとうございます。