頭で理解するだけでは足りない【『唯識の思想』読書感想文】

読書感想文

本記事は横山紘一の『唯識の思想』(Kindle版)の読書感想文である。

唯識思想は大乗仏教の思想である。
西洋哲学でいうところの唯心論の考え方に近く、我々が普段「ある」と考えているすべてのものは実際には存在せず、識(感覚器官など)を通じて「ある」ように認識しているにすぎない、という考え方である。

唯識思想では心(識)は「あるようでなく、ないようである」(位置No.785 など)ものとされる。
上で述べたように一切のものは心から生じるが、それが生じるのは、それを生じさせる何かがあって初めてなされることである。
鉛筆がなければ鉛筆を見ることも触ることもできない。鉛筆があって初めて鉛筆を認識するための感覚器官の存在を確かめることができる。
西洋哲学風にいえば、認識する主体と客体があるとして、それぞれが揃って初めて認識する(される)ことができる。
そういうわけで心というものは独立した存在ではなく、他の何かとセットで初めて存在が認識されるものであるため、「あるようでなく、ないようである」ものとされる。

認識する主体と認識される客体が表裏一体であるということは、仮に私という存在があるとして、それは独立した存在ではなく、他のあらゆるものが存在に依存して存在できる。
今の私が存在できるのは、他のあらゆるものやそれに紐づくあらゆる因果のおかげなのである。

私は大乗仏教がなぜ衆生を救おうとするのか疑問であったが、唯識思想に触れることでその一端を理解することができた。
釈迦の教えは与楽抜苦、苦しみを除き幸福へと至ることであるが、自分の幸福について追求すると、必然的に自分以外のあらゆるものに目を向けることになるのだ。
そもそも唯識思想にのっとれば自分と他者は明確に区別されない。
先にも述べた通り、自分という存在は他のあらゆるものとセットで成り立つ。
他のあらゆるものも同様に、自分の影響を受けている。
あらゆるものが他のあらゆるものの因果で成り立っているため、それらは本質的に独立して存在しえない。

私が仏教に興味を持ち始めたきっかけはおそらくCOTEN RADIOの仏教をテーマにしたいずれかの回だったかと思う。

  • 世界三大宗教を創ったレジェンドたちのぶっ飛んだ生涯!【COTEN RADIO #32】

  • 三蔵法師・玄奘 ― 終わりなき知的探究の旅【COTEN RADIO #79】

  • 最澄と空海 ― 悟りを開いた男達の生涯【COTEN RADIO #132】

それまで宗教というものは非科学的な時代遅れのものという認識だったが、これは全くの誤りであった。(※1)
仏教について調べてみると、その思想がかなり綿密な論理で組み立てられていることがわかってくる。

そして何より、仏教を含めたインド哲学全般について特筆するべきことは、頭で理解することだけではなく、身体知も重視していることである。
私は仏教について軽く学んだ程度にすぎないが、幸福に至るプロセスについて理屈の上では理解できる。
さらに学びを進めればより深く理解できるようになるだろう。
しかし頭で理解するだけでは悟りに到達することはできない。
我々が普段、それをすることがどんなに素晴らしいことだとわかっている道徳的・倫理的規範(人にやさしくしましょう、お酒はほどほどにしましょうなど)を容易に無視しがちなことからも想像できよう。
真理に到達するためには、知識をインプットするだけでなく、修行を通じて身体知を獲得する必要がある。
教義を実践して初めて、教義の意味が真に理解できるようになる。
修行とは、釈迦のコンテクストを理解しようとする行為なのだと思う。

コンテクストを理解することについて思いを馳せる。
我々は普段、学校や職場など様々なコミュニティの中で、それらを構成するメンバーとコミュニケーションをとっているが、はたして彼らのことを本当に理解できているのだろうか?
彼が放つ何らかの一言を、その言葉の上辺は理解できても、彼のコンテクストを理解できていない以上、真の意味では理解できていないといえる。
唯識思想にのっとり考えてみると、相手を理解することは本質的には不可能なのではないかと思う。
最初に述べた通り、唯識思想では、あらゆるものは心に生じるものである。
私が認識している世界は私の心のうちだけに存在し、彼が認識している世界は彼の心のうちにだけ存在する。
お互いの世界が交わることはない。ゆえに真に理解することはできない。
これはある意味で悲観的なことであるように思えるが、そうではない。
お互いの世界観が異なっているという共通認識を持つことが大切なのだと思う。
お互いの世界観が異なっているからこそ、すれ違いもするし、まして相手をコントロールすることなどできない。
そう思えば、相手に過度な期待をしなくなる。これは相手に対する執着が消えることに繋がる。

話を戻そう。本質的に他者を理解することができないだろうということは先に述べた。
では、修行が釈迦のコンテクストを理解しようとする行為なのだとすると、その修業に果たして意味があるのだろうか?
私はあると思う。職場の同僚のことを真に理解できなくても、仕事を進めるためのコミュニケーションがとれるように、釈迦のコンテクストを真には理解できなくても、その一端を知ることはできるだろう。
釈迦の世界観と私の世界観は異なる。ということは、私には私専用の悟り方があるのではないかという考えに至る。
そのヒントが修行にあるというのなら、いっちょ修行してみっか!という気分になる。

私は1年ほど前から、「なぜ働くのか」という問いから出発し、「幸福とはなにか」、「自分とはなにか」について考え続けている。
『唯識の思想』に出会ったのはそのような経緯からである。
「それが何であるか」の探求者として学者になる道を考えていたが、その他に実践者としての道が示されたことが本書を読んだ学びであった。
いずれ本当に出家するかもしれない。

注釈

※1
そもそも現代社会が近代以降発達した自然科学という「宗教」に過分に依存しているという見方もできる。

参考

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