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帰ってきた潔癖症

 普段は鳴りを潜めているけど、心が不安に傾くと出てくる面倒なヤツ。それは、潔癖症。
不安感と肩を組んで、僕を追い込んでくる亡霊のような存在。
その潔癖症に、人格を乗っ取られそうな危機的状況になり、精神のサバイバルライフへと突入したが三月末のこと。
(世の中の状況見ると、明らかにサバイバルの対象が違う・・・。)
これは約2週間におよぶ、何の益もない、潔癖症と自分の悶着の記録です。

さてはじめに、重要なことを言っておきます。
きれい好きと潔癖症は別物です。
きれい好きは、きれいにすることで満足感を得ますが、潔癖症はきれいにしても満足することはありません。
なぜなら、潔癖症の行動の核は、不潔への恐怖だからです。
この恐怖そのものを根絶しない限り、続々と湧いてくる不潔なものへの対処にひたすら疲弊するのみで、達成感や満足感は決して得られません。

自分の苦手とするものー。
人と肌が触れ合うのはもちろん、座席に人の温もりが残っているのも気持ち悪い、体臭や汗のにおいに過敏、コートや上着、ズボンは外気に直接触れるから汚れ物、食事の前に手を洗わない人と同じテーブルに着きたくないなどなど、潔癖傾向をあげるときりがない。
潔癖症なるものを知ったのは、多分、思春期の頃。
自分もそうかも、と思ったけど、同時にマイナスなイメージが降りかかってきました。
潔癖症、カッコ悪い!と思ったわけです。
嫌というか恥ずかしいというか、みみっちい気がして、そうとは認めたくない。ワイルドぶりたいお年頃だったんです。
でも、現実は・・・。
吊革を掴むのにハンカチなんか出してしまった日には、友人に薄笑いを浮かべられるいたたまれなさ。
人が口を付けたものを飲めない食べられない、このちょっと切ない断絶感。
気にしなければ済むことを、気にしてしまうことで生まれる一手間が、チリも積もって面倒くさい生活のあれこれ。
さらに、演劇を始めると致命的な問題が!
相手役に触れない・・・。

もう、この潔癖症とは認めたくない、けども、明らかな潔癖症を克服すべく努力しました。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、潔癖心を騙し騙し、飼いならし、努力に努力を重ねていると、天使が舞い降りました。

劇団に入って打ち解けた頃、仲間と稽古のあと何か食べに行ったんですね。(居酒屋だったかな?)
横に天使が座っていました。
「このラーメン、すごく美味しい♡食べてみてよ!」
と、天使はおもむろに自分の箸ごとすすめてきたのです。
こっちは隣に座ってるだけでお腹いっぱい胸いっぱいってやつですよ。
それが、話しかけてきたよ。
ラーメン食べろと言ってきたよ。
食べかけのやつ・・・。
自分の箸まで貸すのいいの?
麺と汁って、難易度高すぎないか!
「いただきます。」

さすがに箸は自分のを使いましたが、人生で初めて人の食べかけのラーメンを食べたわけです。
これをきっかけに潔癖症は、魔法のようにふわ~と薄くなり、何がすごいって恋ってすごいね。

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おかげで、床に落ちても三秒以内なら食える、というあの伝説の三秒ルールさえものにしました。
サバンナで象の糞を燃料に、野生のネズミを串焼きで食べることさえ厭いません。
でも、人間とは弱いもので、ちょっとメンタルが弱ってくると、気持ちの落ち込みに反比例して潔癖心が上がってきます。
やたらとシャワーを浴び、やたらと上着をファブり、履物までクリーニングに出す自分は、しかし気持ちが上向きになれば姿を消します。
そんなド潔癖な人間などいなかったかのように、また3秒ルールを行使します。
たびたび顔をだす潔癖を、精神不安のバロメータの様なものだと認識し、生きづらいなりに折り合いをつけていたわけです。



しかし、ここ数年ピンポンダッシュぐらいの軽さで済んでいた潔癖症が、パワーアップして帰ってきました。
ピンポンした後、自宅に上がりこみ我が物顔で住みつくヘビーなヤツに生まれ変わって。
ほんと帰って来てほしくなかった。
だって、何も手につかなくなったし、仕事も行けなくなったんだもん。

発端は、ウィルス対策で予防を心がける、というごく当たり前の行為だったはず。
知ってるんですよ。
人間の皮膚には常在菌がいて、諸々の悪から守ってくれるから、洗いすぎはよくないって。
だから、普段だったらある程度で止まるんです。
理性、ありますから。
でも今回ばかりは、止めどころがわからなかった。
当たり前のことを当たり前にやってるだけのはずが、当たり前の終点を見誤った。
手全体と爪の間ひとつひとつ、手首まで入念に洗って、捻った蛇口が汚いような気がして、蛇口を消毒してまた最初から手を洗う。
もう、ウィルスがどうのこうのでなくどこが止め時なのか分からなくて、とにかく自分が安心するまで行為を続ける。
職場にあるものがこわくて、とりあえず全部除菌してまわったり。
潔癖症、完全なる帰還。

その後、罹患していても無症状のまま人に移す可能性もある、という恐ろしい話を聞き、第二段階へ突入しました。
自分はすでにウィルスを持っていて、そのせいで人が病気になってしまうのではーーー!!!
もう、なんかぐあーと頭が煮えてしまう感じで、どうしよう、としか考えられない。
そんな自分が冷静でないことも、やや病んでいることもわかってはいるんです。
でも、ブレーキが効かない。

もともと、気にし過ぎというか過敏な性質なんだろうと思います。
「気を付けて」「うつさないように」「みんな我慢してるんだよ」
などなど、空気を吸うようにそんな言葉を吸い、息を吐くように、
「気を付けないとね」「うつさないようにしないとね」「どこも大変だね」と言い合う毎日。
ニュースを隅から隅までみても安心できることなんてどこにも書いてないと分かっているのに、目を通してしまう。
むしろ脅迫的な行為をやめられない理由を収集して、潔癖症に餌をやってるようなものだったとしても。
感染症対策としてあっているのか否かでなく、安心を(その不確かなものがどこにあるのか分からなくても)得たいがため、過剰に清潔を求める。
さらに、自分が菌をまき散らすという盲信に縛られ、罪悪感に押しつぶされそうになる。
果ては、自分の罹患がニュースになってバッシングをうけるという妄想に及ぶ始末。

それを考えているのは自分のはずなのに、思考力を完全にスポイルされてるという感覚。
潔癖に徹してウィルスを寄せ付けない、のではなく、潔癖がウィルスを餌にして肥大化し、自分を追い詰めていくという図式にはまりこんでしまったことに、その時は気がつきませんでした。
自分が自分でなくて、完全に潔癖症に脳も体も、乗っ取られているようでした。
こんなことしたくない。でも、やらないと不安に押しつぶされそうになる。
疲れた…。
ただ、その状態に疲れていました。
気分転換したくても、外にも出られない、本を読むのも怠い、文を書く集中力もない。
気力は全部、潔癖症と妄想に吸い取られていく。
これでは強迫神経症だ…。
情けないと思いながら、潔癖症のアリ地獄にのまれていったわけです。

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沈む一方かと思っていたところに、光明がさしこんだのは、祖父の形見を見た時でした。
クローゼットの棚のすみっこに、日頃アクセサリー掛けのように、使われている木彫りの布袋(ほてい)さん。
生前の祖父が艶が出るようにと、撫でまわしたせいで良い照りのあるふくよかなお顔。
つるつるした頭も笑んで垂れ下がった目元も、どことなく祖父を思わせます。
子どものころから祖父の整理箪笥の上にあった[おじいちゃんのほてーさん]。
台座の裏側には、家具が傷つかないようにと、祖父が手ずから張った布がまだ残っています。
見えないところに手をかける職人肌の人でした。
手先が器用で頭がよく、ユーモアがあり、驚くほど我慢強い大好きな祖父でした。
その時、クローゼットの風景の一部になっている、形見の布袋さんにふっと手が伸びたんですね。
普段、祖父のことはあまり思い出しませんが、布袋さんを見ているうちにあれほどこわばっていた心が、フッと一息ついたような気がしました。

「あんじゃない。智、あんじゃないで。」

と祖父が言ってくれているようでした。

あんじゃない、とは方言で、おそらく「案じるでない」がなまったものだと思われます。
大丈夫、心配ないという意味ですね。
自分や父母の代では使う人もほぼいない、年寄りの方言です。

祖父がしていたように布袋さんを撫でまわしていると、だいぶ気持ちが軽くなるのがわかりました。
心の中の祖父は、何度でも「あんじゃない」を繰り返してくれました。あれほど、気楽さと心強さをもたらす言葉は、他にないのではと思います。
古い方言である「あんじゃない」は[祖父の言葉]で、祖父はいつも自分の味方でした。
布袋さんが、どれだけすごいセラピー効果を発揮したのか、不思議なほど気持ちが安定してきました。
さすが七福神の一人!
調べたら、布袋さんは度量の広さを意味する神様だそうです。背負っている袋は、一説によると堪忍袋ということでした。
はい、ご利益ありました!
狭量だった心が解され、1、2週間ろくに機能していなかった理性も徐々に戻ってきましたので。

小さいけど面倒な混乱に振り回され、自分はいっぱいいっぱいだったのだと思います。
心の支えとなってくれる人に会えない日々が続いたのも、辛さの一因になったかも。
そこに連日のニュース、不安が不安を育てて、コントロールできなくなっていたのでしょう。
でも、天国の祖父が、つらい時代を生き抜いてきた祖父が
「あんじゃない」
と言ってくれるなら、何はともあれ、あんじゃないと思えるのです。

そんなわけで、このたびの規格外の潔癖症は弱体化しました。
仕事にも復帰し、感染症予防も常識の範囲内になったと思います。
まだこんな日々は続くのでしょうが、早く3秒ルールを謳歌できる日常に戻りますように。



読んでくれてありがとうございます。