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見たくなかったものと、生きる意味ー死にがいを求めて生きてるの

⑭『死にがいを求めて生きてるの』 朝井リョウ 3/5

俺は、死ぬまでの時間に役割が欲しいだけなんだよ

――日常に倦んだ看護師、承認欲求に囚われた大学生、時代に取り残されたTVディレクター。

交わるはずのない彼らの痛みが、植物状態の青年・智也と、彼を見守る友人・雄介に重なるとき、歪な真実が露わになる。

自滅へひた走る若者たちが抱えた、見えない傷と祈りに触れる物語。
『死にがいを求めて、生きてるの』朝井リョウ


居心地が悪い


いつからか、朝井リョウが書く物語に居心地の悪さを感じるようになった。

理由の一つは言葉を過剰に感じるようになったこと。
修飾がいちいち多くて、細かすぎる。
人の話を聞いている時に、ふと意識が逸れてどうでもいい細かいこと(相手の口の動きとか、髪のハネとか、顔の形とか)にいってしまうことがあるけれど、あの感じを無理やりねじまれるような。物語の筋にちゃんと集中したいのに、全然関係ない細部に無理やり注目させられるような。

今回も冒頭の

友里子は、空いた席に腰を下ろしながら、ふくらはぎを座席から少し遠ざけた。

という一文で、早くも朝井リョウの「あの」文体や、と思ってしまった。本題は変化のない毎日への飽きの感情なのに、まず意識が主人公の身体が感じる熱さ、という物理的なものに飛ばされる。
そっちじゃないよ、本題に集中させて、と思ってしまう。



もう一つの理由はより本質的なことで、彼の物語の登場人物たちと同じ年代になったことだ。

『桐島、部活辞めるってよ。』『何者』『何様』『少女は卒業しない』『もう一度生まれる』『時をかけるゆとり』『ままならないから私とあなた』『武道館』
今までに読んだ朝井作品

自分はゆとり世代を自称する朝井リョウの一つ下、世代でいうとさとり世代になる。
だからか、中学生で彼の作品を読み始めた時、物語の登場人物は自分より少し上の年代で、朝井リョウが彼らの行動、内面を通してえぐってくる痛みに無頓着でいられた。
でも、社会人になった今では、『死にがいを求めて生きてるの』の主要な登場人物である大学生たちの思想、感情、行動が身に覚えがありすぎて、朝井リョウが彼らへ向ける視線は直に自分へと突き刺さる。


朝井リョウは見たくないもの、蓋をしているものを無理やり引きずり出して光の下にさらしだす。
それに対して居心地の悪さを感じるのは、自分の中にもその要素があるから。

無邪気に振る舞っているように見せかけたい、っていう打算とか、全然そんなもの気にしませんよ、っていうフリをしてきっちり存在している承認欲求とか、謙遜しつつ心の奥では特別だと思っている自意識とか。

そういう、「触れないで、気づかないで」と願っているもの、奥に隠しすぎて自分でも無自覚になっているものを鋭く突いて、引きずり出して、「皆さんここにこんなに汚いものがありますよ」とさらされる。
そんな居心地の悪さがある。

しかも、その対象が『何者』では冷静な分析者の立場で”意識高い系”をこっそり見下す主人公の、実は失敗が怖くて、何もできない自分がばれるのが怖くて、行動することすらできていなかった弱さ、プライドの高さを標的にしたくせに、
『死にがいを求めて生きてるの』では理想のために行動を始め、社会にも問題提起する、世間的に見れば「よく出来た」若者の背後にある承認欲求や自己肯定感の低さを炙り出し「ほら、いくら立派なこと言ったって結局これって他人じゃなくて自分のためにやってるんでしょ」と標的にする意地悪さ。

行動した人も、していない人も、標的になる。

でも、これこそが本人が後書きで語ったような、「すばらしさの裏にある地獄をかき分けて見に行ってしまいたくなる習性」で、彼の作品をかたちづくる本質だとも思う。

悪口の内面化、生産性の罠、生きる意味



他者に向けた悪口は、その思考を内面化するが故に自分に返ってくる。

めぐみが同級生に向けていた「自分のためにしか生きていないやつら」という負の視線は、抱える事情が変わって自分が”そっち側”に行きそうになった時に、ブーメランのように自身にはね返って来て身動きを取れなくさせた。

「生産性がない人は価値がない」とホームレスを、失業者を見下す人は自己や病気で意図せず自分が”そっち側”になった時、かつて自分が向けたヘイトが(本当にそう思われているかはわからないのに)他人から向けられている気になって、病む。

高校の部活の先輩が引退式で言っていた言葉を思い出す。

人を指さす時って、指3本は自分に向いているから、人に放った言葉って結局自分に返ってくる。

前後の文脈は忘れたけれど、このフレーズは今でも覚えているくらい印象的で、本当にその通りだと思う。



自分のためだけに生きる人生は価値がない

とは思ったことはないけれど、

生きているだけでいい

とも思えない。


何か、成長がほしい。目標と、それに向かって頑張っている自分、がほしい。誰に、かはわからないけれど漠然と認められたい。すごいと思われたい。

ヨルシカのsuisさんがラジオで話していた、人生に対する考え方が好き。
「生きているだけいい」と思えなくなった”生産性の罠”へのひとつの回答だと思う。細部は忘れてしまったけれど、このようなこと。

やりたいことは今やらないと、と生き急いでいたら、20歳になる頃には何もやりたいことがなくなってしまった。
でも、自分には何もなくても世界はこんなに美しいから、その美しさを受け取ることが生きる意味になった。

自分には何もなくても、世界には溢れる程あって、それを惜しみなく与えてくれる。生み出すことだけじゃなくて、受け取ることも意味にしていいんだ、と初めて知った。

「焦るって何?」


智也に対する与志樹の質問。
「友達が兵役に行くって聞いたら焦る?」
智也の回答。
「焦るって何?」

兵役に行くこと=わかりやすく社会に貢献すること、社会的意義のあることをすること、が与志樹の優先順位の上位で、でも智也にとっては違うから、焦るという感情自体が理解できない。会話が嚙み合わない。

自分にとってもこの価値観は優先度が高くないから同じ状況になったとして別に焦ったりはしないけれど、これが「友達が地方に引っ越してカフェ/本屋/畑/保育園/地域おこし協力隊を始める」って聞いたら、めちゃくちゃ焦る。

自分にとって優先順位の上位は、自分の意思で住む場所、働く場所を選ぶこと。それを先に叶える人が、しかも身近にいるってなると、なんであの子にはできて自分にはできへんのやろう、って焦る。
焦るのは、自分が同じステージに立ちたいから。
自分も同じフィールドで輝きたいと願っているから。

手段の目的化と人間の商品化


手段の目的化。
何かを「する」のではなく、何者かで「ある」ということ。

それが雄介にとっても与志樹にとっても大切だったからこそ、ジンパ復活運動もレイブも、その行為自体が目的化して本来その先にあったはずのジンパの復活や社会変革がどうでもよくなってしまっている。

「他人に順位付けされる痛みはなくなったけど、自分で自分に点数を付ける哀しさが始まった。」智也
「毎秒休まず自己否定し続けてきた。」めぐみ

他人に否定されない代わりに自分で自分の否定を始めてしまう。
これが朝井リョウの言う「自滅」か、と思う。
どれだけあなたらしく、と言われても結局は人との比較でしか自分の立ち位置を測れない。

「変な思想に染まって大金払ったけど洗脳から目覚めた人」になればその経験をウリにして金を稼げるんだよ、っていう雄介の思考にぞっとした。
あまりにもその人固有の「経験」「思想」がウリにされすぎて、とにかく人と違う、目立つものであれば中身は関係ない。

後書きのインタビューで、秋葉原の事件を起こした死刑囚が言っていることと同じだ、と思った。人間の商品化。

どれだけ「生きているだけでいい。ありのままでいい。」と言われても救いきれない何かがこの作品には反映されている、と後書きで書かれていた。
「その人にどんな価値があるのか?」を重視する人間の商品化と、商品としての自分を高める営みの中で「何者かである」ことが最優先となってしまう手段の目的化。
この二つは不可分で、彼の言う「救いきれない何か」を構成する要素な気がした。


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