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5月の窓11月の椅子◇4◇

<3>プール②/理玖

鴻池さんに自宅まで送ってもらって、そのまま帰してしまうのは失礼だろうと理玖はアヲに連絡を入れることにした。
文面はお客さん連れてきます、でいいだろうか……。
考えながら、スマホを出すのに鞄を開けるとプールの匂いがした。

水泳部だった頃からの馴染みの匂い。屋外プールの四角い水面、プールサイドに溜まった温い水。カルキ臭に混じって、どこからともなく生乾きのような匂いがしていた更衣室。そんな高校時代の風景が脳裏をよぎる。懐かしいような匂いは鴻池さんからもしてきた。彼女は香水を使っていないようだ。

◇       ◇       ◇

アヲ---遠海向葵(とおみあおい)とは高校2年の時同じクラスだった。

周りからは少し浮いている感じだった。色素が薄く髪の毛も茶色味が強かったせいか、教師の心象を悪くしているようでもあった。

理玖が部室の鍵を取りに職員室へいくと、担任の女性教師と体育の男性教師を前にアヲが直立していた。

話はアヲがプールをずっと見学していることらしい。肌が弱いという理由で許可願いは提出した、去年はそれで問題なかったというのがアヲの言い分で、今年はダメだというのが教師2人の結論だった。

聞き耳をたてたわけではないが話は耳に入ってきた。ずっと並行線のようで他の教師もチラチラと様子をうかがっていた。

「水着を着ないでいいなら、いいです」

アヲが言うと担任がわざとらしいほど声を立てて笑った。体育教師も失笑した。

理玖はそれを聞くと職員室を出た。

◇       ◇         ◇

部活開始直後、プールサイドに数名の女子生徒と体育教師が現れた。
体育教師から補講として1レーン使用すると通達があった。
アヲの姿は直ぐに分かった。
水着の生徒の中でひとり体操着だった。

「なーにじろじろ見てるの太田ぁ」

可愛い子いた?と聞きながら同期の城崎が近づいてきた。
光の網が揺れるプールの向こうで、体育教師がアヲに何か言っている。

「同じクラスのやつがいてさ」
「あの茶髪の?」
「生まれつきだって」
「ふうん色も白いもんな。あいつキレーだけど何考えてるか分からんよな」

アヲから目を離した一瞬だった。
ザバんと水面を打つ音がして、女子生徒の短い悲鳴が上がった。

「飛び込んだ」

と城崎が言った。

「遠海が?」
「……うん、あいつ何やってんの? 服のままで、補講受けにきたんじゃねえの」

抗議したんだ、と理玖は思った。
職員室でのやりとりを思い出す。

いつまでたってもアヲは浮かんでこない。
体育教師は憮然とした表情で水面を睨んだままだ。
他の部員も成り行きを見守るように動かない。

「ヤバくない?」

と城崎が言ったとき、理玖はもうプールサイドを駆け出していた。
アヲの水没した近くまでくるとそのまま頭から飛び込んだ。

プールの底で仰向けで口を押さえてアヲは沈んでいた。浮き上がるまいと力の入った身体を引き上げると、水の中で目が合った。
ずいぶん長いこと見合っていたんじゃないかと思う。
ちょっとの間だったのかもしれない。

「同じクラスの子なんで」

引き上げた後、物言いたげな教師とザワザワしてる生徒を残し理玖は保健室へと向かった。
城崎がタオルを投げてよこした。
アヲの肩にかけると「あ、ごめん」と言われた。ブラジャーを付けてないようで胸が透けていたが、自分がそれに気づいたことにアヲが気がつかなければいいと思った。


それからーーー。

それを話したのが直後の保健室だったとアヲは言うし、理玖はもっと後だったと記憶しているが、いつ何をしたのか言ったのか曖昧になるほどそれから時間と言葉を重ねたのだ。


「水着を着ると女だってなるじゃん、どうしても」

「制服は、いいの?」

「スカートは男も履くじゃん。スコットランドだとタータンは正装だよ。そう思って、着てる」

「へえ」

「水着だとさ、体が露骨に……だし、それを自他共に、って。なんで曝さないといかんの?って思うし」

「見られることが嫌なの?」

「見られることそのものってゆうか、男子の水着は着られないでしょ」

「まあ、ねぇ」

「……自覚、したくない、人からもそう見られたくない」

「つっこんだこと聞いちゃうけど、男になりたいってこと?」

言葉に詰まって考え込んだアヲに理玖は詫びようとした。言いたくないことや言えないことは誰にもあるのに。
でも後になってアヲの言うには、理玖の声は特別なのらしい。穏やかでひららかで、その声の中になら何を放っても大丈夫。だからできる限り正確な言い方をしようと黙ったのだ。

「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」

「うん」

「分かるのは...自分を女だと思ったことがなくて、じゃあ女って何?って思って、その思ったものと自分は違い過ぎて、でもみんなからは女だと思われている……」

「男、とか、女とか、どっちでもない感じ」

「あえて、言えば」

「いいんじゃないの」

「自分が、そう思わないものではいたくない。それだけなんだけど、」

「けど……」

「そーゆうのって気持ち悪い?」

「それのどこが気持ち悪いか僕にはわからんよ」

そこでアヲは照れかくしに笑った。
はじめて見た笑顔を、紙をクシュっと寄せたみたいだと理玖は思った。親しみがわいた。

◇    ◇    ◇

舗装が途切れて砂利道を少し行くと、理玖の家はある。遠くに松の防砂林が臨む。
築40年の二階建て。表札は『松下』。

鴻池さんは玄関に出迎えたアヲを見て、スポンと何かの栓が抜けたかのようにポカンとなった。


続く




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