ダ・ヴィンチ子宮全摘出手術9 術後1日目・後半
ダ・ヴィンチという手術支援ロボットを使って、子宮全摘出手術を受けた。
34歳の5月半ばのこと。
歩く練習
「歩く練習をしてみたいんですが」
ベテラン看護師さんに切り出してみた。
歩けるかよりも先に、早く尿の管を抜いて欲しい、その一心だった。
「そうね、ずっと寝てるのも良くないからね」
キャスター付きの点滴スタンドを手元まで持ってきてくれた。
「ハンドルと手すりを掴んで、ゆっくりいこうね」
尿の管を気にしながら、腹の創をいたわりながら、尻でずりずりと移動しベッドの端から足をおろす。
裸足のまま、上靴を履く。
手術後からつけていなかったマスクをつける。
点滴スタンドのハンドルとベッドの手すりに、両手をそれぞれのせた。
左手の甲に点滴が刺さっており、あまり力いっぱい握れないので、親指の付け根あたりで点滴スタンドのハンドルを押さえた。
せーの、と誰に合図するでもないが、腕にグッと力を入れて重い身体を引き上げる。
腹部の、へその水平ラインから胴体が上下に引き裂かれるような痛みが一瞬走った。
我慢、がまん。
ベッドの手すりを掴んでいた手を、点滴スタンドに移す。
これでようやく、2本の脚と点滴スタンドだけに体重をかけて立つことができた。
重力がずっしりのしかかってくる。
「あ、立てた」
率直に声に出てしまった。
「おー、立てたね!歩けるかな?」
日頃褒められることなどないから、褒められると嬉しくなる。
ほとんどすり足で狭い歩幅だが、一歩前に出てみる。
腹部にじわっと痛みが広がり、無意識に眉根が寄った。
「そうそう、ゆっくりでいいからね」
一歩、また一歩、一歩。
起動直後のASIMOのほうがまだ素早くてなめらかな動きだ。
巨人がドシン、ぎくしゃくしながら進む。
次の足に体重を移すときに腹部が特に痛む。
こんなにも歩けなくなるものか。
「病室のドアのすぐ外まで行ってみようか」
これまで歩いた距離の2倍だ。
うぅ…と小さく呻きながら進む。
お腹が痛いのもあるが、尿の管が気持ち悪くて足さばきが悪くなっている。
歩けるようにならないと管も抜いてもらえない。
病室のドアの敷居を越えた。
このドアのすぐ隣にトイレのドアがある。
「ここまで来れたら、トイレも行けるし、歯磨きもできるね」
こんなちんたら歩きに付き合ってもらって申し訳ないくらい。
看護師さんはみんな忙しいのに。
「こんなに近いのに、すごく遠かったです…」
「もうちょっと頑張れば、ロビーまでお水汲みに行けるよ」
「ちょっとずつ頑張ります」
尿の管をはずす
「歩けるみたいだから、おしっこの管も取っちゃいましょうか。それ、気持ち悪いでしょ?」
「はい、お願いします」
またかたつむりのようにゆっくりと時間をかけてベッドまで戻る。
ベッドに腰掛け、最大まで起こしたベッドに背を預けて、ゆっくりと仰向けになった。
看護師さんはゴム手袋を穿き、尿のバッグ側の管の端を何やら指で弾く。
そのたびに尿道にぴんぴんと振動が響き、瞬間的に耐え難い不快感に襲われた。
管に入っている尿を出し切ろうとしているのだろうか。
膀胱の側が急に、吸い出され減圧するような感じもあった。
最後の最後でそんなに丁寧にしなくてもいいですよ…。
前の手術のときなんか、先生に勢いよくぶっこ抜かれても何ともなかったんですから…。
最後にカテーテルが引き抜かれるときの、ツーンとした感じがとても嫌。
これならお腹の創がズキズキするほうがずっとマシだ。
管が全部抜かれた。
股間が清々しい。
「お産パッド外しますね。パンツはどこにしまってる?」
「上の棚の、左に、カーキ色のバッグがあるので、その中から出してもらえますか」
仰向けになってしまうともう身動きがとれなくなってしまうので、こうしたことは代わりにお願いするしかない。
カーキ色のバッグを出して開けてもらい、あれこれパンツを見せてもらう。
看護師さんが適当に取り出しながら、「これ?どれ?これにする?」と見せてくれる。
「あ、じゃあ、それにします」
無印良品のグレーの無地の縫い目がない、ごく普通の地味なパンツにすることにした。
子宮のない身体で最初に穿くパンツは、きみだ。
「おすそからまだ少し出血があると思うんだけど、ナプキンとか持ってきてる?」
「あ、あります。下の棚の、上の段に黒いビニール袋の中にあります」
「えーと…これ?」
どれだけ出血しているかわからなかったので、とりあえずは多い日昼用を出してもらうことにした。
お産パッドを尻の下から引き抜くのは簡単だったが、痛くて上がらない尻にパンツを穿かせるのはちょっと大変だ。
お腹の激痛に耐えながら、ちょっとずつちょっとずつパンツをずり上げる。
あ、そんなに動かしたらちょっとおならが出そう。
「パジャマも取り替えちゃうねー」
上下に分かれた、いつもどおりの病衣が用意された。
うわ、また穿くのか…。
下半身パンツ一丁で病棟をうろつくわけにもいかないので、頑張って穿くしかない。
寝たままどうにか穿けたけども、これは長座の状態のほうがやりやすかったのでは、と思う。
ベッドを起こして上も着替える。
ノーブラだけどまあいいや。
「また何かあったら呼んでくださいねー」
これが15時ころのこと。
手術から丸一日で、手術前とほぼ変わらない状態に戻ってしまった。
急性期を脱したということだろう。
着替えの後、初めて自分の腹部を見た。
醜く恐縮であるが、手術のガスが多少残っているのかなんなのか、とにかくお腹がぽんぽこぽんであった。
痛みで腹筋に力が入れられないというのもあろうが、こんなにお腹が膨らんでいるのは経験がない。
おへそに脱脂綿が詰められ、ラップのようなテープで塞がれている。
また、創はへその左右に2ヶ所ずつ。
計5つの創がお腹に残された。
このばんそうこうの下は、どうなっているんだろう。
輸液が終わり、点滴も一時的に止めることになった。
これで点滴の管を気にしながら移動しなくてもいい。
ただ、針が刺さっていることには変わりがないので、手をつくときには充分に注意しなければならない。
変なしゃっくり
昼食後あたりから、変なしゃっくりのようなものが出ることに気がついた。
厳密にはしゃっくりではないのかもしれない。
胸で少し息を吸い始めると、突然「ひっ」と声になるくらい勝手に息が引き込まれる。
腹腔鏡を使った手術では、お腹の中にガスを入れて膨らまし、ドーム状にして視野を得ると聞いた。
その際、横隔膜が押し上げられるのだという。
このしゃっくりもどきも、横隔膜がうまく戻っていないからなのではないか。
呼吸のときに少しずつ下がるべき横隔膜が、加減を忘れて急にガバッと下がるから、一気に息を引き込んでしまうのではないだろうか。
特に困ることもないので、ひとまずはそのままにしておこう。
肩の痛み
「腹腔鏡手術の後、肩が痛くなることがあります」と主治医から事前に説明があった。
その痛みが、午後になってやってきた。
痛いというほどひどくはないが、肩こりのようにずーんとぼやーんと重苦しい。
これも横隔膜が関係しているらしい。
寝ているときはほとんど気にならないが、身体を起こしていると、肩や背中が重たい。
胸で息を吸うのも少し苦しい。
かといって、腹式で呼吸をすると創口が広がるようでとても痛い。
息苦しくならない程度に、浅く胸式呼吸をするしかない。
首を回しても、腕を回しても、全然楽にはならない。
あまりにひどいときは湿布を出してもらえるそうだけれど、そこまで苦しくはないからほっといてもよさそうだ。
『あれよ星屑』
術後最初の読書に選んだのは、漫画『あれよ星屑』。
病床で生と死を見つめ直そうと思い、電子書籍を再び開いた。
一度読み通したが、気持ちの塞ぎそうな今こそ読みたいと思った。
手術というのは軽い臨死体験からの蘇生のような部分もある。
生き延びてしまった自分と、作中で死んでいく人々。
背を起こしたベッドの上で、静かに泣きながら読んだ。
翌日まで読み続けることになるが、全編通じて胸に迫るものがある。
これはぜひ皆さまにもお読みいただきたい。
夕食の時間
生きながらえてしまった私には、夕食が与えられる。
全粥、味噌汁、かつおのふりかけ、卵焼きのかにかまあんかけ、じゃがいもとにんじんの煮物、ほうじ茶。
お粥がまだ続く。
めんとパンを禁じられていることをこのとき知った。
相変わらず、放屁はとめどなく続いていく。
もう歩けるのに、テーブルを引き寄せてベッドに寄りかかりながら食べるのはさすがに行儀が悪いだろうと思い、頑張ってベッドの端に腰掛けた。
箸を棚から取り出す動作も一苦労。
手を合わせ、いただきます。
お粥が結構飽きてくる。
ふりかけをかけても、お米の甘さが勝って、少ししつこく感じてしまう。
昼よりも身体が慣れてきたので、夕食は完食。
点滴スタンドに頼りながらよちよちと下膳に行ったら、看護助手さんに「言ってくれれば取りに行ったのにー」と言われた。
少しでもいつもどおりの動きに戻りたかった。
この夕食後から消炎鎮痛剤の服用が始まる。
最初は2錠。
その後からは、毎食後1錠になる。
トイレが近い
尿の管を外してもらってから、約1時間ごとに小用に立った。
痛かったり出にくいこともなく、順調にジャージャーと出る。
骨盤周りをいじることで、排尿障害が起きないかとずっと心配だった。
しかし、この様子を見ると、杞憂だったようだ。
それにしてもよく出る。
尿意を感じてトイレに行くけど出ない…ということはなく、トイレに行けば行くだけ排尿がある。
なるべく水を飲むようにしているが、それでも普段のペースを上回る。
まだ長い距離を歩けないので、ロビーにも行けていない。
コップに水を汲めないため、持ち込んだペットボトルの水を注ぐ。
明日あたりから、ロビーまで行ってみようかな。
検温に来た看護師さんに尋ねてみた。
「ものすごくトイレが近くなったんですけど、鎮痛剤飲んでるせいですかね?」
「うーん、それはないかな。点滴でかなり液入れたから、そのせいかも。鎮痛剤は関係ないかなー」
ひとまず原因がわかって安心した。
ずいぶん心配性な患者だと思わせてしまっただろうか。
面倒臭いやつですみません。
ちょっと出血
もうひとつ、出血のこと。
体内で切り離した子宮と卵管を膣から取り出し、膣の奥を縫っている。
その創がある程度ふさがるまでは、多少の出血があるという。
着替えのときにナプキンをつけたが、トイレに行くたびに色をチェックする。
うっすらピンク色で、量も多くない。
鮮やかな生き血でなければ大きな心配はないという。
「だいたい3日間くらいでおさまる人が多いかなー」
と看護師さんは言う。
あと数日はナプキンとのお付き合いだ。
体内や膣はさっぱり痛くない。
しかし、お腹の創たちは、動き始めのときにきまって痛む。
「あの、創口のところ、動くと結構痛いんですが、実はひらいていたりとかしません…?」
とおそるおそる看護師さんに尋ねてみると、
「大丈夫!開いてたら今ごろ大出血して血圧下がりまくりだから!あはは!」
一笑に付されてしまった。
安心した。
痛いけども順調に塞がっている。
そして看護師さんは強い。
前の晩、あまり熟睡できなかったので、ものすごく眠たい。
痛む腹を押さえて屈みながら歯磨きを済ませ、早々に床に就いた。
一晩前と、仰向けになったときのお腹の楽さが全然違う。
昨日から色んなことが起こりすぎて、時間の感覚が掴めなくなる。
今夜はゆっくり眠れそうだ。