読書について考えていたらいつの間にか人生について考えていた

読書に関する本を読んだ。

荒木博行 『自分の頭で考える読書』 日本実業出版社, 2022.

ショウペンハウエル 『読書について』 斎藤忍随 訳, 岩波文庫, 1960.

外山滋比古 『異本論』 ちくま文庫, 2010.

3冊それぞれの書評はいずれ書くつもりであるが、今回はこの3冊を読んでいろいろ考えたことについて書く。

『自分の頭で考える読書』では、「本は読み手によってはじめて命を与えられる」ということが述べられる。ほとんど文字情報のみで構成される本は、映像媒体などと比べて、ある意味で情報量が少ないが、それは情報の受け手にとって五感的、時間的な余白が生まれるということでもある。

つまり、 本には余白があるからこそ、その余白を読者がいろいろな色で塗りつぶしていき、塗りつぶされた色によってその本は新たな生命を与えられていく、 ということです。

『自分の頭で考える読書』 p.63

このような意味で、本というのは非常に自由度の高いメディアです。
行間を読むからこそ、そこには解釈の余地が生まれ、その解釈はその人のオリジナルのものとなる。 つまり、本は「遊びがいがあるメディア」ということなのです。

『自分の頭で考える読書』 p.65

余白が大きいからこそ、本を読んだ時のタイミング、コンテキスト、コンディションなどによって、コンテンツの味わいが変ってくる。つらい時ほど深く刺さることがあるかもしれない。

『異本論』でも似たようなことが述べられる。

文学作品は物体ではない。現象である。読者が新しい読み方をすれば、作品そのものも新しく生れ変る。構成、大多数の読者が、作者の夢想もしなかったような意味を読みとるようになれば、その新しい意味が肯定されてしまうのである。

『異本論』 p.15

本のこの特性について、『自分の頭で考える読書』と『異本論』の両方で、楽譜に喩えているのが面白い。すなわち、楽譜というのは奏者の演奏によって初めて音楽が奏でられるが、本も同じ構図があるという。

『読書について』では、読者が本の内容をそのまま受け取るのではなく、各々の読者が、自身の精神に合わせて、形を変えて取り込むということが述べられる。

読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。その当人が食べたものによって肉体的に生き、読んだものによって精神的に生き、今の自分となったことは事実である。しかし肉体は肉体にあうものを同化する。そのようにだれでも、自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的にあうものだけを、精神のうちにとどめる。目的ならば、もちろんすべての人が所有している。だが思想体系と言えるようなものを所有している者は、きわめて少ない。このような人々は、いかなるものにも客観的興味をもたない。したがってまた、読んだものも、そのままの形では、彼らの精神に付着しない。つまり彼らは読んだものを、何一つそのままの形ではとどめていないのである。

『読書について』 p.137-138

『異本論』ではさらに、本だけでなく芸術全般がそのような特性を持つことが示唆される。

アート(芸術)とは人間的営為によるものの意である。もし”あるがまま”を理想とするならば、アートは否定されなくてはならないことになる。芸術は自然をそのまま模写するから尊いのではなくて、自然に新しい秩序を与える加工を経ているからこそ美しい。

『異本論』 p.105

本は物体ではなく現象である。読み手に読まれ、解釈を与えられることにより、形をなす。これは本だけでなく、この世のあらゆるものについて同じことがいえるのではないかと思った。人間は五感を通じて物体を認識し、感覚器官の反応を脳でとらえ、言語などを使って解釈する。あらゆるものはそのまま受け取られるのではなく、それらが発するメッセージを受信者が解釈することで、初めて意味が付与される。

大乗仏教では、真理(仏性)は万物に宿っているとされる。それを真に悟ったとき、「色即是空、空即是色」の境地に至る。それまでの大乗の教えと異なり、密教では法身(真理そのもの)も教えを説くというが、万物=法身ということを悟った境地においては、それが理解できる。すなわち、万物は認識を介して受信者にその意味を解釈されるので、それが「ある」というだけで、メッセージを発信している=真理を説いていることと同義となる。すべては受信者次第なのだ。

『読書について』では、無闇に新刊に飛びつかずに、普遍的な良書を読むことが推奨される。

したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。(...)むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

『読書について』 p.133-134

一方、すべてが読者次第であるなら、悪書などというものは、本質的に存在しないのではないか。良い・悪いはただの解釈の1つでしかない。

私は常々「働きたくない」といっているが、「労働=悪」という図式も、解釈の1つに過ぎない。絶対悪などというものは存在しない。仕事をしているからこそ、余暇の時間が輝くといった面は必ずある。すべては関係性の中で成り立っているのだ。

読書について考えてみたら、どこか遠いところまで来てしまった感じがする。これは誤読かもしれないが、1つの解釈ではある。願わくばこの記事が新たな解釈を生み出さんことを。

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