見出し画像

22夏旅行記⑪ まぶしいアクロポリスと旅の終わり

1.ふたたび落書きだらけのアテネへ行く

 長かった旅行記も、これでついに完結だ。アテネ空港で一夜を明かしたあと、市内までは地下鉄の3号線(ブルーライン)を使って移動することにした。アテネの地下鉄は引ったくりやスリが多いと聞いていたため、怯えながら車両に乗り込む。しかし車内は清潔で、さほど乗客も多くなく、治安が悪い印象は受けなかった。宿の最寄りモナスティラキ駅Monastirakiまで乗った限りでは、だが。
 どの都市でもそうだが、アテネも同様に「危ない場所」というのが存在する。例えば超中心部であるオモニア広場周辺だ。オモニア駅で接続される1, 2号線に乗っていれば、混雑も相まってスリの危険性はあがるかもしれない。

 モナスティラキ駅を出ると、駅のすぐ目の前には広場がある。観光客向けの屋台が立ち並んでいて騒がしい。広場にはオスマン帝国時代に建てられたモスク(現在は博物館に転用)があり、その奥にはハドリアヌスの図書館跡、ローマン・アゴラが見える。そしてひときわ遠く、高い場所に、切り立つような岩山の上に築かれたアクロポリスが白く輝いている。旅行のはじめにアテネに来た際は、少し離れた場所に宿をとったせいでアクロポリスは見えなかったのだ。 

 ホステルに荷物を置いたあと、1.5キロほど離れたアテネ国立考古学博物館を目指して歩くことにした。街のあちこちに落書きはあれど、午前中なのでさほど不安な印象は受けない。途中、透明なシールドを持った重装備の警察官の集団を見かけた。一体なんだ、と思ってGoogle Mapを見ると、その一角は「反体制カルチャーの集まる場所」だと書いてあった。そんなのあるんだ。近くで小競り合いでもあったのだろうか。

 歴史の殿堂であるギリシャのことだから、当然アテネ国立考古学博物館も膨大な収蔵品で埋め尽くされている。広い館内に入ると、まずはジャブとして先史時代、エーゲ文明の展示がある。それだけでも十分に満足なのだが、とくに見ごたえがあったのはミケーネ文明の出土品だ。開放的なクレタ文明に対し、ミケーネ文明は城壁を築いて武器の製作を行い、戦闘的な性格を帯びるようになったのが特徴とされる。武器だけでなく、貴金属の加工も盛んで、黄金の装飾品や仮面が多く並べられていた。
 また、黄金の仮面も展示されている。これは葬儀用の仮面で、死体の顔の上にかぶせられていたものだ。シュリーマンが発掘した際、英雄アガメムノンの死体であると信じたことから、「アガメムノンのマスク」と現在も呼ばれている。ただ、現在の考古学的調査によると、この仮面のつくられた時代とアガメムノンの活動期は異なるらしい。あくまでもロマンの問題ではあるが。

これも世界史おなじみ線文字B

 エーゲ文明の部屋を抜けると、今度は石像がずらりと並んだ部屋へ出る。あまりにも見るべきものが多いので、ひとつひとつ丁寧に見ていく暇はない。とりあえず手当たり次第に部屋を回っていき、興味のないものはどんどん流し見していく。

飲みサーの墓

 これまで訪れてきた博物館は、どこもスペースを設けて墓石が展示されていた。アテネもそうだ。展示されている墓石には生前の姿が刻まれていることが多く、家族の肖像、友人と握手を交わす場面、一番輝いていたのであろう時期の姿といったものが多かった。特に印象的だったのは、若くして死んだ女性がサイコポンプ(Psychopomp, 死者の魂を導く存在)の役割を持つヘルメスに連れられ、家族と別れて既に死んだ父親が待つハデスへ向かうという図柄だった。これは円柱に彫られており、周りをぐるりと一周することで全ての図柄が見えるようになっている。一場面を切り取ったものなのに、別離の切なさ、そして死後の世界へのまなざしがあまりにも上手く表されていて、しばらくその前でたたずんでしまった。

手を引いているのがサイコポンプたるヘルメス
桑原ポーズ

 一番すばらしいと思った墓石は、海戦で命を落とした兵士のもので、これはアテネの外港であるピレウスから発見された。墓石自体はそれなりのサイズがあるが、故人はその右上に小さく描かれているにすぎない。現在は彩色が落ちているため、彫刻の輪郭からしかその存在を推測できないが、波間に三段櫂船が浮かんでいる。男は船の先に座って、おそらく波間を見つめているのだろう。何を考えているのかはわからないが、どこか孤独と寂寥が滲んでいる。故人の姿が大きく描かれた墓石はいくらでもあるが、こんなに俯瞰的で静謐かつ、美しいものがあるとは思っていなかった。本当にいいものを見れた。

 考古博物館を出た後は、街歩きがてら宿に帰ることにした。途中、冒頭で触れたようにアテネでも要注意スポットのオモニア広場を通った。言うほど危ない印象は受けなかったが、一応いつもより力を込めてショルダーバッグを握った。クレジットカードが使えない今、もし財布を盗られたら終わる!アテネにいる間は、現金をさらに分散させる、パスポートを入れる巾着袋をカバンの中に括りつけて簡単に出せないようにする、などの対策をとっていた。今思うとセキュリティーポーチとか使っても良かったかも。

 宿でダラダラした後、早めの晩ごはんに、宿の近くの(たしかレバノン料理)店でファラフェルを買った。ファラフェルはひよこ豆の小さいコロッケのようなものだが、それを食べやすいようにピタパンで巻き、野菜とソースを入れたものが出された。これもなかなかおいしく、数年前にアテネでブームが起きてからは定番になったらしい。日本でも中東料理店で食べられるが、もっと人気の出る可能性を秘めたメニューだと思う。マリトッツォや台湾カステラがはやるくらいだから。

宿の前にいた猫(滞在中何回も会った)

2.アテナイをひたすらうろうろ

 この日は、いくつかの遺跡を徒歩でまわる日と決めていた。アテネには多くの遺跡があるが、30€の共通券を使えばそのうち7つの遺跡をお得に回ることができる。アクロポリス(とデュオ二ソス劇場)、ローマン・アゴラ、古代アゴラ、ハドリアヌス図書館、ゼウス神殿とオリンピオン、ケラメイコス、リュケイオンといったラインナップで、正直ここは入らなくてもよいかなという遺跡も含まれてはいるものの、チケット購入の行列をカットできるという点において購入する価値は大いにあるだろう。

 まずはモナスティラキ駅の前、ハドリアヌスの図書館から歩き始める。夏の終わりの地中海はずっと天気が良くて、暑さも若干和らいできた時期のおかげで、まったく雨には悩まされなかった。こういう日に外で飲むビールが最高なんだな。ハドリアヌスの図書館はその名の通り、ローマ統治時代、132年に建設されたものだ。ここはあまり見どころがない(説明も少ない)のでさらっと見るにとどめる。
 その向かいにあるローマン・アゴラへ入る。ギリシア期の古代アゴラに対し、ローマン・アゴラは規模が小さい。かつてイタリアに旅行した際に、古代ローマの中心であるフォロ・ロマーノを訪れたが、それに比べるとやはり見劣りはする。古代アゴラのあとに訪れるとさらに小さく感じてしまっただろうから、順番は大切だ。ローマン・アゴラの見どころはアテナ・アルケゲテス門と風の塔で、後者は八角形の塔になっており、風が吹くとトリトン像が風向を示す、というつくりだったという。

風の塔
アテナ・アルケゲテス門

 次は、この日のメインである古代アゴラへ向かった。古代アゴラはアテナイのアゴラとも呼ばれ、まさにアテナイの中心地ともいうべき場所である。当時の裁判所や貨幣鋳造所、祭壇、評議場といった公共施設が集まっていて、あのソクラテスもここで問答を行っていたという。古代アゴラと道一本を挟んだ向かい側には、ストア・ポイキレ(彩色柱廊)の跡地があった。ゼノンらストア派が拠点としていた場所だ。
 広場のようになっているアゴラの端、少し高くなっている場所には神殿が残っている。ドーリア式でパルテノン神殿と似たつくりだが、大きさは半分くらいだろうか。

 こんな立派な柱廊もあったが、これは近年に再現されたものだ。このアッタロスの柱廊は、もとはペルガモン王国のアッタロス2世が寄贈したもので、柱廊の両端には階段があり2階にも上がれるようになっている。

 アゴラからはアクロポリスがよく見える。かつてアクロポリスは宗教的拠点であったが、現在もなお、白く輝く姿からその神聖さを感じ取ることはたやすい。当時はおそらく彩色されていたのだろうが、いったいどんな姿だったのだろう。当時のアテネの住民たちも、ふとした時にアクロポリスを眺めていたはずだ。そういえば、自分の好きな建築家の一人である磯崎新も、アクロポリスについて本を出していた気がする。今度読もうかな。

孔子とソクラテスが対話していた

 アゴラを出て、次の目的地であるケラメイコスへ向かう。その前に腹ごしらえをしておこうと歩いていると、フリーマーケットらしき屋台が集まった一角に突き当たった。小物というよりも骨董品や家具が多いため、なにか買って帰りたかったが持って帰るのが大変なので断念した。しかし見ごたえはあって、古い鍵や燭台、イコンなどが所狭しと並べられている。子供の時に愛読していたミッケ!という絵本があったが、その世界を思わせるような品揃えだ。

 ケラメイコスはかつて陶工が多く住む地区(英語のceramicもここから)で、広い敷地の一部は世界初の国営墓地として使われていたため、現在も墓標や棺が残されている。広い敷地には当時の門や神殿の遺構が残っているが、解説はさほど多くないため、古代ギリシャに興味のある人でなければ退屈に映る場所だと思う。ペロポネソス戦争の戦死者の合同葬が行われた際に、アテネの民主政治の本質をよくあらわす「ペリクレスの弔辞」の舞台ともなった。

アカデメイアへ続く道

 ペロポネソス戦争中、アテネでは伝染病が流行して住民の3分の1が亡くなったという。ケラメイコスからはその死体が葬られた穴が発見されている。また、ペリクレスやクレイステネスなどの指導者もこの国営墓地に葬られている。解説に書かれていなくて場所ははっきりとは分からなかったが、おそらくこの辺りだろう。
 ペリクレスはアテネの最盛期を築き、パルテノン神殿の再建も指導し、民主制の全盛期を象徴する政治家であった。しかし、彼の家庭はあまりうまくいっておらず、和解できないまま2人の息子を疫病で失ったという。そして、先ほど触れた「ペリクレスの弔辞」の翌年に、後を追うように自身も疫病で亡くなった。最晩年はなかなか不遇な日々だったらしい。

3.光り輝く“神々の家” とグルメ

 実質最終日となるこの日は、朝から気合を入れてパルテノン神殿へと向かった。ホステルからアクロポリスのほうへ向かっていくと、同じ目的であろう観光客が続々と合流してきた。アクロポリスはかなりの高台にあるので、当然ながらかなりの坂を上らなければならない。ヒイヒイ言いながら上っていくと、入場口にはものすごい行列ができていたが、共通券があるので入場自体はスムーズに終わった。いざアクロポリスに入る前、横に見えるのがヘロディス・アッティコス音楽堂だ。現在もイベント等で使われているようで、ステージやテントが設けられている。かなり客席の傾斜が大きいように感じる。

 アクロポリスは大理石が白いせいでとにかくまぶしい。もう9月の後半なのに、地中海の太陽は容赦ない。おかげでずっと天候に恵まれていたわけだが、サングラスがなかったら目がつぶれていたかもしれない。

かっこいい

 ついに、旅の最終目的地であるパルテノン神殿とご対面だ。幾度となく写真や映像で見てきた光景だったが、やはり実物を目にすると感動がある。エンタシスの柱を間近で見たが、真ん中のふくらみはよく分からなかった。もっとも、はっきりと分かるほどふくらんでいるわけもないのだが。また、柱はわずかに内側に向かって傾くように(それに対して、神殿の基盤はわずかに凸のような形になっている)建てられているらしい。計算されすぎて怖いな~。
 現在は大理石で真っ白なパルテノン神殿だが、かつてはフリーズに鮮やかな彩色が施されていたという。現在の価値観では「白い方がいいんじゃない」と思ってしまいがちだが、カラフルなパルテノン神殿も見てみたいものだ。
 横にはカリアティードが有名なエレクティオン神殿がある。パルテノン神殿と比べてしまったせいか、意外と小さな建物なのだなと思った。ちなみにパルテノン神殿の周辺はスリが多いらしい。たしかにみんな浮かれて写真を撮るから、スリにとってはやりやすいだろう。

 アクロポリスから地上へ降りたあと、近くのFRESKOという店に向かった。フレスコといえば京都でいつも世話になっているスーパーだが、こっちはヨーグルトの店だ。普段ならわざわざ外でヨーグルトなんて食べないが、せっかくだから本場のギリシャヨーグルトを食べてみよう。ヨーグルトに好みで何種類もトッピングができる形式で悩んでしまうが、おすすめのトッピングのセットもあるので優柔不断でも助かる。今回はクルミとナッツ、メープルシロップのトッピングを頼んでみた。ヨーグルト自体が濃厚でおいしい!もちろん値段もそれなりにしたが……。

 FRESKOからさらにアクロポリスの東の方へ歩いていくと、門が残されている。ハドリアヌスの凱旋門だ。この門を境として、アテナイ中心部とゼウス神殿の地区が分けられていたという。写真の場所から振り返るとちょうどゼウス神殿が見える。肝心のゼウス神殿自体は東ローマ帝国時代に破壊されており、現在はコリント式の柱が一部残されているにすぎない。敷地内に入らずとも十分だが、共通チケットがあるため一応入っておいた。

ハドリアヌスの凱旋門からアクロポリスを望む

 共通券に含まれている7つの遺跡のうち、少し離れた場所にあるリュケイオン以外はすべて訪れたということになる。アクロポリス単体の入場券が20€、共通券が30€だったはずだから、金額面だけで考えると、完全に元はとったというわけだ。
 アテネでやりたいことも一通り終わったので、しばらく街を散策して、まだ昼だがビールを飲む。ギリシャ版焼き鳥ともいえるスブラキを近所の店でテイクアウトした。かなり塩が強い味だったが、それはそれでビールに合う。

猫がずっと狙っていた

 ずっとテイクアウトのギロピタやらファラフェルやらで食事をすませていたので、最後くらいはレストランに入ろうと思い、近場で安い所を探して入ってみた。地中海地域やバルカン半島でよく食べられているムサカを頼んでみる。ナスとジャガイモ、ひき肉とホワイトソースにミートソースも入ったグラタンのようなもので、意外と腹に溜まるしおいしい。頑張れば自分でも作れそうではあるが、材料をそろえるのが面倒で結局作れていないままだ。

4.旅の終わり、生活のつづき

 いざ最終日、と言えども、帰国の途はとんでもなく長い道のりであった。帰りもエティハド航空でアテネからアブダビ、アブダビから仁川、そこまではいい。問題はここから。一番安い航空券を買ったせいで、韓国で22時間トランジットという事態になっていた。このときはまだ韓国入国にはPCR検査が必要で、気軽に入国できるような状況でもなかったため、空港に22時間閉じ込められるというわけだ。なんでこんなチケットを買っちゃったんだろう、と今は思うが、おそらく他に安いチケットがなかったのだろう。

エティハドの機内食は全部美味しい。バクバクバクバク

 仁川空港は大きい空港だから無料シャワーもある。しかし、コロナ禍で無料シャワーは閉鎖されており、体がベタベタで気持ち悪い!洗顔と身体拭きシートでなんとかしたが。それ以外の点では、レストゾーンで充電や横になれる椅子もあったし、Wi-Fiもサクサク動いていたため、かなり空港泊しやすい空港といえるだろう。ずっとiPadでお絵描きをしていた。

かわいいね

 仁川から成田までのフライトのなかでは、機内食としてけっこう豪華なスイーツが出たらしい。乗り込んだ瞬間に爆睡していたため食べられなかった。悔しい。
 幸い、自分が帰国したのは、入国時のPCR検査が必須ではなくなってからだった。出発前からアテネでPCR検査を受けられるクリニックをリストアップしていたが、やはりお金もかかるし、陽性だったときの金銭的負担が大きいから、運がよかったと思う。かなりの距離を歩かされたあと、壁に「おかえりなさい」と書いてあるのが見えた瞬間に、あぁ、旅行が終わったんだ、と思った。仁川空港の時点ですでに日本語の案内は多かったものの、やはり全部の文字が読めるということは安心感に直結する。

 とはいえ、京都にある自宅へすぐ戻れるわけではない。まだギリギリ旅行の途上であった。
 東京に着いた直後、出発前に食べたのと同じ店で、同じネギ玉牛丼を食べた。そして、ちょうど会期中だったゲルハルト・リヒター展を見て、ヘロヘロになりながらもネカフェでシャワーを浴び、カレーを食べて、夜行バスに乗って気絶し、京都駅からさらに市バスに乗って、自室へ帰り着いた。そのときにやっと、旅行という非日常から日常へと自己が引き戻された感覚があった。思えば1ヶ月以上、こんなに自宅(または実家)から離れたことはなかった。長い旅行だった。

リヒター展は素晴らしかった

 旅行記は長くて10記事以内におさめたかったが、結局は11記事、合計数万文字といった長さになってしまった。今後はこうして逐一旅行記を書くつもりはないし、ついつい長くなってしまうから書ききれない。
 
 初めての海外一人旅で1ヶ月以上うろうろしてきたと言うと、周りから「行動力がある」と言われるし、感心されることもあった。しかし、この旅行はただの道楽であったから、とくに誇れることはない。こんなことはやれば誰でもできることだ。他の旅行者のように現地の人とも交流しなかったし、英語も単語だけで乗り切ってしまったし、海外でもホステルでTwitterやインターネットばかりやっていたし、21万盗られたし、さして成長したという実感もない。
 一方で、旅行に出なければ、コソボで感じた緊張やイスタンブールの雑踏、いいかげんなフルゴン、言葉の通じない恐ろしさや孤独感は知ることができなかった。この旅行は信じられないくらい楽しかったし、自分の人生において忘れえぬ日々となった。たぶん、死ぬときにも思い出すことができるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?